2003年9月の日記
9月1日(月)の昼

 僕がTAをしているクラス「意思決定論」の教科書の一つ、Donald G. Saari. 2001. Decisions and Elections: Explaining the Unexpected. Cambridge University Press. を読んでいます。この本は先生超オススメの本で、学部レベルの政治学における社会選択論の教科書の定番としてはWilliam H. Riker. 1982. Liberalism Against Populism: A Confrontation Between the Theory of Democracy and the Theory of Social Choice. Waveland Pressがありますが、それよりも良いとのことです。確かにライカーの本はただ漫然と、デモクラシーの理論に反する結果を導いてしまう決定ルールの例をいくつも広く浅く解説しているのに対して、このサアリ本は確固たる問題意識のもと、割と深くしかし平易に各定理や前提の意味やその現実的インプリケーションを説明していきます。ライカーの本が緩いテーマでくくられた「短編小説集」なのに対して、サアリの本は「長編推理小説」の趣があります。
 まずサアリは、具体例として1998年のミネソタ州知事選挙を出してきます。この選挙においては、元プロレスラーのジェシー・ベンチュラは37%の得票を得て当選しました。しかしサアリが言うには、総じて保守的なミネソタ州民の約60%は、経験を積んだ伝統的政治家を望んでいた、つまり有権者の約40%だけがベンチュラ>二人の候補者の選好を持っていたのに対し、残りの60%は二人の候補者>ベンチュラという選好をもっていた。つまり、もし1対1で選挙をしたらベンチュラはどちらの候補者にも負けていた、とのことです。過半数の州民は伝統的政治家を望んでいたのに、結果としてベンチュラのようなそうでない候補者が当選する、このことをサアリはデモクラシーの理論からして問題だとします(多数決ルールによる結果は、州民の選好を正しく反映していない、ということ)。そして、どうすればこれを防げるのか、と問いかけます。
 そこでサアリが導きの糸とするのが、有名なアローの定理。アローの定理とは以下のようなデモクラシーの理論からして欠かせないとされる特性が全て満たされたとき、独裁者が発生するという非常に衝撃的なものです。まず第一に、「有権者は厳密に推移的な選好をもっている」。これは例えばりんごがぶどうより好きで、ぶどうがみかんよりも好きなら、必ずりんごがみかんよりも好きでなければならない、ということで、つまりデモクラシーの理論が要求する「合理的な有権者像」を表しています。第2にこの合理性の範囲で、「有権者はいかなる選好ももつことができる」。これは、りんご>みかん>ぶどうでも、みかん>りんご>ぶどうでも、どのような選好も持つことが可能である、ということです(ただしそれぞれの場合、りんご>ぶどう、みかん>ぶどうでなければならない)。第3に、「決定ルールはbinary independenceを満足している」。これは、例えば3つの選択肢があったとして、有権者の一部がその選好において二つの選択肢の順位を入れ替えることによって、社会的決定におけるもう一つの選択肢の順位にまで影響が出てはいけない、ということです。例えばフィギュアスケートの採点において、最後一人の競技者を残して2位、3位だった選手たちが、最後の競技者の得点によって順位が入れ替わったことがあったそうなのですが、これはbinary independenceを犯しています(つまりフィギュアスケートの採点ルールはbinary independenceを犯している)。そして第4に、「決定ルールがParetoを満たしている」。Paretoとは、A、B、C、Dの選択肢があったとき、全員がA>Bなのに、社会選択の結果はB>AだったときParetoは満たされていないといえます。
 これをサアリは、現実の民主政治における選挙や決定を見て、「実際独裁者はいない」ということから話を進めます。「独裁者はいない」ということはアローの定理からすれば、以上の4つの条件全てが満たされていないということになります。例えば、前述のベンチュラの件は明らかにParetoを満足していないのです。それではどうしたら良いか…。実はまだここまでしか読めていません。まだ2章の途中です。この後、アマルティア・センなども引きつつ、議論が展開されるようです。
 このようにただ漫然と、概念を説明するのではなく、それがなぜ必要かを理解させた上で説明するという点が優れた本だと思います。やはりライカーは政治学者、このサアリは数学者という違いもあるのでしょうか。ただし、内容は大学院における政治学の社会選択論の定番教科書の一つであるDavid Austen-Smith and Jeffrey Banks. 1999. Positive Political Theory I. The University of Michigan Press.の2章までを薄くカバーしたくらいのもののようです。

9月2日(火)の昼

 僕がTAをしているクラスの二回目。僕は単に学部生たちに混じって座って先生の授業を受けているだけなのですが、感心することがあります。それは学生たちが、教科書に書いてあることや、学者の言っていることに「それは違うんじゃないか」と自分の説を述べることです。日本の学生だったら、教科書に書いてあることや学者の言っていること(特に数学関係)は、たとえ疑問に感じても、まず間違いないだろうと受け入れてしまいそうなものですが、アメリカ人の学生は、「僕はこれよりもっと良い方法を思いついた」と得意そうに言ってきます。その意見はたいていアホなものですが、先生も真剣に受け答えします。やはり、間違ってても自分の意見を言うということに価値を置く文化なのかなあと思いました。まあ、単に教科書を読んでいなかったり、人の話を聞いていないだけかもしれませんが。
 しかし、この先生の授業はなかなか面白いです。ギャグや実際の政治の例も盛り込んで、学生を楽しまそうと努力している姿がすごく見受けられます。僕がUTに入ったときはこの先生について「気難しい」とか「変わってる」とか「厳しい」とか、同級生や先輩からネガティブな意見ばかり耳にして、授業をとらない方が良い、とまで言われたことがありますが、いざ2学期間接してみて、これらの意見は大抵が間違っていると思うようになりました。確かにこの先生は変わっているし、学生理解に少し問題がありますが(学生が理解できない所を理解していると思ったり、反対に学生が理解している所を理解していないと思ったりが多い)、それはどの先生にもあることです。それよりもこの先生は熱意と誠実さという点では非常なものがあります。考えてみればこの先生について悪い話をしていたのは、全員がこの先生と直接のかかわりが無い学生で、やはり、そういうのはアテにはならないようです。逆に言うとこの先生がそういう評価なのも、直接知る学生が少ないというのにも原因があるのでしょう。先生によると、UT政治学部で「フォーマルセオリスト」としてPh.D.をとった人は10年前が最後で、その人は今、デューク大学政治学部でテニュアをとって教えているそうです。

 ところで今日は10時頃まで学部生図書館で勉強していたのですが、その時間でもキャンパス周辺は結構な人数がまだいます。もちろん図書館で勉強をしている人もいれば、ウェンディーズで食事をしている人、スタバでだべっている人も。充実した勉強を終えて帰るこのひと時は、なかなか良いものです。しかし、まだ学期が始まったばかりなのに、この学部生たちは一体何を勉強しているのでしょうか。考えてみればどうして日本の学生よりもこうやって遅くまで学校に残って勉強している割合が高いのでしょうか。宿題が多いから?。それともテスト対策をコツコツやっている?。学生はそういうものだ、と思っているから?。何かとりとめが無いですがふと思いました。

 とりとめが無いですが、先日、友人と「留学生の奥さんの韓国人女性は総じて美人だが、留学生の韓国人女性はそうではない」ということを美容整形と韓国の儒教的価値感をからめつつ、議論していたのですが、どうなんでしょう…。

9月4日(木)の朝

 今日は珍しく日本の政治について語りたいと思います。日本の若手政治家は若者の代表か!?、ということです。9月2日のZAKZAKの報道によれば、亀井静香自民党衆議院議員は自民党総裁選への立候補を表明し、公約を掲げて戦うそうです。その公約はだいたいにして衝撃的なものなのですが、中でも「70歳以上に年間400万円を支給」というものがあります。より詳しくは、社会保障政策の見直しで「政府トータルの支出として70歳以上に年間400万円を支給する」ということのようですが、いずれにしても年寄り相手の人気取り政策です。老い先短い政治家が老い先短い国民に対して国の将来を省みず利益を供与する、その結果犠牲になるのは未来の世代、これが現代日本政治の一つの大きな枠組みです。
 僕の観察によれば亀井氏のような年寄り政治家は、往々にして年寄り世代が「日本をここまで発展させてきた」などと持ち上げ、老後は苦労させないという言い方をします。これが「プロジェクトX」などという番組の主人公と自分の人生を重ね合わせて追憶に浸ってそれを心の支えにして余生を過している人たちの心をつかんでいるのです。こういうことを年寄りの政治家がするのは、ある意味、彼らはそれらの世代を代表しているのだから、仕方のないことかもしれません。
 しかし問題は、若手政治家。彼らは年寄りの走狗でしょうか。彼らは選挙区の年寄り有権者を前に、「かわいい孫」を演じようとします。例えば僕が地方議会議員についてインターンしていたとき、別の二世若手議員が質問に立つとき、地元後援会からバスがチャーターされ、年寄りたちが歌舞伎見物のノリで、議場の傍聴席に陣取ります。そして質問では、二世政治家はまず第一に年寄りの功労を強調し、そういう人たちは大切にしなければいけない!と訴え、傍聴席からは涙ぐんだ年寄りが拍手を送ります(もちろん警備員に止められる)。そして孫の学芸会の発表を見に来たノリの支持者たちは、自分の「孫」への支持をより強固なものとするのです。昨今の日本の家庭では往々にして、年寄りは家族、そしてときに孫からさえ「自分は虐げられている」と感じています。それがこの「孫」はどこまでも自分のことを思ってくれるのです。可愛くないはずがありません。また若手政治家、あるいは政治家志望者のHPを見てもそこには、「消防団員」であったり地元の祭りの積極的参加者であったり、昨今の平均的若者像からは多少ずれたようなことでアピールしています(こういう人たちは、政治から離れてもそういうことを喜んでするのか、と問いたい)。要するにこれも年寄り向けに「かわいい孫」を演じようとしているのです。
 しかし、それでは一体誰が若者の利益を代弁するのでしょうか。現在の所、真の若者の利益の代表者たる政治家はいないのではないかと思います。現在の不況のしわ寄せは何よりも若者に来ています。就職難で若年失業率はここ10年で倍に達しました。フリーターの数も急増しています。僕は何も年寄りの議員にこの問題をどうにかしろ、と言っているわけではありません。人間は基本的に自分の世代の利益、自分が生きている間の利益しか考えられませんし、それは何も悪いことではありません。そうするならば、若者の利益は若者が代表しなければなりません。ただ問題は、若者は投票に行かない、ということ。つまり若者を相手にしては選挙には勝てない。だから前述のとおり若手といえども年寄り相手にしないといけないのです。結果、年寄りの利益ばかりが代表されてしまいます。森前首相は「ゼネコン」と「老人」優遇の政治を記者から批判されて「だってしょうがないでしょ、土建屋と年寄りしか選挙に行かないんだから」と正直に答えましたが(僕はこの「正直さ」という点では森前首相はすごいと思います)、まさにそれがゆえに若者の利益を代弁する政治家が生まれないのです。
 若者の利益代表を作る、そのためにはつまり若者を政治動員しないといけません。極論ですが、僕はここは一つ年寄りへの敵意を煽るような煽動家タイプの過激な若手政治家志望者が出てくるべきだと思います。「年寄りには何も感謝することはない。経済発展だって全部俺らを食い物にしてやってきたことだ。あんたらの世代は偉くもなんともない。俺たちだってあの時代に生まれれば同じ事を成し遂げたさ」、「いつまでも上の方にいついてないで、とっとと引退して、俺らに職を譲ってくれ」などと主張しつつ、年寄りからみていかにも「悪そう」で、でもカリスマ性があってみたいな人が。要するに日本の政治はもっと世代間対立が激しくなるべきです。
 あともう一つの可能性として僕が思うのは、やはり自民党三世議員たちです。小泉首相が昔言っていたのは「本当に政治をするためには、三世議員じゃないとだめだ」ということです。つまり初代や二代目くらいでは選挙区の地盤が弱く、再選を考えるとあまり思い切った行動がとれないということです。小泉首相は三世で、それがゆえに当選確実な強い地盤をもち「郵便事業の民営化」などというラディカルな主張を長年にわたって続けられたのです。そういう三世議員が、本当に日本にとって良いことは何か、というのを考えたとき若者の利益代表となることを期待したいです。

…すいません以上の文章は単なる書き散らしです。推敲も構想を練ることも何もなく、今日朝起きたら急に書きたくなったので…。

9月5日(金)の夜

 今朝、病院に行った母から電話があり、腎生検の結果を教えてもらいました。結果は、思ったよりも腎臓の組織の病変が進んでいて、悪くなっているとのことでした。予定されていたステロイド治療も効果が無いだろう、ということで取りやめに。別の薬と食事療法と安静な生活でこの状態をできるだけキープしようということになりました。最悪想定主義の僕としては何となくそうなんじゃないか、と思っていたのですが、まあ仕方がありません。治ることは無いのは随分と前から分かっていたことです。それにしても自覚症状もないし変な病気です…。とにかく今、日々こうやって元気に過せることに感謝しつつ、一刻も早く学位をとって日本に帰れるように努力するのみです。

9月8日(月)の夜

 この数日間は、少し精神的に引きこもっていました。といっても肉体的には全然引きこもってなくて、むしろ体を動かしたいという衝動に駆られてチャリを走らせました。少し冒険をしようということで、オースティンでもあまり治安がよろしくない、といわれる地域に行ってみることに。もちろん日中です。大学を抜けてI−35という高速道路をくぐると、とたんに雰囲気が殺伐とし、そこから南東に向かうにつれどんどんおかしくなってきます。行ったことありませんが、まるでアラバマやミシッシッピなど深南部の黒人居住区です。荒た街角、そして家屋に黒人がたむろっています。交差点にはなぜか黒人たちがヒマそうに突っ立っています。ハエがたかっている犬の死体が道路に放置してあります。ここが同じオースティンか、と思われるような場所です。以前読んだ統計によるとオースティンの人口の12%は黒人で、また人口の19%が貧困ライン(poverty line)以下の生活をしているそうです。大学周辺にいると、黒人や貧乏そうな人たちの存在はほとんど目につかず、これらの人々はどこにいるのかと思えるほどですが、こういう場所に固まって住んでいるようです。ちなみに大学の学生数に占める黒人の割合は約3%で大きく過小代表されており、それというのも大学がアファーマティブアクション反対の立場から90年代に2回訴えられ、州の裁判所がその両方に「アファーマティブアクションは違法」との判決を下したためです。チャリで走っているうちは良いのですが信号などで待たされているときは、何となく居心地の悪い気がします。ついに絶えかねて、あまり奥の方に行く前に、また道が細かくなる前に針路変更することに。途中、好奇心から、夜にはオースティンで唯一売春婦が立っていると言われる地域も通りましたが、そこはあんまり大したことなく、コロラド川に無事抜けました。結局、思ったよりも走ってしまって、合計10キロ以上はあったと思います。帰ったらすっかり疲れてしまいました。

 それと前、ebayで競り落とした、古着のチャンピオンのリバースウィーブ・スウェットが無事届きました。60年代ビンテージとのことでしたが、タグを見たら明らかに70年代の青単色タグ。プリントも写真では分かりにくかったものの、微妙に思っていたのとは違います。それでもこれは7000円弱の価値ありと見ましたが、いずれにせよ古着をネットで買うのはリスキーそうなので今後はもうしないと思います。

 あと今日、今学期の授業の登録変更をし「政治学における目的と方法」のクラスをやめ、「時系列分析」のクラスをとることにしました。来学期のコンプにむけ、より効果的だと思ったからです。「政治学における目的と方法」は毎学期開講されているし、どちらかというとコンプを終った後のプロポーザルを書くのに適しているクラスのようです。TAはもはめど氏。彼に習うのは日本での院時代の勉強会以来です。

9月9日(火)の夜

 言わずと知れたことですが、政治学は特に近年、経済学の影響を強く受けています。僕がアメリカに留学したのは、そういうタイプの政治学を勉強したいと思ったからです。でも正直未だに、修行が足りないのか、経済学の考えに基づく政治学には違和感が拭えません。例えば、経済学のアプローチから日本政治の諸問題を分析した好著、井堀利宏、土居丈朗.1998年.『日本政治の経済分析』.木鐸社には、「一般的に、全ての人が強制的に投票させられる場合に実現する結果と同じことが、多くの有権者が棄権するときにも生じるとすれば、そうした棄権は良い棄権である」(同書46ページ、強調は水口による)と主張されています。なぜなら、同じ決定を下すのに社会的コストが少なくてすむからです。確かに、efficientかどうか、を判断の基準に考えるのなら、そうでしょう。この他にも経済学の立場からの政治論では、地方自治体が独自色を出すことで、例えば税金が低くて福祉も低い町とかその逆の町に住むかを選ぶという「足による投票」論や、「投票率は下がるだけ下がれば良いんだ。それで一票の価値がある程度まで重くなったり、本当にやばくなれば人は投票するから」とかいう議論があります。
 しかし、政治ってそういうものなんだろうか、と僕は思ってしまうのです(別にこの議論に違和感を感じない経済学者が「異常」だとは言いませんが)。僕はやはり極論を言えば、ハンナ・アレントが言うように、「仕事」や「労働」といった生理的動物的要求に基づく行為ではなく、公的な場で活動する、つまり政治に参加するという人間に固有の活動によって、初めて人間は人間になれるなどという、ナイーブな理想論を唱えたいのです(ちなみにハンナ・アレントの著作では有名な『人間の条件』よりも、フランス革命に比較してのアメリカ革命の高邁さをひたすら唱えた『革命について』の方が面白いです。ただしこの本は人によっては、亡命ユダヤ人のアレントがアメリカ人に共産主義と戦うことの正統性を与えるために書いたということです)。僕は結局のところ「良い棄権なんてない!」、「政治に参加したり、関心をもつのは良いことなんだ!」と主張したいのでしょう。
 こういう考え方と経済学の考え方の違いというのは、やはり経済学が「近代」の思想を背負っているというのがあるのではないかと思います。近代において、自然権の思想が生み出され、それまで(古典的)自然法の秩序の一部としてそれに沿って生きることを要請されていた人間が、それぞれ自分のことについては自分で決める権利があると考えられるようになりました。端的に、人間に対しては自然や神の秩序によって定められた満たすべき「徳」の要請があったという高い道徳的次元から、「他人に迷惑をかけない限り何をしても良い」という低い道徳次元に引き下げられました。これはつまり、ロールズ(もちろん彼は現代の思想家です)の政治思想に色濃く見られるように、古代には重なっていたはずの、「善」と「正義」の区別が発生したということです。各人は、「他人に迷惑をかけない」という正義のルールを守る範囲においては、どのような「善」を追求しても良い、と(ロールズの正義の第一原理は"Each person is to have an equal right to the most extensive basic liberty compatible with similar liberty for others."というものです)。つまり経済学を始め近代の学問(science)は、「善」についての考察を棚上げ、あるいは価値相対化することで成り立っているのです(でもだからこそ発展した)。
 こうした状況に憤りを覚えたのが、アメリカの保守思想の大御所、レオ・シュトラウスです。彼はアリストテレスなど古代の自然法思想に依拠して、善の問題について考察しました。なぜ善の問題にこだわったのかというと、一説には彼自身、当時最も権利が認められ、革新的だったワイマール共和国の体制がナチスを生んだというのを目の当たりにしたからだ、という説があります。つまり善と正義を切り離して、個人の権利に基づく一定のルールさえ守っていればOKだという価値相対主義が、悪であるナチスを生み出したというのです。絶対的に善いものは善いし、悪いものは悪い。いくら言論の自由があって思った事を発言する権利があるからといって、弾圧すべき「悪い」言論はあるということです。もちろんこれは諸刃の剣であって、去年フランスの高級紙ルモンドに掲載され、アメリカの新聞や、日本では加藤尚武氏が産経新聞紙上に紹介した論文によると、こうしたシュトラウスの思想が、現在アメリカ政治に多大な影響力を行使していると言われている「ネオコン」の思想背景だそうです。つまり彼らはアメリカのリベラルデモクラシーが世界で一番絶対的に善いと信じ、それを世界の国々に押し付けることに何の躊躇も無いとか…。
 要するに、僕が言いたいのはここまでクドクド述べた割りに単純で、政治の場合、社会的コストかかる、かからないとかに良い悪いの基準があるのではなく、もっと別の次元に善悪の基準があるのではないか、ということです。カネがかかっても良いことは良いし、カネがかからなくても悪いことは悪いのです。「最大多数の最大幸福」を旨とする近代固有の思想、功利主義は政治哲学の世界では批判されるようになって久しいですが(といっても再評価の動きも最近ある)、この思想が未だに経済学では普通のことなのです。政治というより人間性を扱う場にこれをもちこむこと、そこに僕の違和感の原因があるのではないかと思います。政治学の場合、そこに実証分析との分業はあるでしょうが、単なるコストの問題を超えた善の問題について考察するのは欠かせないことなのではないかと思います(だからこそ、政治学部には「政治哲学専攻」があるのでしょう)。
 正直僕は経済学者に対してコンプレックスと憧れがあります。でもそれ以上に、政治哲学者に対してコンプレックスと憧れがあります。もちろん僕はそのどちらにもなれないのですが、むしろ経済学の尻馬に乗ろうとしているのがなんか皮肉っぽいです。今の時代に、政治学を勉強するというのはなかなか複雑なようです。

 読みにくい、訳のわからない文章、すいません…。

9月11日(木)の夜

 今日はテロから丸2年です。大学ではワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだ、アメリカ中部時間午前7時46分に式典があったようですが、それに参加したWさんによると、参加者の数は大変少なかったそうです。やはり、人々の関心は薄れ行くものなのでしょうか。かくいう僕も、行きたいとは思っていたものの、すっかり寝坊してしまいました。

 昨日はアジア研究学部で行なわれた「日本セミナー」というのに行ってきました。これはだいたい1学期に2、3回ある催しで、文学、政治、文化などの日本研究者を招いて講演をしてもらうというものです。今回の講演者は、政治学部とアジア研究学部の助教授である、日本政治の先生。ついこの間、半年間の日本での在外研究から帰られたばかりで、その成果に基づくプレゼンとのことでした。テーマは「郵政事業の民営化」について。聴衆にほとんど政治学関係者が無いこともあってか、話の内容は大変ベタで、要は地元の名士である特定郵便局長と郵政族の政治家と郵政省の「鉄の三角形」が改革を阻んでいるというものでした。例によって、僕は質疑応答の時間に質問をしました。「日本は1980年代に中曽根首相のリーダーシップのもと、国鉄と電電公社を首尾よく民営化したけれども、郵政事業民営化の場合今のところ上手くいっているようには見えない。国鉄と電電公社の場合と比べて、郵政事業の場合に固有の困難があるのですか。先生は特定郵便局長たちの影響力を強調されましたが、僕はそれが全てではないと思います」というこれまたベタなものです。要は「世論はどうなんだ」ということを言いたかったわけです。セミナー終了後にも個人的に、少し陰謀論めいていますが、「アメリカ政府が郵政事業民営化に向けて小泉首相にプレッシャーをかけているんじゃないか。世界一の預金額を誇る日本の郵便貯金が自由市場に流れることをアメリカの銀行や証券会社は望んでいるんじゃないか」と聞きました。先生によるといわゆる「ガイアツ」は無いものの、そういうこともあり得るということでした。
 あとこのセミナーには、UTで在外研究中の日本の大学の先生が出席されていて、セミナーの後、他の二人の日本人大学院生とともに食事に行きました。この先生は、専攻はいわゆる「政治学」ではないものの、選挙学会の理事をされているなど僕とも近い分野のようです。

 それと、今日TAのリストを見て気付いたのですが、2つ上のインド人の先輩の名前が無くなっていました。この人は僕が今のアパートに住むきっかけとなった人で、隣の隣の部屋に住んでいます。と、思って部屋の前に行ってみると、表札(この人はなぜかかけていた)が無い。そういえば、先学期には「しばらくインドに帰るかもしれない」と言っていたので、実際にそうしたのかもしれません。この先輩は3年目の最初にコンプに合格したのですが、その後プロポーザルで苦労し、結局5年目になる現在も書けていないようです。「5年でPh.D.が取れないのなら辞める」と常々言っていたので、本当にそれを実行したのではないかと心配です。
 僕が言うのも偉そうですが、この先輩が苦労した原因としてはやはり、計量的手法の知識の欠如とプライドの高さにあるのではないかと思います。コンプに受かってから、彼の専攻であるアメリカ政治の分野では計量的手法を知らないことは大きなデメリットであることに気付いたらしく、彼は僕と一緒のときに回帰分析のクラスをとっていました。最初の授業から「宿題を一緒にやろう」と僕を誘ってきて、一緒に勉強会をしたのですが、なんかおかしい。僕ばかりがしゃべって議論にならない。要するにこの先輩は統計学のことが何も分かっていなかったのです。宿題も結局僕の丸写し。でもインド人特有のプライドの高さ故か、決して「宿題を写させてくれ」とは言わないし、「数学が苦手」とも言いません。勉強会には宿題の途中経過を持ってこず、ただ「家にある自分の答えと確認したいから、タケシの宿題を貸してくれないか」とか、僕はワードで答えを書いていたので、ひどいときには「そのファイルをくれ」と言ってきました。それで僕が何度も、「そんなことしてないで、ちゃんと勉強した方が良い」と忠告しても、「数学なんて簡単なことやるだけ時間の無駄だ。こんなのやればすぐできるんだから」と言い返してきます。そのくせ他の学生や先生の前では「数学ができない」なんてことは決して悟られないように振る舞い、授業では最前列で先生の話にうなずきながらノートをとっています。その後も折にふれて、僕に博士論文で使う計量分析と称して、色々アイデアを持ってくるのですが、おかしなものばかり。数学コンプレックスの裏返しなのか、例えば「政党組織=人材+金+アイデア」みたいな感じで、無理に数式で表さなくても良いもの、あるいは表せないようなものを数式で表そうとして、とても「計量モデル」とはいえないようなものを持ってきます(この点は僕も人のこと言えませんが!)。
 彼はインドでも名門の学者一族に生まれたそうで、祖父はオクスフォードで学位をとった最初のインド人で、ガンジーと一緒に働いたとか、おじはコロンビアで教えてただの、別の親戚はインド工科大学の数学教授で有名な教科書を書いたなどと聞かされました。そして最後の方には「UTなんか僕が来るべきところじゃないんだ。こんなところはクソだ。学生も教授もみんなバカだ」とまで言っていました。他の学生とも孤立を深め、特にアメリカ人の学生を「人種差別主義者」呼ばわりし、それに「へつらう」韓国人の女学生をバカにします。彼はプライドの高さと、それに見合わない現在の境遇、自分の能力とのギャップで苦しんでいたようです。彼のパターンとは限らないにしても博士課程の学年が進むうち、多かれ少なかれ彼のように精神的に不安定になったりすることがあるようです。僕はどうなるのだろうか…。

 あと、アメリカの大学に提出された博士論文のデータベースがインターネット上にあるのですが、それで人の名前で検索するとタイトル、年、ページ数、アドバイザー名などが出てきます。例えば、アメリカで学位をとった日本人の先生の博士論文も出てきます。それでヒマ人なことに、ハンチントンとかライカーとかの大御所や、有名な政治学者、UTの先生方などの名前を入れて検索していたのですが、博士論文の枚数にかなりバラツキがあるようでした。まず政治学の博士論文の枚数としてはざっと見た限り200〜300枚というのが一番多いようです。なんか思ったよりも少ない気がします。でも僕のUTでのアドバイザーの先生の博士論文(経済学)は100ページちょっととさらに少なく、計量分析を使う別の先生の博士論文(統計学)に至っては46ページです。ちなみに聞いた話では、昔イェールの政治学部に正味2ページの博士論文(もちろん数理系でしょう)が提出されたことがあったそうですが、これは結局受理されなかったそうです。また反対に枚数が多いのでいうと、見た中ではUTのクオリテイティブなアプローチの先生の800枚ちょっとというのが最高でした。やはり研究手法によって枚数は大幅に違いがあるようです。最後に、最近僕のアドバイザーの元で博士論文を書いた人のを見ると、124ページ。枚数的には修士論文くらいのような…。

 なんで今晩はこんなにたくさん書いているかというと、要するに現実逃避です。時系列分析難しい…。差分方程式の意味がわかりません。

9月12日(金)の夜

 昨日古着屋に行ったらすごいものを発見しました。ビッグEのリーバイス・ジージャンが36ドル。色も状態もサイズも最高でまさに王者の風格。インターネットで調べたら日本では3万円代後半で売買されているものです。よっぽど買おうかと思いましたが、ジージャンは自分では着ないのでやめておきました。ちなみに色落ちの悪いフツーの現行モデルのジージャンは29ドルです。「アメリカ人は価値をわかってないなあー」なんて一瞬思ったのですが、よく考えると日本人が変な価値を付け過ぎているのかもしれません。やれビッグEだの赤耳だのランナーズタグだの隠しリベットだの(←これらの意味がわかるひとは古着好きですね)変なディテールにこだわって、その分価値を吊り上げる…。しかし一方で、アメリカの方が高い古着もあります。例えばDieselとか、最近アメリカで流行のAbercrombie & Fitch。現在正規の店の店頭に出ていればいるほど、また新しければ新しいほど高いです。つまり、日本人が古着に変な価値を付けているのではなく、単に日本とアメリカでは古着を見る基準が違うということのようです。日本は「骨とう品」としての古着なのに対して、アメリカは「中古車」としての古着とでも言えるのかもしれません。

 どうやらカレッジ・フットボールのシーズンが始まっているらしく(今日で2試合目?)、今日は朝からチームカラーを来た人たちでキャンパス周辺はごったがえしています。僕の付近にも違法駐車の車が大量に発生しています。そんな中、僕は例のごとく図書館に行ったのですが、試合中でも思ったよりも人がいます。途中ユニオンのカフェテリアに寄っても、フットボールの試合を映すテレビの前にはせいぜい2、3人が見ているに過ぎません。やはりアメリカ人でもフットボールに関心が無い人も少なからずいるようです。そういえば去年、UT対テキサスA&Mのホームゲームのチケットを僕にくれたアメリカ人の友人も、フットボールには関心が無いとか。彼はスポーツパッケージという、テキサス大学のスポーツの試合のチケットが抱き合わせで入っているパッケージを買っていて、大概の人はその中に含まれる普通では入手困難な4枚のフットボールチケット目当てなのですが、彼は違うそうです。僕も大学スポーツには全く興味が無いのですが、やはり将来後悔することになるのでしょうか…。

9月14日(日)の夜

 昨日は、もはめど氏夫妻、Wさん、そしてエンジニアリングの日本人大学院生の方とで、政治学部の日本人助教授の先生の家におよばれに行きました。もちろん食事制限があるので少量ですが、すごい良い肉を堪能しました。しかも夜中の2時まで話し込んだりも。先生から聞いた話では、ブッシュの女房役として影で彼を支えていたブッシュの政治顧問、カール・ローブが僕の同級生になっていたかも知れないとのことでした。というのも、もし2000年大統領選挙に負けたら、ローブは蓄えも十分あることだし、政治学の博士号を取得すべく、UT政治学部博士課程に入学する予定だったそうです。ローブは根っからの共和党員で学生時代は政治活動に熱中し、UTを中退。1973年に共和党全国委員長だったブッシュ・シニアの特別補佐官になり、そのときにブッシュ・ジュニアと知り合いました。ブッシュの78年の下院選挙を手伝うものの敗北。しかしその後、彼は81年にオースティンに政治コンサルタント事務所を開設し、次々にテキサス州に共和党の議員を誕生させ、94年にはブッシュをテキサス州知事の座に押し上げ、それ以後はブッシュの最も信頼する政治顧問となりました。彼はブッシュ政権において、ホワイトハウス内や関係省庁の会議に全て出席できる権限をもっていて、また彼はブッシュのスピーチの内容や、どこで、いつ、誰と会うかなど大統領の細かなスケジュールの指図もしているということです。まあ悪く言えば「政治屋」「選挙屋」ですね…。

9月15日(月)の夜

 留学当初なら「アメリカどうなってんだ!?」とこの日記に書いていたような困ったことでも、最近はほとんど書かなくなりました。もちろん去年の秋のように別の部屋のメーターをもとに電気料金が請求されていた、というようなことは一大事ですが、どうも最近は小さなことに関しては、「アメリカでは当たり前」のこととしてあまり気にならなくなったようです。例えば、つい先日もフルーツパンチ、ストロベリー、ラズベリー、ピーチ、オレンジの5種類の味が入っているはずのキャンディーの袋詰を買ったところ、内容量の50%がストロベリー、40%がピーチ、オレンジが8%、そしてなぜか1個だけレモンが入っていました(個別包装の袋にそう書いてあったので間違いない)。フルーツパンチとラズベリーはゼロ個。また、ネットで注文したTシャツが注文してから2週間たったのに着かないどころか、発送したとの連絡も無いので問い合わせたところ、UPSのトラッキング番号を今更のように教えてくれ、チェックしたら一週間前に配達済みになっていました。しかも受取人には謎のアメリカ人らしき名前が…。この問題は未だに解決していません。

9月16日(火)の夜

 明日の夜にある授業が、先生が明日から学会でドイツに行く都合で今朝の8時からになりました。いつも7時過ぎには起きているので、苦にはならないかと思いきや、やはり朝8時からだと頭が働きません。朝一番から授業を受けるのは高校のとき以来です。でもよく考えればフツーに働いている人たちはこの時間帯からバリバリやっているわけで、学生が長いと思考が堕落するもんだ、なんて思ったりしました。
 で、その授業が終ると休む間もなく、僕がTAをしている「意思決定論」のクラス。この授業は途中に「ジョークタイム」というのがあって、数学で疲れた頭をリフレッシュさせます。でも先生の「誰か面白い話は無いかー!?」との問いかけに、誰も答えません。それで先生は「質問でも良いぞー」と言うと、マジメそうな白人の女子がすっと手を上げ、「どうして先生はいつもそんな格好なんですか?」と質問しました。実に的を得た質問です。この先生は60歳代ですが、教授にしては超カジュアルな格好で、いつもジーンズにTシャツ、そしてハイテク系のスニーカーを履いています。しかもTシャツのバリエーションは4つくらいで、ジーンズに至っては、僕はこの先生を見るようになって1年半くらい経ちますが、1種類しか見たことがありません。おそらく他の院生たちも気になっていたし、何かしらの違和感を感じていたのでしょうが、そこはやはり大人。誰も聞こうとしたことはありませんでした。それをこの無邪気な女子学部生は単刀直入に聞いたのです。先生の答えは「機能的だからだ」ということでした。「服なんてどうでも良いんだ。この仕事には服装は関係無い。院生の頃からずっとこのスタイルだ。機能だけで選んでいる。Tシャツもほとんどが新入生オリエンテーションの手伝いをしたりしたときなんかにタダでもらったものだ」と言います。そして「他の教授はどうか知らんが、君らはその点良い線いってるぞ」とTシャツ、短パンが定番の学生たちの笑いを誘います。その点、僕なんかはまだ服装に気を使ってお金を割と使ってる分、研究者志望としてはダメなのかも知れません。でも少し弁解すると、僕の場合それくらいしかお金をかける趣味が無いのです。車も持ってないし、食べ物や外食にはあまりこだわりがなくお金をかけないし、音楽もあまり聴かず(先学期の終わりに8ドルでCDラジカセを買いましたが)、テレビも見ないし、パソコンやインターネットにもお金をかけない(接続はダイアルアップ)。服を買っているといっても月にすれば20〜30ドルなものです。まあでもこの先生の場合、何か特別にお金をかけているようなことがあるのとも思えませんが…。
 その後、午後も授業があったのでそのまま大学にいようかと思ったのですが、頭痛がして一旦家に帰りました。で、何となく血圧を測ると、上が100を切っています。僕はずっと高血圧(腎臓が悪いと血圧が高くなるし、血圧が高いと腎臓が悪くなる)で、夏休み前なんかは上が170くらいあったのですが、薬のせいでえらい変わりようです。でもこれって低すぎないのかなあ…。

9月19日(金)の朝

 昨日は、作るように言われていた「意思決定論」の試験(通常の中間、期末は無く学期中3回ある)をもって、先生の所に行ってきました。今回の試験は社会選択論が範囲です。20問中15問がOKで、5問は作り直し。でも先生は一応気に入ってくれたみたいで、すごい褒めてくれました。「僕は30年くらい教えているが、今までTAに試験問題を作るように頼んだことは1度も無い。キミが初めてだ。それは僕がキミを信頼しているからだ」とまで…。まあこの先生は、授業でも学生の興味を引いたり、モチベーションを上げたりすることを、職業として半ば割り切りつつも、かなり熱心にやる先生なので、これもその一環かもしれませんが。
 試験の話が終った後、社会選択論についての雑談に。先生は基本的にずっと社会選択論についてやってきて、ここ数年はもう分野的に限界に達していると感じていたものの、最近になって新しい可能性に気付いたそうです。それで、その新しい可能性について「キミが興味があるかどうかは、わからないが」と前置きした上で、少し話してくれました。結果、内容は僕にはちんぷんかんぷんでしたが、どうやらコンピュータプログラミングがどうの、ということのようでした。そして、「もしこの分野が興味があるんだったら、色々助けてあげることができる」と言ってくれました。良い先生です。もし僕が数理プロパーの人だったら、またとない申し出でしょう。でも残念ながら数学が苦手な僕には有り得ない話です。おそらく、僕はサブスタンティブな政治のことについてなら、まだかろうじてマシなペーパーを書ける可能性があるでしょうが、統計手法や数理分析などでそれなりのペーパーを書くことなど僕には絶対に不可能なことなのです。
 ところで、政治行動の分野では60年代にキャンベルらや、コンバースが有権者の能力について疑問を呈して以来、いわゆる「有権者の合理性」の問題が大きなトピックとなってきました。最初は、コンバースが指摘した「有権者は政治的に無知で、民主政治理論が要請する判断能力を備えていない」ということに対して、「そんなことはない、無知じゃない!」という反論が生まれましたが、どうも旗色が悪く、その後「有権者は無知だが、判断力はある」という議論が出てきました。この流れには二つあって、一つは有権者は様々なヒューリスティクス(heuristics)やキュー(cue)など、正しい判断をする上での簡便法を用いることで、有権者はあたかも「完全に情報が与えられた」(fully informed)かのように行動できるというもの。そしてもう一つは有権者は基本的に二つに分けられ、一つは「真の意見」をもち政治をよく理解し、正しく行動できる人たち。そしてもう一つは完全にランダムに態度を決める人たち。これらを個人のレベルで見ると有権者は大多数は後者なため、無知なように見えますが、集計データで見た場合には、ランダムな意見のブレは相殺されて、真の意見のみが代表されるようになり、これはかなり政治的なイベントに正しく反応しているように見える、というものです。
 この議論は現在まで続けられているのですが、ここでとり立たされている「合理性」という言葉には何かすっきりしないものがあります。何が「合理的」であるかをめぐっては、この議論に参加している政治学者の間で総意が無く、人によっては妙に倫理的な定義を与えたり、日本での合理的選択理論に批判的な人たちが勘違いして言うように「計算できる能力」ととらえ、「人間はいつも計算しているわけではない」とか言ったり、はたまた「完全情報の想定が…」などととんでもない方向に議論が行ったりします。これはひとえに「合理性」という「なんだかすごそう」で論争的なコトバの多義性によるものではないかと思います。でも少なくとも社会選択論の文脈では合理的な有権者は単に「transitiveな選好をもつ有権者」ということであり、要するに政治的な選択肢を自分の好きな順に並べることのできる有権者はみんな合理的だと言えるのです。でもこれは意外に簡単なことではなく、例えば「小泉純一郎よりも小沢一郎が好き、小沢一郎よりも菅直人が好き、菅直人よりも小泉純一郎が好き」というのは、ありそうですがこれは非合理的と言えます。
 こうした有権者の合理性をめぐる議論を数理分析の人が見たとき、「お前ら、勝手なことを言うんじゃない」というよりも、半ばあきれ気味に見ているのではないか、という想像がつきます。実際、事の発端のコンバースが去年書いた論文では、「こういうのは有権者の合理性うんぬんの話では無いんではないの?」と疑問を呈していますが、たぶんそうなんだと思います(ちなみにコンバース自身は今まで一度も有権者はrationalかどうか、などという言い方はしたことがない)。しかし、この前は「経済学の善悪基準を政治分析にもちこむな!」とか言っていた一方で、このように「政治学は合理性を勘違いしてるのでは?」と言ってみたり、つくづく僕はタンブリング・マンだなあ、と思います。まあ今の時代に政治学を勉強しようとするものの宿命みたいなもんでしょうか…(←大げさ)。

9月20日(土)の夜

 実は木曜日提出だった時系列分析のクラスの宿題をまだ出せていません。問題はJohn H. Aldrich. 1980. "A Dynamic Model of Presidential Nomination Campaigns." APSR :74, 651-669. に出てくる差分方程式を使った分析の誤りを指摘せよ、というもの。理論的なマチガイではなく完全に数学的なマチガイだそうです。この先生はオルドリッチの弟子にあたる人で、先生が博士課程1年目にオルドリッチの授業をとったときにこのマチガイを指摘したのだそうです。TAをしている「意思決定論」のテスト問題を作る締め切りでもあった木曜日以降は、もっぱらこの問題にばかり取組んでいるのですが、今晩になってようやく自分なりの結論に到達しました。1st orderの同時方程式としてオルドリッチは解いているが、実は違う、もっと多い、という単純なものなのですが…。まあこの答えではないにしても、もうどうでも良いという感じです。白紙で出すよりもマシだろうと。

 全然関係ありませんが、僕が愛読している『文藝春秋』の9月特別号で、作詞家の阿久悠氏は、自分自身の罪として、「アイドルという言葉を矮小化させた」こと、「美少女のイメージを五年に二歳ずつ若くしていったこと」があるとしたうえで、「アイドルとは、ジョン・F・ケネディや、エルビス・プレスリーや、石原裕次郎らに使われていたものを年少歌手専用にしてしまったし、美少女もかつての文学作品に登場してくるのが十九歳であったものを、十五歳にも十三歳にもしてしまった」と述べています。アメリカでは少し前、「アメリカン・アイドル」という一般人のオーディション番組があって、大人気だったのですが、優勝したのは太った黒人のおっさんでした。「お前がアイドルか!?」とツッコミを入れたくなるような人だったのですが、何か納得がいった気分です。

9月23日(火)の夜

 近頃忙しく、久しぶりの更新となります。今朝ようやく僕が作った「意思決定論」の最初の試験に先生からOKが出ました。明日これを政治学部の事務室に提出します。また昨日提出した、時系列分析のクラスの宿題が早速今日の授業で返って来ました。結局不正解で「B」。ただしどうも正解した人は誰もいないようで、僕の隣に座っていたこのクラスで数学が最もよくできるうちの一人であろう同級生も同じく「B」をくらっていたので、あんまり心配することではないのかもしれません。先生による正解の解説は非常にわかりやすく、納得できるものだったのですが、僕にとってみれば「そんなん分かるわけねーよ」というシロモノでした。普通、政治学者はそんな所気にも留めないような部分(といっても論文の主張の妥当性を見る上では重要)で、こんなん指摘できるような人はよっぽど数学が好きなんだろう、というくらいです。思うに僕は数学をやる上での、厳密さへのコダワリ、几帳面さが決定的に足りないようです。ノーテーションにもっと気を使え、とのコメントが書いてありました。

 明日の「比較政治行動」の授業のためのリーディングをしています。テーマは「政治的洗練の原因」。大雑把に言って、人が政治的に洗練される(politically sophisticated)ためには、教育か知能のどちらが重要か、という議論です。先生自身は「知能が重要」派で、その手の論文が政治学の分野以外から指定されているのですが、中にすごい「トンデモ」なものがあります。「ある程度知能が高くないと教育しても無駄」という主張で、中身は差別的なことばかり。例えば「潜在的な職業」として知能(IQ)が高い順から低い順に、「弁護士、化学者、大企業の重役」→「経営者、教師、会計士」→「店員、警察官、修理工、営業マン」→「仕立て屋、飲食業、看護士」とかあったり、IQが低いと「1年に1ヶ月以上無職が続く可能性」、「結婚して五年以内に離婚する可能性」、「IQが低い子どもが生まれる可能性」、「貧乏をする可能性」、「高校をドロップアウトする可能性」がそれぞれ高いと主張されています。さらにこの著者はIQは後天的に改善できるものとは考えておらず、IQが低いと教育効果が無いが、そうした人々の社会適応力を高めるにはどうしたら良いかと問い、答えとして「社会適応力に関係する能力で知能が無くても伸ばせるものがあるので、それを伸ばせ」と言います。こんなの一体いつの論文だ!?と思って見ると、1997年。つまり最近です。アメリカでは差別とか人権とかうるさいくせに、「科学的研究」という名のもとにこんな研究も堂々と行なわれているのです。

9月26日(金)の夜

 おとついから、テキサス大学のメールアドレスからメールが送れません。これはテキサス大学のサーバに問題があるのではなく、僕が利用しているAOLに問題があるようです。これまでも何回もこういうことがありました。メールを送信しても何のエラーも出ないのが余計にタチが悪いです。そのためBCCに自分の別のメールアドレスを入れて配達されたかを確認しないといけません(もう半年以上これをしています)。ただし受信は問題ありません。本当にストレスです。もうAOLはダメです。最悪のプロバイダです。会社は赤字続きで、AOLタイムワーナーになったときは巨大メディアの誕生か!?と騒がれましたが、現在は業績が悪いので、タイムワーナーから切り離されるそうです。日本でもほとんど営業とかしてないのではないでしょうか(大型量販店にCDロムをもらいにいったのにどこも置いてなかった)。またプロキシにテキサス大学の設定をしても、JSTORなどの論文検索サイト(学術誌掲載の論文をDLできる)を利用できません。ネットに接続しても少し重いページだと接続が切れてしまいます(asahi.comでさえも!)。
 それでもAOLを使い続けている理由としては、日本でもアメリカでも使えるということと、HPの問題があります。テキサス大学のサーバのスペースをタダで使えるのですが、カウンターを設置したり掲示板へのリンクを張るといちいちそのたびにセキュリティーを聞いてきて、面倒なのです。どこか広告の入らないウェブサイトは無いものかなあ。ていうか、やっぱケーブルを導入すべきなのでしょうか。

 ところで昨日から方法論でコンプを受ける人たちの勉強会が始まりました。二週間に一回のペースで毎回過去問を解いてきては、検討します。人数は僕を入れて4人。正直コンプに受かる気がしないです。政治行動のコンプにかんしては、受けるのは僕一人なので勉強会を結成することができません。この専攻は僕の次の代から廃止されたので、僕が最後の受験者になります。嫌だなあ…。

 今日は昼から大学に行って、比較政治のブラウンバッグレクチャーに行きました。講師はビジティングで来ているロシア人の先生で、内容はロシアの民主化について。完全にクオリテイティブなアプローチの人で、何のことだかさっぱりわからず、しかも内容も退屈で単なる時間の無駄でした。またこんなことは初めてなのですが、ロシアなまりの英語がやけに耳障りでイライラしました。でもきっと僕の日本語なまりの英語もネイティブからすれば、イライラするんだろうと思います。大学の研究者はきっとなまりのきつい英語に慣れないとやっていけないのでしょう。
 その後はもはめど氏に助けてもらいつつ、時系列分析のクラスの宿題をラボで。RATSというソフトを使うのですが、まだ今のところ何が何だかよくわかりません。夕方には明日の日本人会総会のための役員の打ち合わせ。夜は喫茶店で勉強した後、例によってアニメの上映会に行きました。「GTO」と「星界の戦旗」を見ました。上映中僕の前をアメリカ人が「スイマセン」といって横切って行きました。

9月28日(日)の朝

 昨日は日本人会の総会およびパーティでした。阪神ファンの役員がプロジェクターで阪神優勝のビデオを流したりしたのが、関西人の僕としては良かったと思います(そんな熱心な阪神ファンではないですが)。またアニメ上映会でいつも見かけるアメリカ人(髪の毛が腰まであって束ねてあるのですぐわかる)がいたので話し掛けました。彼はすでにUTを卒業していて、聞くところによるとUTアニメクラブは94年に彼の寮の一室で始まったそうです。つまり彼は設立者の一人。日本の僕のアニメ好きの友人が、以前この日記にリンクしたアニメクラブのHPにあった上映ラインアップを見て指摘したポイント(上映作品のうち「星界の戦旗」のラフィール、「まほろまてぃっく」のまほろ、「スクラップド・プリンセス」のウィニア、「ゲートキーパーズ」の生沢ルリ子を 全て川澄綾子という声優さんがやっている、アニメクラブメンバーの中に彼女のファンがいるのではないか!?)を話すと、「現役の役員が決めているのでわからないが、そういうこともありうる」ということでした。その後、声優談義になったのですが僕はほとんどついていくことが出来ませんでした(かろうじて、「ハヤシバラメグミ」という響きが、ああ聞いたことあるかも、と思ったくらいです)。

 ところで『文藝春秋』9月号に日本の「黄金時代」である60、70年代を各界の著名人が振り返るという企画があるのですが、そこにはいくつか共通するエピソードが出ています。例えば田中内閣発足に際して政治学の御厨貴東大教授は「僕は大学二年生でしたが、京極純一教授が政治学の授業中に『皆さん、佐藤内閣から田中内閣に転換した今日を、よく覚えておきなさい。田中角栄が総理になったことで、日本の政治は確実に変わる。おそらくは品格のない方向に。これは大衆民主主義のひとつの帰結だ』と言われたのを鮮明に覚えています」と、回顧している一方で、増田寛也岩手県知事も「その瞬間を、大学の政治学の授業中に、ラジオの実況中継で聞いた。たしか十二時三十分からの暑い午後の授業の冒頭、京極純一教授が教壇のマイクの前にラジオを置いて、日比谷公会堂での自民党大会の様子を聞かせたのだった」と振り返っています。おそらくこの二人は同じ教室にいたのでしょう。でも二人の反応は微妙に違います。御厨氏は京極純一のネガティブなコメントを紹介していることから、おそらく批判的な立場に立っていると思われるのに対して、増田氏は「それまでの佐藤政権は典型的な官僚政治、七年を超える長期政権だったため、ニューヒーロー登場への期待は会場のみならず、国民共通のものだったと思う。私もその一人であった」と田中内閣誕生を肯定的に評価しています。
 また全共闘のクライマックスである東大安田講堂陥落に際しても、町村元文科相は東大経済学部闘争実行委員会のリーダーとして闘争に参加、哲学者の加藤尚武氏(当時東大助手)、浅野史郎宮城県知事(当時東大3年)はそれぞれ赤門前の喫茶店で成り行きを見守り、鳩山由紀夫、邦夫兄弟(当時東大学生)は東大近くの小料理屋の2階から安田講堂が陥落するのを見ていたそうです。
 なんだか、こういう大事件に後世の有名人が一緒に居合わせて、それぞれ異なる立場から、異なる感想を抱いているのはなんとも興味深いことです。

 ところで『文藝春秋』、『中央公論』、『諸君!』などは一般的に「親米保守」の雑誌として知られています。つまり共産主義、社会主義、革新主義勢力には反対、また場合によっては反中国、反朝鮮で日本のナショナリズムを鼓舞するけれども、アメリカに従うしか日本が生き残る道は無い、という立場です。主な論客としては、阿川尚之元慶大教授、現駐米公使(ちなみに父は元海軍で作家の阿川弘之氏、妹はエッセイスト、テレビタレントの阿川佐和子氏)や、元外交官の岡崎久彦氏、また最近「朝ナマ」によく出ている村田晃嗣同志社大学助教授などがいます。というか、大前研一、竹村健一、中曽根康弘など日本で「保守」と分類される論客のほとんどがこの部類に入るのではないでしょうか。それに対して、反米保守となると数が少なくなります。例えば、西部邁、小林よしのり、副島隆彦など(石原慎太郎は個人的には微妙な気がします)。言論誌で言えば、この立場をとる雑誌はかろうじて『正論』くらいなものではないでしょうか(といっても反米とは言えないと思います)。今日は日曜日なので、意味無く以下に僕個人の見解に基づく分類表を作ってみます。



もちろんこれは外交問題に関しての分類ですので、少年法、経済政策など国内問題はこの限りではありません。『わしズム』は厳密には言論誌とは言えないものの、このカテゴリーに入るような言論誌が見あたらなかったので( )付きで含めました。『前衛』は大型書店で売っているものの基本的に共産党理論誌なので、書いているのはほとんど党関係者です。まあこんなことをして一体何の意味があるのか、と言われればそれまでですが、それでも例えば、なぜ『文藝春秋』が、アメリカの頭越しに中国と仲良くしようとした田中角栄の金脈を暴いたレポートを掲載したのか、なぜ小林よしのりが孤立しているのか、などを考えるのに少しは役に立つのではないかと思います。「新しい歴史教科書を作る会」は反中国、反朝鮮であっても、反米の立場ははっきりとは現しませんでした。親米保守からすると、反米保守は非現実的で危なっかしく、「じゃあ一体日本はどこと仲良くするんだ。一人で生きていけるわけがないだろ!」となるわけです。
 少し陰謀論めいた話ですが、こうした親米保守勢力の育成にアメリカは力を注いできたそうです。第二次大戦後すぐに、アメリカは西側陣営の各国から主要若手エリートを集めてハーバードで授業を受けさせています。中曽根康弘もその一人で、そのときにハーバードに提出した論文が最近どこかの言論誌に本人の解説つきで載っていました。また『諸君!』、『文藝春秋』編集長、文藝春秋社長を歴任した田中健五氏は60年代前半にアメリカ国務省の招待で2ヶ月間、アメリカを見て回ったそうです。最後帰り際に国務省から、アメリカに関してどんなに辛らつな批判をしてもかまわないということを言われ、感心したそうです。
 長くなりすぎて収まりがつかなくなったので、このへんで…。

9月29日(月)の夜

 水曜日の比較政治行動の授業の毎週のショートエッセイを書いているのですが、書けない!。今日まる一日も費やしてまだ1パラグラフ。シングルスペースで2枚書かないといけません。アメリカの大学院では(日本ではどうだか知りません)だいたい毎週リーディング+リアクションペーパーと言われる短いペーパーを書く必要があります。内容は単なる要約ではなく、新たなリサーチクエスチョンへの展開、不十分な点や矛盾点の指摘など要するに論文のレビューのパートになるように書くのが要求されています。それが難しい。単なる要約なら楽勝なのですが…。
 しかも内容もあまり面白いものではなく、政治的認知における感情の効果みたいな、これは政治学なのか?というもの。別に不安や怒りや熱狂が政治認識に影響を与えようがどうでも良いです。ていうかサーベイでそんな感情を正しく測定できるとは思えません。社会心理学の分野では感情というのは、その特徴の一つとして「持続時間が短く、無意識」とされています。でも実際、政治学のサーベイで聞かれているのは、例えば「あなたはブッシュについて、怒り(or不安、希望、熱狂)をどれくらい感じますか(0−100)?」みたいなものです。質問文上では一応感情を聞いていることになっていますが、これは果して感情なのでしょうか?。もっと長期的な「評価」の用な気がします(まあもっとも、「感情温度計」という政治学でよく使われる尺度も同種のものですが)。結局これはその候補者への支持態度や評価のプロクシに過ぎないのではないでしょうか。だいたい、「ブッシュに怒りを感じる」といっても、それは「ルームメイトに怒りを感じる」みたいな直接的な怒りではないはずです。ついかっとなって、ルームメイトを殴るということはあっても、ついかっとなって投票するというのはないのでしょうか。投票所に行くまでのドライブで怒りもクールダウンしてしまうでしょう。また政治学心理学の知見では、「感情は決して政治認知を誤らすのではなく、逆にそれを助ける」というのが有力ですが、これも、感情尺度が単に感情を測定できていないばかりか、別の変数、例えば政治的洗練(政治を良く知っている人ほどある候補者に特定の「感情」をもち易いとして…)を測っているに過ぎないのではないでしょうか。僕は心理学でいうところの「感情」が政治認知において果す役割は決して大きくないと思います。

9月30日(火)の夜

 今日は僕がTAをしているクラスの試験がありました。結論から言えば僕が作った試験、簡単過ぎました。試験時間は75分間なのですが、最後まで残ったのは84人中10人程度。開始35分で1人が教室を出て、開始45分には半分くらいになりました。この様子を僕はハラハラしながら見ていたのですが、正直「もっと悩んでくれ〜。間違ってくれ〜。」と心の中で唱えていました。試験終了後、マークシート式なのでそれを読み取るために採点センターに持っていきます。平均点が80点前半、満点が7人、全体の約40%がAという結果でした。Aが40%というのは果たして多すぎるのかどうか、アメリカの大学で学んだことのない僕としては判断がつきかねます。ただそれでも先生によって「カーブ」という得点調整はつけられ、数人がDになるところがCになりました。先生いわく、「簡単すぎたな。次はもっと難しくしないとな。」とのことでした。それにしても僕が作った試験に本気でアメリカの学生たちが取組むというのはすごい緊張感です。試験監督の合間も何度か質問に答えたのですが、基本的にミスは無く、その点での心配は杞憂に終りました。試験を作ると言うのは本当に難しいものです。実は一人、前日になって病気で試験を休むと言ってきた学生がいるので、その人のために追試をしなければいけません。もちろん追試の問題も僕が作成します。正直、しんどいです…。

9月30日(火)の深夜

 下の日記の追記ですが、先ほど別の学部でTAをしている友人に聞いたところ、その人のクラスではAをとるのはせいぜい全体の20%くらいみたいです。や・ば・い。これで先生の内証を悪くしてしまったかも。それにしてもアメリカの大学がこんなにも評価が厳しいとは思わなかったです。ハーバードやスタンフォードでは全体の三分の二がAをとるとかで、成績のインフレが起きているそうですが、それはやはり超一流大学の話で、UTなんかではそれは当然通じないみたいです。アメリカの大学って大変だなあ…。

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