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| 2004年4月の日記 |
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4月1日(木)の夜
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昨日は一日かけて、ヴァージニア大学で開催される某リバータリアン系研究所のサマープログラムのアプリケーションを書いていました。古典的自由主義にからめた研究関心についてのエッセイと、将来のキャリア計画についてのエッセイ。去年は、プリンストン、ブラウン、エモリーなど全米のいくつかの大学で開催されるセミナーのうち、ワシントンD.C.に行きたい一心で、ジョージワシントン大学でのセミナーに申し込んだのですが、それは公共政策に関わる人かジャーナリスト向けだったようで、ヴァージニア大学の研究者志望の大学院生用のセミナーに振り分けられました。結局日程が合わなくて参加できず・・・。そういうこともあって今回は、最初からヴァージニア大学のセミナーに申し込みました。去年のこのセミナーの責任者はスタンフォードのワインガストだったのですが、今年はデュークのマイケル・マンガーです。テーマは「合理性と制度」。もちろん主催の研究所の性質上、政治的な色がかかっているでしょうが、学問的にも面白そうです。
ヴァージニアは、ジョージ・メイソン大学(フランシス・フクヤマも昔ここにいた)を始めとした、「公共選択」学派のメッカで、そこに集まる公共選択系の学者たちは時にヴァージニア学派あるいは"Virginians"とも言われます。公共選択を研究する学者には、効率性の観点から政府の介入や大きな政府を嫌う保守系が多く、政治的には市場至上主義の古典的自由主義と密接に結びついています。ていうかヴァージニア自体、銃規制に強固に反対する全米ライフル銃協会NRAの本部があったり、連邦政府に反対したトマス・ジェファソン(ちなみにヴァージニア大学の創設者)の地元であり、保守の牙城です。今年も何とかアクセプトされないかなあ・・・。ちなみに、交通費以外の費用は全て主催者から支給されます。
今日は午後2時から心理学部の「実験デザイン」の授業の2回目の試験でした。最近は日々の予習復習も一切していなくて、今日の昼12時から1時半までの1時間半だけが純粋にこの授業の勉強をした時間です。例によってすごい単純なケアレスミスをしてしまいましたが、まあ平均点以上は行くでしょう。この授業の評価はすでに、「A,B,C」ではなく、「合格/不合格」に変更したので、単位の心配はありません。
今回の習った範囲で、面白いなあと思ったのが"trend analysis"。僕はこれを今まで知りませんでした。おそらく経済学や政治学ではあまりポピュラーでは無い手法なのでしょう。例えば一つのコントロールグループと、三つのトリートメントグループがあったとして、トリートメントがどのようなトレンドで従属変数に影響を与えているか、というのを見ます。そのために、例えば"linear"、"quadratic"、"cubic"などのそれぞれがお互いに統計的に独立した説明変数のコントラストを作ります。統計的に独立した、というのはつまりそれぞれの説明変数の間に相関が無いということで、y=a+b1*x1+b2*x2があったとして、もしx1とx2が無相関なら、y=a+b1*x1、y=a+b1*x2で推定した場合と、b1、b2は同じ値になります。つまりx1はx2によって説明される部分がゼロなのです。このように互いに無相関になるように、"linear"、"quadratic"、"cubic"のウェイトを各グループにかけます。そしてそれぞれを独立変数として回帰式に投入し、どれが統計学的に有意かをみることによってトリートメントの効果のトレンドを見ることができるのです。
で、このやり方は経済学や政治学ではポピュラーでは無いと書きましたが、実は最近読んでいる論文に似たようなのがありました。「研究用読書ノート」でも紹介した、"time varying parameter"を使っている時系列分析の論文です。この論文においては、経済状態という説明変数が、時系列的にどういうトレンドで投票に影響を与えているのかが検証されています。独立変数として、互いに無相関な形で各種トレンド(一乗から十二乗の12項)に変換した経済変数が入れられ、その結果、"cubic"のトレンドが確認されました。つまり経済の影響は最初、ニューディール政策のもと政府の経済運営での役割が大きくなるのにともなって、減少傾向から増大傾向になり、近年社会が豊かになって経済が大きな関心にならなくなってきてからは、また減少傾向にある、ということです。このやり方を使って僕は日本政治についてペーパーを書こうとしています。本当に書けるのでしょうか・・・。
その後は僕がTAしている大統領選挙のクラスのオフィスアワー。TAをしているクラスの2回目の試験が月曜日で、僕の最後のオフィスアワーだったので、質問に答えられるべく復習しました。その中で「フィオリーナとダウンズの回顧的投票(retrospective voting)に対する考え方がそれぞれどう違うか」という点が自分でも良くわからなかったので、久しぶりに原典にあたってみることに。Morris P. Fiorina. 1981. Retrospective Voting in American National Elections . New Haven: Yale University Press.と、Anthony Downs. 1957. An Economic Theory of Democracy. New York: Harper and Row.という両方とも「古典」ともべきいう著作です。それによるとどうやら、ダウンズは自らの空間もモデルのイデオロギー軸上の政党(候補者)の位置を知るために、過去にその政党が何をしたかというのを知るのが重要であると言っているだけなのに対し、フィオリーナは「それだけではない、過去の業績評価はもっと直接的に有権者の投票選択に影響を与えるんだ」と主張しています。またこの授業では、ダウンズのモデルはイデオロギー軸上での政党の公約をめぐる争いを扱っており、その点で要するにこれは「政党が何をしたか」ではなく、「政党がこれから何をするか」重視のprospective votingであると教えられています。
あとこれはよく知られていることですが、ダウンズのモデルが基本的に争点投票のモデル(イデオロギー軸は争点によって形成されるから)であるのに対して、フィオリーナの回顧的投票モデルは争点について有権者があまり知らないという事実を踏まえたうえで、例え有権者が争点についての知識を持ち合わせていなくても、各有権者がおのおのの心の中の"running tally"(記録用紙)に記録した政権の業績評価を参考にすることで「合理的」に投票することができる、としています。つまり、コンバースらの有権者の政治的知識、政治的認知の研究結果を踏まえた「有権者は争点について理解していない。だから合理的に投票することはできない」という有権者の合理性に対する批判についての反論を行ったのです。ところでこのフィオリーナのモデル(ミシガン学派の社会心理学モデルとダウンズのモデルの混合と主張している)を見る限り、ダウンズの合理的選択モデルを有権者の認知過程を説明しようとしたモデルのようにとらえているように思います。この点、やはり投票行動研究における合理的選択モデルは、均衡を導くとか通常の数理モデルの扱われ方とは異なっており、これによって妥当となってくる批判もあるものと思われます。
で結局、今日は誰もオフィスアワーには来ませんでした・・・。
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4月2日(金)の夜
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今夜は論文を読もうと8時ごろにオフィスに来たものの、TAをしているクラスの学生から質問のメールが。内容は「政党帰属意識のライフサイクル変化」「経済投票モデルのポケットブックとソシオトロピックの区別」「空間モデルにおける政党の差」「ポリティカル・ビジネスサイクル」「業績評価投票のsimpleとmediatedの区別」について。正確を期すために、いちいち文献にあたって確認したりしていると返事を書くのに10時までかかってしまい、結局論文は読めませんでした。それにしても、もしこの質問をオフィスアワーに来てされたらと思うと何とも恐ろしいです。僕の英語力もまだまだです・・・。
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4月3日(土)の夜
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夕方オフィスで勉強していてトイレに行くために出たのですが、そのときカギを持って出るのを忘れてしまって、運悪く習性で自動的にカギが閉まるようにセットしてしまったため、締め出されてしまいました。土曜日の夕方で、フロアには誰もいません。学部事務室も閉まってるし、掃除の人すらいません。キーホルダごと置いてきてしまったので、コンピュータラボも開けられないし、アパートにも入れません。最悪の事態です。まだ良かったのが財布は持って出たということ。とりあえずお金とフォーンカードがあるので、最悪今日中にカギをゲットできなくても、誰かに連絡は取れるだろうし、お腹も満たせます。でももちろんカギを早く何とかしたい。
で、どうするか。とりあえず廊下で少し考えているとエレベータが開いた音がして、先輩院生がやって来ました。彼に事情を話すと、コンピュータラボを開けてくれ、これでとりあえずインターネットと電話をゲットです。それでまずはオフィスメイト3人に連絡を取って、カギを開けてもらうように頼むことに。学部のHPでメールアドレスを調べて送信しました。でもよく考えると、電話の方が手っ取り早いということに気づいて、UTのHPのディレクトリで調べて、電話。そのうち一人と連絡がとれました。すると彼はパーティの最中だそうで、今日オフィスに行く予定は無く、アパートまで取りに来てくれたらカギを渡す、と言ってくれました。彼のアパートはキャンパスから高速道路で20分くらいかかります。つまり車が必要なので、車をもっている友人ニ人に電話。しかし一人は留守電。もう一人は番号が変わったのを教えてもらってなかったので、電話番号自体わかりません。それでその人の番号を知ってるであろう別の二人に電話。でも二人ともつながりません。みんな週末でどっか遊びに行ってんだな・・・とブルーな気持ちになりました。
とりあえずメッセージを残して後は待機するしかありません。コンピュータラボで適当にネットサーフィンしながら、「最悪今晩はここで一泊だな。しかしなんで土曜で誰もいないのに冷房がかかってるんだ?(テキサスではもう冷房が入っているのです)。こんなときに限って単パンに半そでで来てしまった・・・」などと考えていると、最初の先輩院生がやってきて、「グッドニュースだ。オフィスメイトが着たぞ!」とのこと。あわてて自分のオフィスまで行くと、連絡がとれなかったオフィスメイトが来ていました。彼は普段は週末来ないのに、今日に限ってたまたま来たようです。というわけで締め出されてから約3時間後にカギゲット。しかし、本当にこれが深夜とかだったら絶望的です。これからはもっと気をつけないと・・・。
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4月4日(日)の昼
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またまたダイレクトメールの話で恐縮ですが、先日差出人がAMUと書かれた封筒が届きました。表に大きく「あなたへの小切手が入っています」と書いてあります。また悪徳商法か何かかと思って開けてみると、何だか感じが違います。どうやらAMUとはアヴェ・マリア大学の略号らしく寄付金のお願いをしています。それによると、
同封されているのはあなたに宛てられた本物の1ドル小切手です。もしあなたが望むなら換金することができます。でも私はあなたがそうしないことを望みます。カトリックの神父として、私はお金をどこかにやるほどの余裕は本当に無いのです。私はあなたの関心を引くためにこの小切手を送りました。
とのこと。で、結局要するに寄付金のお願いです。こんなことして寄付金を集める教会や大学って信用できないような・・・(ていうかこれは本当に実態のある大学なのか!?)。ちなみにその手紙には「もしあなたが文化的、政治的保守派で、さらにローマカトリック教徒なら」とあります。つまりこの手紙は、献金をしてくれる確率を上げるために、保守派でカトリック教徒である可能性が高い人に送られているということです。おそらくNational Reviewの読者に送っているのでしょう。というのもNational Reviewは、カトリック系保守派の雑誌だからです。だから例のメル・ギブソンの映画"The Passion of the Christ"は同誌によってべた褒めされていました。アメリカの保守派は普通プロテスタントで、民主党支持の傾向が強いアイルランド系はカトリックです(ケネディ家は言わずと知れたアイルランド系)。そういうことから考えると、これはちょっとした「ネジレ」です。また似たような例として、民主党系であるThe New Republicがあります。同誌は民主党予備選挙ではリーバーマンを応援するなどユダヤ系で、当然メル・ギブソンの映画は「反ユダヤ的」ということですごいけなしようなのですが、イラク戦争にはイスラエルを援助するという意味で賛成の立場をとっており、リベラル系なのにイラク戦争に関してはブッシュをあまり非難していませんでした。
このようにアメリカの政治には党派だけでなく、宗教も大きな影響を与えています。アメリカの議員年鑑にはそれぞれの議員の宗教が書いてあって、それと党派と人種を見るだけでだいたいその人がどのような主張をしているか察しがつく、というくらいなもんだそうです。
今日からサマータイムが始まって一時間損しました。
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4月5日(月)の朝
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昨夜は某所にお呼ばれしてテキサスで飼育されている神戸牛のステーキを頂きました。そこにはUTのLBJスクール(ジョンソン大統領にちなんで作られた公共政策大学院)に経済産業省からの派遣で留学されている官僚の方が来ておられました。色々と興味深いお話を聞いたのですが、中でも驚いたのが日本の関税率というのは世界最低水準である、ということ。食糧安保の問題もあるので確かに農業分野ではまだ高い関税を誇っている分野もあるそうですが、それを含めても全体としては低いのだとか。単に僕が無知だっただけかもしれませんが、何の根拠もなく漠然と、僕は日本は「閉鎖市場」で、保護主義をとっており、外国製品に高い関税を課しているのだと思っていました。そういう「日本=高い関税に守られた閉鎖市場」というイメージは、実際に大方の日本国民や世界の人々がもっているもので、それはアメリカ側からの「農産物に対する関税引き下げ要求」とか「市場開放要求」というのがよくニュースになる一方で、日本は宣伝が下手ということに起因するそうです。ちなみに外務省のHPによると、単純平均した関税率は、日本が2.9%、アメリカが3.6%、EUが4.1%、中国が10%、マレーシアが14.5%、韓国が16.1%、フィリピンが25.6%、インドネシアが37.5%となっており、非農産品に対する関税率で比較した場合、単純平均で、日本:2.3%、アメリカ:3.2%、EU:3.9%、シンガポール:6.3%、中国:9.1%、マレーシア:14.9%、フィリピン:23.4%、タイ:24.2%、インドネシア:36%なのだそうです。
で、今後日本の戦略を考えるに、80年代から90年代前半のように、放っておいても日本製品が海外で売れる時代ではないということに鑑みて、日本製品を売るために各国の工業製品に対する関税を下げてもらうよう交渉しないといけない。そのときに1990年以降はFTA(Free Trade Agreement)という、二国間または地域間の自由貿易協定により、関税や数量制限など貿易の障害となる壁を相互に撤廃し、自由貿易を推進するという方針がとられるそうです。しかし、実際例えば日本のような関税が低い国と他の東アジアの国々との間でFTAを結ぼうとしても、相手国にとってインセンティブがありません。というのも、相互に障壁を撤廃して損をするのは明らかにもともと関税の高かった国だからです。しかも日本はすでに関税が低いため、「こっちは○○を下げるから、そっちは××を下げてくれ」という具合に取引する材料に乏しい。あっても日本で高関税が課されている農産物ですが、これはただでさえ食料自給率の低い日本の食糧安保の問題がかかわってきます。つまり極端に言えば、日本の食料自給率をさらに下げることで、日本の工業製品を海外で売るかどうか、という選択を迫られているということのようです。ただし食糧安保の問題に関しては、自給率が低くても、アメリカがダメならオーストラリア、みたいに常に複数のルートを確保することで安全が保たれるという考えもあります。世界的な大飢饉や食糧危機が起こるリスクがかなり低いとするなら、食料自給率を下げてでも海外で日本の工業製品を売るという選択も必ずしも非現実的なものではないかもしれません。
僕は今まであんまりこういう貿易とかの問題には興味を持ってこなかったのですが、勉強になりました。
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4月6日(火)の朝
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昨夜はアイン・ランド協会の勉強会に行ってきました。講師はシカゴ大学で政治学と経済学のBA、UTで哲学のPh.D.を取得後、非常勤講師としてテキサスA&Mで教えているという人で、テーマは「自由とは何か?」という非常に広いものでした。内容は彼の博士論文からのもので、これは近々本として出版されるらしいです。彼はまず、政治哲学の伝統に従って自由という概念を二つに分けます。一つには、消極的な自由(negative liberty)すなわち「〜からの自由」、二つには積極的な自由(positive liberty)すなわち「〜への自由」。で、ここからは彼のオリジナルだそうで、「授業のレポートとかではくれぐれも書かないように」と冗談めかして言った後、さらに消極的な自由を「政治的自由」と「社会的自由」、積極的な自由を「物質的自由」と「心理的自由」に分けます。政治的自由とはロック、ランドなどに見られるような政府による強制からの自由で、社会的自由とはミルに見られるような社会的な圧力からの自由。物質的自由とはマルクスや、モダンリベラルに見られるような欲望をかなえるための物質に対する自由(例えば「車が無ければ、買い物に行く自由がない」などの言い方に現れる)、心理的自由とはルソーなどに見られるように要するに自律のことのようです。ここで彼は、政治的自由と残りの三つを区別します。どういう区別かというと、残り三つの自由は政府による強制を生み出すという特徴をもつのだそうです。例えば社会的自由を実現するためには、社会集団による個人の自由の侵害(信教の自由、職業選択の自由など)を無くすために政府は強制力を行使するし、物質的自由を保障するために政府は税金や再分配政策を強制します。また心理的自由を守る名目で、政府は国民をアル中やヤク中にならないように、酒やドラッグを規制します。つまりこれらの自由を保障するために政府による強制力が発揮されるのです。でもこうした強制はアイン・ランドによれば、「アンチ・マインド」つまり精神を否定し、麻痺させることに他なりません。ここでいう精神とは、"light and evidence"というコトバで表され、論理と事実を意味します。要するに強制によって、論理と事実による推論が否定され、そうした思考自体が麻痺させられてしまうというのです。これはソ連など社会主義国で行われたことである、とされます。だから、強制はだめ。そしてそうした強制から人間を守るのが政治的自由だ。だから、政治的自由はことさらに大切なんだ、というのが結論です。
まあ政府による強制に反対するために政治的自由が必要なんだという考えはよくあるものですが、強いて言えばそうした政府による強制は別の自由の概念から来ているのだ、というのが、彼の議論の特徴なのでしょうか。いずれにしても、哲学でも政治学でも学問でオリジナルな研究をするのはかなり難しそうです。僕も今、それでかなり苦しんでいます・・・。あああ。
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4月7日(水)の朝
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リバータリアン系の政治評論誌reasonの最新号にポルノ規制に関する特集記事が載っていて、例によってポルノ規制に反対しているわけですが、その中にアダルトビデオのタイトルとおぼしきすごい名前がありました。"Weapons of Ass Destruction"(「尻の穴破壊兵器」)。これはつまり、ブッシュがイラク戦争開戦の口実にした"Weapons of Mass Destruction"(「大量破壊兵器」)のパロディです。日米ともアダルトビデオ業界のネーミングセンスは同じようなもんなんだなあ、と感心しました。下品な話題ですいません。
学期末に向けてプロポーザルのドラフトと論文二つを書こうと思っているのですが、思うように進まずイライラしています。授業で書くのとは違って、「何でも良いから書いてしまえ!」というのではないので、余計に時間がかかります。「こんな下らんアイデア!」と自己嫌悪に陥ります。オリジナリティ、オリジナリティ…。
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4月8日(木)の昼
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おとついの夜寝ていると、突然何者かが、ドアノブをがちゃがちゃさせる音で目が覚めました。すごいドキドキしてドアの方を見るとさらにもう一回、がちゃがちゃ、ときます。びっくりしましたが、きっと誰かが部屋を間違えたのだろうと思って、うたた寝。するとまた一回だけドアノブをまわす音がして起こされます。どういうことなのかと思って、とりあえず時間を見ると朝の6時。といってもまだ真っ暗で夜も同然です。薄気味悪いので、しばらくしてドアの覗き窓から覗いたのですが誰も見えず。まあそれで結局その後は何も無かったのですが、よくよく考えると訳がわかりません。
最初に考えたのが、「誰かが明け方にこのアパートのある部屋を訪ねることになっていて、部屋を間違えた」ということ。でもこれだと普通はいきなりドアノブに手をかけず、ノックするでしょう。つまりドアノブに手をかけた人は「中に誰もいない、しかもカギがかかっていない」ということを想定していたことになります。もう一つの可能性としては、いたずら。でもこれだと手当たり次第に色々なドアをがちゃがちゃしても良さそうなものですが、実際ピンポイントで僕の部屋に来ていました。しかも一回戻ってきた理由がわかりません。ということで、総合的に考えたのが、「引っ越してきたばっかりの人が一人で夜中に酒を飲んで酔っ払い、ごみ捨てか何かでカギをかけずに表に出て、戻ってくる部屋を間違えた」というかなり苦しいもの。でもそうでないと、「中に誰もいない、しかもカギがかかっていない」と思っている理由が説明できません。僕個人を狙ってのいたずらという可能性もありますが、おそらく朝6時にそんなことをわざわざするほど僕を恨んでいる人はいないと思うし、だいたい僕のアパートを知る人もそんなにいないでしょう。
ということで依然として謎です。まあこういう理屈で説明できないことがよく起きるのがアメリカなのですが。
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4月9日(金)の昼
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最近は生活を夜型に変えて、毎晩2時、3時までオフィスで勉強しています。朝は10時くらいに起床です。で、何をやっているかというと、時系列分析のクラスのペーパーのための分析をしています。「研究用読書ノート」でも紹介したエリス・クラウスの「中曽根以降、内閣支持は自民党支持から独立している」という仮説を検証すべく、前段階として各時系列をARFIMAモデルでフィルターをかけて、トレンドを除去した後、"moving chow test"、"moving correlation"、"moving regression"などで、予備的な分析を。で、問題なのが、やっていることはたいしたことないのですが、やたら時間がかかるということ。STATAのデフォルトで"moving chow test"があるのかなあ、と思って少し調べたところどうも無いみたいで、エクセルで作った期間ダミーを使ってSPSSで時系列データを加工し、さらにそれをSTATAで分析というとてつもなく面倒くさいことをしています。たぶんもっと他に簡単なやり方があるのだと思いますが。
あと昨日は、久しぶりにアドバイザーに会って来ました。どうもプロポーザルのことで最近煮詰まってきていて、自分一人で勝手にもがき苦しんでいる感があったので、実際質問とかはあんまり無かったのですが、とりあえず「会って話をする」という目的で。いつものように彼は非常に気さくで、色々とアドバイスをくれました。プロスペクトセオリーとか効用理論とかにこだわる必要は無いという至極まっとうなことや、その他具体的なアイデアを。より広く情報と不確実性とリスクの問題や、大統領、上院、下院の選挙の違いを考慮に入れた分析など。最後に彼は「まだ今学期は5週間あるから、プロポーザル期待してるよ」とも。本気で行っているのでしょうか!? いずれにせよまた新たな文献を求めなければいけません。
また昨日はキャンパスで映画『ミスティックリバー』の上映がタダであったので行ってきました。『ラストサムライ』の渡辺謙と争って、アカデミー賞助演男優賞を受賞したティム・ロビンスが出ている映画です。評判が高かったので期待していたのですが、あんまり良くなかったと思います。まあ僕の英語の聞き取りに問題があった可能性もありますが。何か設定とか人間関係にリアリティが感じられなかったです。最初の、ペドのおっさん二人に、少年が連れ去られる下りも、コントのように感じられました。ただ興味深かったのが、ボストンに住むアイルランド系アメリカ人たちの生活の様子が描かれていたこと。カトリックで酒飲みで極道か労働者な感じです。ケネディ家も元はといえば、禁酒法時代に密造酒の売買などで財を成して、政界に進出したアイルランド系です。
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4月10日(土)の夜
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ここのところデータ分析とペーパー書きに没頭して、「研究用読書ノート」を更新できていませんが、明日くらいからまたそちらのほうにも復帰したいと思います。
ペーパーのための分析なのですが、どうやらクラウスの「中曽根の後、有権者の首相や内閣への支持は特定の政党への支持とは独立した関係になった」との主張とは全く逆の結果になりそうです。まず以下の図はクラウスの主張の根拠になったものですが、これを見てもわかるとおり、中曽根政権以降、政権ごとの内閣支持率と自民党支持率があまり一致しなくなっています(この図は僕が生データから再現しました。クラウスの図は小泉内閣まで含んでいます)。
データ出所:中央調査社編.1992年.『日本の政党と内閣 : 1981−91』.時事通信社、および、時事通信社編.1981年.『戦後日本の政党と内閣』.時事通信社
でも、例えば自民党支持、物価、ハネムーン効果ダミーからなる単純な時系列モデル(ARFIMAモデルで各時系列のトレンドを除去、所得は月別のデータが得られなかったので含まず)をつくり、10年間ごとの単位で半年ずつ1960年から1991年までずらして、自民党支持の変数の非標準化回帰係数の変化を見ると、70年代よりも80年代の方が、自民党支持の内閣支持率への影響が大きいことがわかります(以下の図)。

まあもちろん、これはあくまでも予備的な分析であって、まだ何とも言えませんが、他の予備的な分析でも同様の結果が出ています。time-varying parameterを使った分析も済んだのですが、それを解釈するのは少し面倒なのでまだできていません。あと、このモデルは「自民党支持は内閣支持に影響を与えるが、内閣支持からも影響を受ける」という同時性を考慮していません。またクラウスを批判するにせよ、この分析結果に対するサブスタンティブな説明が必要でしょう。
ところで今日は大学近くの映画館に"Good-bye Lenin!"というドイツ映画を見に行ってきました(5ドル25セント)。最初はコメディかと思いきや、感動の映画です。"Mystic River"なんかよりも余程良いです。これはこの映画の感想としては少しおかしいかもしれませんが、やっぱ政治を勉強するって面白いなあと改めて思いました。僕はこの先、ベルリンの壁崩壊のときにドイツ人が感じたような政治的興奮を直接経験することがあるのでしょうか。
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4月11日(日)の夜
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4月6日付の発表によると、この日記でも何度か紹介したキリストの最後の12時間を描くメル・ギブソン監督の話題の映画"The Passion of the Christ"の興行収入が3億3000万ドルを突破し、アメリカ映画歴代10位に踊り出たそうです(ちなみに「ロード・オブ・ザ・リング:王の帰還」が約3億7000万ドル)。当初は、ユダヤ系団体の反対もあり、配給会社を探すのも難航したという映画ですが、蓋を開けてみれば空前の大ヒットです。ちょうど今週末はイースターだったので、余計にこの映画を見に行く人が増えたそうです。
すでにそこかしこで指摘されているように、この映画の問題点は「キリストの死の責任を全てユダヤ人になすりつけており、反ユダヤ主義だ」ということです。それで今日、たまたまテレビを見ているとABCニュースで興味深い世論調査結果が報じられていました。それによると、「キリストの死はユダヤ人に責任がある」と考える人が97年の時点では17%だったのが、最新の調査結果によると26%に増えているそうです(ていうか、97年の時点でこんな質問が世論調査の項目に含まれていたというのがすごいですが)。で、問題はこれはこの映画の影響なのかどうかということ。このニュース報道では必ずしもこれは映画の影響ではないとします。その根拠としては、この映画を見た人のうち36%は「キリストの死はユダヤ人に責任がある」と考えているものの、この映画を見たいという人のうち29%がすでにそう考えており、見ていないし見たくないという人は17%しかそう考えていない、ということが挙げられています。つまり、この映画を見た人は確かに「キリストの死はユダヤ人に責任がある」と考える傾向があるものの、それは見たからそう考えるようになったのではなく、もともとそう考えている人がこの映画を見に行く傾向にある、ということのようです。まあ36%と29%の差が統計的に有意なのかどうかは、報道されていませんが、文脈から判断すれば有意ではないか、あっても微々たるものだ、ということなのでしょう。
またここまで社会現象となると、この映画に対する態度というのが政治家にとってのある種の「踏絵」ともなります。ブッシュ大統領も記者に「この映画を見たいか」と質問され、報道官を通じて「見たいし、近いうちに見るだろう」というコメントを発表しているようです。まあブッシュ大統領の場合はもとから支持基盤がこの映画を好きそうな宗教右派(ちなみに2000年大統領選挙での出口調査によると、4人に1人は自らを「宗教右翼である」と答えている)なので答えるのは簡単でしょう。問題は、ユダヤ系や社会的リベラル派を支持基盤にもつ民主党のケリー候補。もちろん彼の支持基盤のことを考えれば「反ユダヤ的だ!、頑固な宗教右翼の映画だ!」と言えばよいのでしょうが、現実問題として多くのアメリカ人がこの映画を見て共感している以上、簡単にそのようなことは言えません。結局彼は記者に「この映画は反ユダヤ的だと思うか」と質問されて、「見てないから反ユダヤ的かどうかはわからないが、関心はある」というなんともあいまいな回答をしているようです。まあ彼の場合も以上のような問題を踏まえたのなら、この答えがある意味「正解」なのかもしれませんが。
ところで世論調査といえば、現在起こっているイラクの邦人人質事件に関する日本の某テレビ局の世論調査で、「国民の60%以上が撤退に反対」との報道がなされているようです。で、その質問文を少し見てみると、正確には忘れましたが「テロリストの要求に屈して自衛隊をイラクから撤退させる」という意見に賛成か反対かを聞いたもののようです。しかしもしこれが本当なら、この質問文には問題があります、「テロリストの要求に屈して」という明らかにネガティブなニュアンスの言葉があるからです。この質問文に賛成するのはなかなか躊躇します。普通に「自衛隊をイラクから撤退させる」という意見に賛成か反対か、と聞くとおそらく結果は変ってくるのではないでしょうか。またこの世論調査では62%が反対、38%が賛成とあったのですが、問題の複雑さからして「わからない」と答えた人も少なからずいたはずです。つまり、こうした調査結果でもって「国民の60%以上が撤退に反対」とするのはおそらくミスリーディングといえるでしょう(とはいえ実際この種の質問文の問題はよくあります)。しかしこの事件、アメリカでは全く話題になっていないみたいです…。
あと、昨夜からオースティンは異様に寒く、今日の最低気温摂氏7度、最高気温摂氏12度でした。つい先日まで30度に達しようかという気温だったのに…。おかげで手袋無しにチャリをこぐこともできないし、部屋に暖房も入れました。他の地域もこうなのか!?と思って試しにミシガン州の某所をチェックすると、最低気温摂氏0度、最高気温摂氏8度とのこと。やっぱオースティンって良い所だなあと改めて思いました…。
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4月13日(火)の夜
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今晩は学生団体の主催で行われた、リバータリアン系学生新聞とグリーン・パーティのグローバリズムをめぐる討論会を見に行ってきました。リバータリアン系学生新聞がグローバリズム、グリーン・パーティが反グローバリズムの立場です。討論会が始まる前の会場では、グリーンパーティの活動家らしきヒッピー風の中年の男女が、ラルフ・ネーダーが今年の大統領選挙でテキサス州で立候補できるように署名を集める働きかけをしていました。僕も声をかけられたのですが、「アメリカ市民ではないので…」と断りました。舞台上、向かって左がリバータリアン、右がグリーンです。それぞれ3名ずついます。服装からして両陣営は明らかに違っていて、リバータリアンは全員男で、ビジネスマンみたいにパリっと一部の隙も無くスーツを着こなし「いかにもコンサバです!」という感じなのに対して、グリーンはといえば、アジア系女性一人、白人男性二人(一人はソフトモヒカン)で、全員ラフな格好です。
議論は、まずグローバリズムに対するそれぞれの陣営からの基調演説で始まります。演説はタイムキーパーがいてきちんと時間を測ってコントロールしています。最初はリバータリアンからで、演説者は紺のスーツに白のシャツに赤ネクタイというブッシュ大統領みたいなスタイルの男性で、よく見ると見たことがあります。アイン・ランド協会の参加者です。彼は明らかに演説慣れしていて言葉たくみに、資本主義、市場主義が世界に広がることが全世界の人にとって良いかを説きます。ポイントとしては、資本主義は不況と搾取を生み出すと考えられているが、それは短期的な視点であって、長期的には富をもたらす、ということです。次にグリーン。グリーン側の縁者はソフトモヒカンの男前の白人の兄ちゃんですが、いかんせん彼は外見は威勢が良いのに、下を向いてただメモを棒読みするだけで、インパクトがありません。内容としては、いかに"corporate capitalism"の進展にともなう世界市場化によって、発展途上国の人々が過酷な労働条件で働かされ搾取されるか、産業の空洞化によりアメリカ人が職を奪われているか、世界に散らばったアメリカのビッグビジネスの利権を守るためにアメリカ政府が途上国の独裁者を支援し民衆を苦しめるなどという「帝国主義」が引き起こされいるか、ということでした。彼らのポイントとしては、グローバリズムは必ずしも悪くない、"corporate capitalism"の世界化がだめなんだ、ということのようです。リバータリアンは"corporate capitalism"が世界に利益をもたらすと主張していることから、この討論会は要するに"corporate capitalism"をめぐるもののようです。
で、第二ラウンドは双方演説者も変わり、より具体的にWTOに関してどのような立場をとるか、ということをめぐって議論が戦われました。まずリバータリアンは、アメリカの会社がメキシコに進出して現地の人々を安い賃金で搾取しているかのように言われているが、それは違うと主張します。アメリカの会社はメキシコで得た利潤をまたメキシコに投資している、ということを認識しなければいけない、また市場の世界化により、アメリカ企業がアウトソーシングすることになり、アメリカ人の職が奪われるということにかんしては、アウトソーシング無しに、インソーシングも無いと言います。つまり、市場の世界化によりトヨタなど外国の会社がアメリカに工場を作りアメリカ人を雇っているじゃないか、市場の世界化はアメリカから職を奪っているかもしれないが、アメリカに職ももたらしているのだ、ということです。また「職を失う」という言い方も正しくない、と言います。これは産業の構造変化によって、労働力の需要が別の分野にシフトしたのだということです。これに対してグリーンは、マクドナルド、ウォルマートの例を出しつつ、アメリカ国内では近年、一般労働者の賃金が下がる一方、金もちはますます富むようになってきている、またメキシコなど途上国の労働条件がいかに悪化してきているか、いか環境が悪化してきているかという事例を多く紹介しました。
さらに第三ラウンドは、「グローバリゼーションは文化帝国主義であり、多様性を奪う」という意見をめぐって行われました。リバータリアンは、まず、金持ちの国は貧乏な国に進出する必要がそもそも無い、つまり貧乏な国の方が金持ちの国と交流したがっているのだ、と主張します(ここでグリーンとおぼしき聴衆から「石油!」との声が挙がる)。そして、こうした交流は「西洋とそれ以外」の交流とは限らず、東洋と中東、南米とオセアニアなどさまざまな国々、文化同士の交流であるとします。ここで文化を政治文化と経済文化にわけたとき、まず政治文化について、明らかに世界は多様性を失い一つの方向に向かっていると認めます。それはデモクラシーと資本主義と人権擁護です。発展途上国も確実にこの方向に向かっている。もしこれを文化帝国主義だと言うのなら、私は文化帝国主義に賛成だ、とリバータリアンの三人目の演説者は力説します。また経済文化に関して、グローバリゼーションにより、世界の人々は同様に「多様な選択肢」を得つつある、と主張します。世界が西洋化しているのではなく、アメリカで中華やタイや日本料理が食べられるように、文化が交じり合っているのだ、さらに、全ての人類の文化はこうして文化と文化が交じり合ってできたものだ、とも。これに対してグリーンはまたしても、いかに南米や東南アジアで人々が虐げられているか、アメリカの企業活動により環境が破壊されているかの事例の紹介、イラク戦争はアメリカ帝国主義の現れだ!などという主張を繰り返すことに徹します。
ここで注意すべきは、リバータリアンも資本主義の初期の段階では悲惨なことは起こるということを認めているということです。その意味で、グリーンがいくら全世界で起こっている悲惨な例を挙げたところで、リバータリアンを論難できないのです。またリバータリアンはグリーンに対して、そうした悲惨な出来事がグローバリズムの進展によって引き起こされたという因果関係を示す「経験的な証拠」は一つも無い、と主張していました(これが正しいのかどうかは知りません)。さらにむしろ、そういう悲惨なことは、日本の例を見てもわかるように、資本主義の最初の段階ではつきもので、それを乗り越えることによって長期的な視点では日本のような繁栄を享受できるのだ、とも。
また議論の中味以外で気になったこととして、やはり演説の上手さがあります。上でも少し書きましたが、リバータリアン側の三人が全員、プロっぽいかなりの演説上手で、本物の政治家のように中央の演台で聴衆に身振り手振りを交えつつ訴えていたのに対し(おそらくパブリックスピーキングのトレーニングを受けているものと思われます)、グリーンは壇上の自分達の席に座ったまま、マイクを握ってずっと下を向いてぼそぼそと原稿を読んでいただけでいかにもアマチュアっぽかったということです。またリバータリアンはグリーンの演説の途中、どんなことを言われても不自然なくらい表情を変えずじっとしていたのに対し、グリーンはリバータリアンの演説の途中、事あるごとに大げさににやけてみたりしていました。ニクソンvsケネディの大統領選挙におけるテレビ討論にの例に見られるように、こういう政治討論の場での演説者の態度や服装や演説スタイルは非常に重要だと思います。おそらくある人からみれば、リバータリアンはあまりにも「冷徹すぎる」「いかにもゴリゴリのコンサバだ」と映ったでしょうし、また別の人から見ればグリーンは「ふざけてる」「いかにもヒッピーっぽくて左翼だ」とも映ったでしょう。ちなみに聴衆はグリーンを応援している人の方が多かったように思います。
以上のようになかなか面白かった討論会だったのですが、その一つの理由としては、リバータリアンが極端な右翼で、グリーンが極端な左翼だという極端さがあったからのように思います。しかしここで一つ気になるのが、お気づきの方もおられるかもしれませんが、一種のイデオロギー的なネジレです。というのも、伝統的には共和党が国内優先主義の反グローバリズム、民主党が国際介入主義のグローバリズムとみなされているからです。共和党はずっと孤立主義の伝統に固執し、アメリカが世界に出て行くことに反対し、ウィルソンの国際連盟加盟にも反対したし、ルーズベルトが第二次世界大戦に参戦するのにも反対してきました。また支持者も伝統的には国内で自営業を営む中流階級の白人です。それに対して、民主党は先のウィルソン、ルーズベルトの例にも見られるように孤立主義の伝統を打破し、積極的に世界に乗り出そうとする意識をもっていましたし、支持者も世界に資産をもつ国際ビジネス層や、出身国に特別のコミットメントをもつ移民階層です(もちろん労働組合という強力な国内産業保護派もいますが)。まあもっとも、近年は国際ビジネスの発展により両党ともグローバリズム推進という点で差はなくなってきていると思いますが。その意味で単に、デモクラット対リパブリカンだったらこの討論会はあまり面白くなかったかもしれません。リバータリアンとグリーンは極端すぎてそれぞれコンサバとリベラルから飛び出した異端なのです。だから面白かった。日本でもグローバリゼーションではありませんが、例えば日本会議青年部 vs. 民主青年同盟で「大東亜戦争」の評価をめぐって討論会をすると面白いかもしれません。
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4月14日(水)の夜
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例によってもはめど氏の助けを借りつつ、何とか時系列分析のペーパーの分析が終わりました。自民党支持の内閣支持への影響についてtime-varying parameterの推定値として以下のような結果を得ました。
Hinich-Roll time-varying parameter regression estimates
(Fifth-Order Polynomial Estimates)

この図の真中の太い線が時間ごとに変化する自民党支持率の回帰係数の推定値、"upper"と"lower"はそれぞれ、その推定値の95%信頼区間の上限と下限を表します。この図によると、中曽根政権が成立した80年代前半は一時的に自民党支持率が内閣支持率に影響を与えていないことになります。しかしその後は自民党支持の内閣支持への影響は増えつづけ、90年代前半にピークを迎え、一気に下降し再び統計的に有意でなくなります。この結果をサブスタンティブに解釈するのはかなり難しいような気がします…。あと、前も書いたとおり、自民党支持と内閣支持の同時性の問題をこの分析では考慮に入れていません。"time varying parameter"を使う限り、方法論的に難しそうです。といっても、結構最近のものまで先行研究を見たのですが、自民党支持と内閣支持の同時性を考慮してモデルを作っているのは見つけられなかったのですが(だからといって考慮しないのが正当化できるわけでもない)。まあ、このペーパーは自分の研究とは全く別で(そもそも一応僕はアメリカ政治を勉強しています)、単にクラスのためだけにやっているので、良しとしようと思います。方法論的なことだけが問題で、中味については問われないみたいだし…。
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4月15日(木)の夜
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最近、クラシカルリベラルづき過ぎていて自分でも何だかなあ、と思っているのですが、今晩、またしても行ってきました。アイン・ランド協会主催の勉強会ではなく、講演会です。どこからカネが出ているのか知りませんが(明らかに会費からではありません)、学生新聞に大きな広告を打って、学内でも大き目のオーディトリウムで行われました。講師は哲学のPh.D.をもっているという作家。アイン・ランド研究所主催のサマースクールの講師をするなど筋金入りのようです。テーマはまたしても、「グローバリズム」。でも今回は反対者なんていません。前回のグリーン・パーティで演説していた人は客席にいました(客席に座っていると、あの雄弁さが想像もできないほどこじんまりした人です)。客の入りは広い会場にバラバラと4分の1ほどです。内容としては、単にいかに資本主義の世界化が素晴らしい恩恵を国々にもたらしているか、いわばこの前の討論会のグリーン・パーティの逆バージョンです。いわく、香港は資源が無いのに、資源があるソ連よりも栄えている、同じ所からスタートしたはずの南北朝鮮が今では随分と差がついている、ニュージーランドやチリでは新自由主義的政策で経済が生まれ変わった、などなど資本主義の成功例だけが紹介されます。彼はまた、西洋で生まれた資本主義と自由主義は、そうした価値をもたなかった国々にもアメリカを通じて広がっているということを強調します。ここで登場するのが、リバータリアンのお気に入りの例、わが日本です。アメリカが日本を権威主義、軍国主義の国から、アジアで最も自由な国に変えて「あげて」、その結果日本は今日の経済成長を見せた。彼は"America created an economic giant, which was good!"と嬉しそうにはしゃぎます。資本主義は、「個人の権利のシステム」、「自由のシステム」、「繁栄のシステム」と何度も言葉を変え、まるで資本主義のセールスマンのようです。
なぜ、資本主義は良いのか。彼によれば、それは理性と自由重視、つまり個人主義的だからです。ソ連のような集団主義では、人々の能力はそれに応じて評価されない。アイン・ランドの言うように、全ての価値は"reasoning of mind"、"rational mind"から来る。精神の自由、合理主義の精神があって初めて本当の価値が見出され、良いものがわかり、良いものが作られる。集団主義や権威主義体制はそうした精神の自由を脅かし、時にポルポトのカンボジアや、毛沢東の中国のように教育程度の高い者を邪魔者として抹殺するから価値を生み出さないし、「非効率」で「悪」なのです。で、彼の話は最後、どうやって資本主義を世界に広げるか、ということで終わります。まず相互の利益を生み出す国際自由貿易を推進する。関税を無くし、国の規制の無い、完全に自由な貿易体制を作る。世界の国々が相互依存的になれば戦争も無くなる。彼はキューバやイラクへの経済制裁にも反対し、権威主義の国とも自由貿易を行うことを主張します。経済的自由はやがて政治的自由も生み出すからです。で、次に資本主義、自由主義は他の制度やイデオロギーに対して、経済的政治的優越性をもっていることを自覚する。資本主義は唯一の高貴なシステムである、と彼は言います。アメリカの建国の父達の精神やアメリカの権利章典は世界で最も価値がある思想である、など…。そして最後に、個人主義は普遍的なものであり、アイン・ランドの思想を学生や子どもに教えなければいけない、ということ。実際、彼はアイン・ランドの思想であるObjectivismの考えのもと作られた私立高校で哲学を教えているそうです。
以上のように、今日は敵がいないこともあって、明らかなプロパガンダ、アメリカ万歳の資本主義教の説教でした。さらに驚いたことに、講演後の会場からの「その国の経済的自由が増えれば、GNPも増えると言っていたけど、経済的自由と経済格差の関係はどうなの?、広がるんじゃないの?」との質問に答えて、彼は「それは悪いことなのか? 格差は大きければ大きいほど良いんだ!なぜなら人々はみんなそれぞれ違うのだから」と言います。これはすごい発言です。これについていける人は果たしているのでしょうか?。さすが愛国右翼の本領発揮といったところです。
この前の討論会でも思ったことなのですが、リバータリアンは資本主義は富を無限に増やすと信じているようです。限りない経済成長。彼らにとって経済競争は、決してゼロサムゲームではないのです。それに対して、いわゆるリベラルは成長に限界があると信じています。今手元に無いので詳細は確認できないのですが、昔読んだDavid Boucher, and Paul J. Kelly eds. 1994. The Social Contract from Hobbes to Rawls. London: Routledge.のロールズについての章に以下のような図があったと記憶しています。

このモデルにおいて、世界には金持ちと貧乏の二つの階級があると想定します。世界の富は合計100しかありません。最初は両階級ともゼロから始まりますが、公共政策によって徐々に豊かになっていきます。金持ちと貧乏の定義上の制約により、貧乏の方が金持ちの富を上回ることはありません。現状として以下の配分を想定します。
現状:金持ち=30、貧乏=10
ここで二つの公共政策の選択肢があります。公共政策Aを実施すれば、金持ちの富は45になり、貧乏人の富は25になります。公共政策Bを実施すれば、金持ちの富は70、貧乏人の富は20になります。
公共政策A:金持ち=45、貧乏=25
公共政策B:金持ち=70、貧乏=20
問題はどちらを選ぶか。もし「最大多数の最大幸福」を是とする、功利主義の立場に立てば、社会的全体として大きな富をもたらす公共政策Bがとられるでしょう。しかし「最も恵まれない人々の最大限の利益になる」ように政策が行われることを命じる、ロールズの正義の第二原理(格差原理)にしたがえば、貧乏人の富が25の公共政策Aが選ばれます。これは成長の限界を考えたときより大きな意味をもちます。というのも富が全体で100しか無いため、やがて図の太線のどこかにぶち当たって、そこからは限られた富の奪い合いであるゼロサムゲームが始まるからです。成長が続いているうちは、貧乏人階級も夢が持てるし別に功利主義にしたがって政策が行われても問題無いかもしれません。しかし、もし大きな格差は大きな紛争を生むと想定するなら、あまりに大きな格差を残したまま成長を終えるのは社会にとって望ましいことではありません(例えばY:金持ち=75、貧乏=25)。そうすると成長の終了地点として目指すべきはできるだけ両者の格差の少ない点(例えばX:金持ち=55、貧乏=45)。この点に一番確実に近づくには、功利主義ではなく、ロールズの格差原理に従って政策を打つのが良いということです。
以上のように、リバータリアンのように資本主義による経済成長の限界が無いと考えるのなら、経済格差はあまり気にする必要が無いのかもしれません。でも、もし経済成長がいつか終わるとするならば、このモデルが示唆するように、功利主義にしたがって政策を実施するのは良く無いのかもしれないのです。毎度のことながら、ウンチク失礼しました。
最初に書いたように、僕は最近リバータリアンの思想ばかり聞いているので、もっと別の流派の主張にも耳を傾けるべきかもしれません。実は先週はキャンパスで社会主義者の団体による講演会があったのですが、"Mystic River"を見に行ったため行けませんでした。ていうか、リベラル系よりも保守系の方が圧倒的にキャンパスでイベントが多い気がします。これは全米的にそういう傾向なのか、それともテキサスだからなのか…。
それと、今日はその後、学内の映画館に"Last Samurai"を見に行ってきました(無料)。周りの評判も良く、期待していたのですが、あんまりだった気がします。よかった点としては、「渡辺謙、真田広之以外の日本人がちんちくりんで、明治の日本人っぽかった」、「小雪がきれいだった」。悪かった点としては、「明治天皇の格好が中国風」、「何で自然風景が南国風?(まあ西郷隆盛がモデルで鹿児島ならわかるが、どう見ても東京から近そう」、「馬があんな立派な西洋種なわけないだろ!」という点は別にしても、「サムライをかっこよく描きすぎ」「明治天皇がなんで武士道を理解しているのか」というのがあります。まあ娯楽映画なわけですから、サムライをカッコよく描くのは当然ですが、何だかなあ、です。隣にたまたま座っていたアメリカ人と仲良くなって、終わった後彼が僕に感想を聞いてきたのですが、リバータリアン講演会の余韻もあった僕は、「サムライは近代化に対するreactionary(反動)なんだ。明治新政府軍の兵隊達はサムライに虐げられていた農民達なんだよ」となんともひねくれたことを教えてあげました。あと、渡辺謙の英語がトム・クルーズの英語よりもわかりにくかった。きっと難しいセリフを言い過ぎなのだと思います。逆にトム・クルーズの日本語が単純なもの過ぎて少し笑ってしまったのですが、やはりアメリカ映画だけあって渡辺謙の英語がそう単純では感情表現の問題などから、ダメだったのでしょうか。
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4月17日(土)の夕方
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昨日から公開されている「キルビル2」を見てきました。前作の70年代日本のアクションスター映画のナンセンスで、荒唐無稽なノリを残しつつも(2は昔の香港のカンフーアクション映画のノリが加わっています)、今回はちゃんとストーリーもあり、普通に楽しめる良い映画だったと思います。その点、前作のナンセンスなノリを期待していた人にはちょっと納得のいかない映画かもしれません。逆に僕みたいに前作のあまりのナンセンスさに戸惑っていたような人には良いと思います。映像は文句無しにカッコいいです。
ところで一緒に行ったアメリカ人から今度の月曜日にあるイスラエルのバラク元首相の講演会のチケットをもらいました。彼は大学主催の講演会のチケットを必ず毎回2枚もらえるというシステムの会員になっていて、今回も自動的に送られてきたのだそうですが、彼はめちゃめちゃ左翼なので、行くことはできないのだそうです(そもそも彼は去年のマイケル・ムーアの講演会のチケットが欲しくてこのシステムの会員になった)。絶対セキュリティチェックとかも厳重だし、会場の周りでは左翼が抗議活動をしてるでしょうから、ものものしい講演会になるのは明らかです。誰かチケットが一枚ありますので、一緒に行きませんか。心当たりのある人に声をかけたのですが、都合が悪いみたいで余っています。しかし、もし好きな女子がいたとして「チケット一枚余ってるんだけど、一緒に行かない?」なんて声をかけるには最高にふさわしくないチケットですね…。
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4月19日(月)の夜
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今晩は、イスラエルのバラク元首相のスピーチに行ってきました。意外なことに、先日の「一緒に行く人募集」にMBAの日本人の方が応じて下さり、その方と一緒に行くことができました。会場は公共政策大学院であるLBJスクールのオーディトリウムで、開演は7時半。一応念のためと思って7時前には行ったのですが、すでに長蛇の列で、係員が「第二会場になるかもしれない」とアナウンスして回っていました。カバンの持ち込みは一切不可とのこと。僕は小さなカバンをもっていたので、中身を取り出して無理やり全部ポケットに詰め込みました。入り口では空港にあるような金属探知機による身体検査が行われるなど、警備はさすがに厳重です。しかし抗議者の数は思ったほどでもなく、数人がパレスチナの旗を掲げたり、イスラエル軍によって殺されたパレスチナの子どもの写真を掲げて歩き回っている人がいたぐらいでした(ただし警察官の厳しい監視つき)。
建物の中に入ったものの、アナウンスのとおり、第一会場に入れず、第二会場の大型スクリーンでスピーチを聞くことになりました。入り口でパンフレットをもらったのですが、それによるとこのイベントはやはり"Jewish Community Association of Austin"とか"Texas Hillel"(Hillelとは、律法解釈の方法を確立した紀元前後のユダヤ教のラビの名前で、この団体はおそらくHillel Foundationという全米のユダヤ人学生組織の下部組織)とか"Texans for Israel"(イスラエル支持のアメリカ人の団体)とか親イスラエルの団体が協賛しています。
スピーチはほぼ定刻どおりに始まりました。スクリーンを通して見た限り、バラク元首相はいかにも素朴で柔和な感じで、英語も無骨で、決して流暢とはいえない感じです。この調子だとたぶんヘブライ語でもそんなに演説も上手くないでしょう。一応以下にバラク元首相に関する基礎知識を。
・1942年、テルアビブ近くのキブツ(農業共同体)に生まれる。
・17歳で軍人になり、戦争や対テロリスト戦で数々の功績を上げ、「イスラエル軍史上、最も戦功をあげた兵士」と言われる。中でも72年のベルギー航空機ハイジャック事件の特殊部隊の隊長として多くの乗客を救出したことや、73年にベイルートでパレスチナゲリラのアジトに潜入し幹部たちを射殺したことが有名。
・95年、パレスチナ和平でノーベル平和賞を受けた労働党のラビン首相が暗殺されたのにともなって、政界入り。
・99年、労働党首としてアラブとの和平の推進をかかげ首相選挙に打って出て、タカ派のリクード党のネタニヤフを破る(ちなみにネタニヤフは特殊部隊での部下)。バラクは口下手で地味なため首相公選制(このときが導入されて2回目)では不利と見られたが、アメリカの民主党から派遣された選挙コンサルタントの指導を受けた結果、見違えるように良くなった(ちなみにネタニヤフは共和党の選挙コンサルタントの指導を受けた)。
・2001年、リクード党のシャロンに首相選挙で破れる。
・学歴は、ヘブライ大学で数学と物理学のBA、スタンフォード大学で経済学と工学のMA。
上の情報からも推察できるように、対アラブとしてはリクード党よりはタカ派ではないが、労働党内ではタカ派という感じです。
で、スピーチの内容なのですが、まず二人のテキサス出身の大統領への謝辞で始まります。一人がジョンソン大統領で、1967年の第三次中東戦争のときにイスラエルに戦闘機を売却するなどして支援してくれたことに対して。そしてもう一人が現ブッシュ大統領で、「イスラエルはその地に居続ける権利がある」と明言していることに対して。会場内からは拍手が起こります。またイラクの問題に触れて、上手く行っている点としてフセイン捕捉、アフガニスタンのタリバン壊滅などを挙げたのち、悪い点として治安の悪化などとともに、大量破壊兵器が”まだ”見つかっていないことを挙げました。元首相は大真面目だったのですが、さすがにこのときは会場から失笑が漏れました。話のメインは、彼のアラブ人テロリストとの戦闘経験から来るテロに対する心構え、そして中東和平の今後の展望です。彼はテロリストを"Sophisticated Beasts"(利口な野獣)と呼びます。そして彼らに対しては徹底的にタフに当たらなければならないと力説します。また彼は自爆テロなどを外交手段として使うアラファトなどパレスチナのリーダーを大変憎んでいるようで、いくらテロが起ころうとも、テロリストに対して報酬を与えるようなことをしてはいけない(要するに、テロが起こったからといって譲歩したりしてはいけない)、でもそういうアラブのバカなリーダーたちのために、一般のアラブ人を罰してはいけない、と主張します。おそらくこの辺が、テロの報復として一般アラブ人に対する武力行使をも躊躇しない、リクード党のネタニヤフやシャロンとの違いだと思います。さらに、テロに対しては厳しい姿勢を貫く一方で、社会正義の問題や、世界共同体の問題にも目を向けないといけないと説きます。この辺がアメリカの保守派と違うところです。ユダヤ人は歴史的に国家を持たず全世界に散らばっていたため、国家という枠組みから離れて、より大きな観点から世界全体についての考察をめぐらすのに長けていると言われています(スピノザ、マルクスなどもユダヤ人です)。最後に、スピーチは"God bless you!"という言葉で締められました。一見ユダヤ人がこんなことを言うのは奇異な感じがしますが、旧約聖書の神はキリスト教徒と共有しているのでおかしくはないのです(ただしもちろんこの"God"はキリスト教徒と違って、キリストは意味しない)。
スピーチの後は例によって質問タイムです。会場から自由に質問を受け付けるというスタイルではなく、主催者が代表していくつかあらかじめ決められた質問するとういうもので、予想通り無難な質問ばかりでした。ああやっぱこんなもんだよなー、と思っていると、バラク元首相が突然、「客席にはどうやら親パレスチナの人もいるようだから、彼らからの質問を受け付けます」と言い出します。会場はどよめきました。客席からの質問は全くの予定外だったようで、マイクが用意されておらず、第二会場からスクリーンで見ている僕は内容が聞き取れなかったのですが、バラク元首相の答えは「イギリスがユダヤ人とパレスチナ人にそれぞれ国家を作るように提案した。ユダヤ人はそれを受け、国を作り、自らの生存を確保するために戦ったまでだ。なんら謝るべきことはない。最初の10年はありとあらゆる平和的手段を模索したが、アラブ人はイギリスの提案も一切受け入れなかった」というものでした(質問内容もだいたい検討がつきますね…)。しかし、親パレスチナの学生はバラク元首相の「質問受け付けます」との誘いには答えない方が良かったかもしれません。結局、バラク元首相に主導権があるので、一方的にバラク元首相に彼のパレスチナへの寛容さをアピールする機会を与えただけに過ぎなかったような気がします。あと親パレスチナ学生の質問の後には拍手が少なからずあったことから、そこそこの数の親パレスチナ学生が会場にいたものと思われます。でもスピーチの途中には一切ヤジなどが飛ばなかったことから、なかなか分別はあるようです。僕は第二会場だったのでその場の雰囲気を生で感じることができなかったのが残念でした。
それにしてもやはり修羅場を潜り抜けてきたイスラエルの政治家には重みが感じられました。彼らにとってテロは日本なんかとは比べようも無く大きな現実的問題ですから、当然なのかもしれませんが、ブレが無いというか信念を感じるというか。政治の世界は厳しそうです。
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4月20日(火)の夕方
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ジャパンセミナーに行ってきました。今回はシンポジウムということで、最近の日本に関するアメリカ映画3本("Kill Bill"、"Lost in Translation"、"The Last Samurai")について、それぞれUTの日本関係の先生がコメントを述べました。いつもとは違って超満員で立ち見となりました。アメリカ人のこれらの映画に対する注目度が分かります。
アメリカや日本での的外れな批評を多く知る僕は最初、「この先生たちも結構いいかげんなことを言うのではないか」と思っていたのですが、その予想には反して全て納得のいくことばかりでした。特にラストサムライについてコメントした日本史の教授は、サムライの反乱(西郷隆盛の西南戦争など)は、この映画のように自己犠牲(self-sacrifice)と名誉(honor)によって特徴付けられる武士道から出たものではなく、単に近代化によって特権を失った武士の反動的で自己の利益の動機にもとづいた(reactionary and self-interested)反乱だったと言い切るなど、胸のすく思いがしました。また江戸の後期の武士は城下町に住み、映画で描かれたような村落共同体には住んでおらず、要するにあれはネイティブアメリカンの集落である、さらに実際は武士は銃を使っていたのにもかかわらず映画ではひたすら剣と弓で戦っていた、などネイティブアメリカンとサムライを重ね合わせようとしている、とも(もちろんネイティブアメリカンとサムライを重ね合わせるのが間違っているのは言うまでもありません)。それに武士道という概念自体、17世紀の江戸時代の平和なときに、既成の秩序を維持するためのイデオロギーとして発展したものなのだそうです。
もちろん、この映画は娯楽映画なのだから歴史的な正しさはどうでも良いという意見もあります。僕も、甲冑が戦国時代のものだとか、馬が西洋種だとかそういうのは別にどうでも良いと思います。でも、サムライ=ネイティブアメリカンとの間違った認識とか、間違った歴史認識を助長するのは決して好ましくありません。その意味で、このラストサムライはダメな映画だと言わざるを得ないでしょう。ちなみにこの教授は女性で、ラストサムライはハリウッドの作ったmale fantasy(男のファンタジー)だとも言っていました。
コメントが全て納得いくものだったので、質問タイムは見ずにオフィスに戻りました。勉強、勉強!。
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4月21日(水)の夕方
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いつものアパートから大学への通学路でアルマジロが車に轢かれて死んでいました。リスはよく車に轢かれて死んでいますが、アルマジロはそれよりもかなりグロテスクでトラウマになりそうです。オースティンに来てすぐのときにキャンパス内でアルマジロを見て、「テキサスには野良アルマジロがいるのか」と思ったものですが、実は今回がそれ以来です。しかしこんな目立つ生き物が普段こんな街中のどこに棲んでいるのでしょうか。
昨晩は、University Democratsという民主党の学生団体とYoung Conservatives of Texasという共和党の学生団体とのゲイの結婚をめぐる討論会を見てきました。ゲイの結婚はサンフランシスコ市が許可したことをきっかけに最近アメリカ政治のホットなトピックとなっています。民主党は基本的にそれに賛成、共和党は反対という立場です。討論は例によって、両サイドが3人ずつのチームになり、それぞれの側が8分×3回の発言の機会を交互にします。各発言の間には2分間、作戦タイムが与えられています。
この問題に関しては、どう考えても共和党が不利です。彼らの反対の理由としては、「ゲイは社会に有害な影響を与える。それが遺伝的なものであってもダメなものはダメだ。例えば遺伝的に暴力的だからといって暴力をふるうことが許されるだろうか」とか「アメリカ社会はキリスト教の価値観の上に成り立っており、ゲイはそれに反する」とか「憲法にもBill of Rightsにもゲイの権利は書かれていない」(←ちなみにこれは最高裁の保守派判事が憲法裁判でよく言うことで、この憲法解釈理論は"the plain meaning of the text theory"と呼ばれます)などとても正当化できそうにないものばかりです。要するに彼らは自分達の脳に刷り込まれた「ゲイは気色悪い」という感情が先にあって、それを後付けで正当化しているだけなのです。つまり今までなぜアメリカでゲイの結婚が認められなかったかというと、単に大多数の人がそれに反対していたというだけで、決して道義的にも正義論的にも反対の立場を正当化できるものではなかったのです。時代が変り、ゲイの結婚を認める人が増えれば、その流れには逆らえない種類のものなのです。その意味で黒人問題に似ています。黒人問題も道義的に考えれば黒人に市民権を与えない理由はありません。それが長年かなわなかったのは単に感情的に反対の人が多かったというだけのことです。
観客のほとんどはゲイの結婚支持のように見受けられました。リバータリアン系の人たちも来ていて、前の方に陣取っていましたが彼らもこの問題にかぎっては民主党を応援するでしょう。このへんのねじれた関係は以下の図を見ると理解しやすくなります(ひょっとしてこのHPで以前にも書いたかもしれませんが)。

要するに、リバータリアンは経済問題ではコンサバティブ側で、社会問題ではリベラル側に立つのです。ただ大枠の理解としてはコンサバティブの一種とみなされます。これに対してコミュニタリアンというのは、経済問題ではリベラル側ですが、社会問題では共同体の価値観を重視してコンサバ寄りの立場をとります。ロールズなどのリベラルとウォルツァー、サンデルなどのコミュニタリアンの論争では、ロールズの想定する無知のヴェールに包まれた実在しない個人を、原子論的個人、不可なき自己などと批判し、あくまでも「個人があって社会があるのではなく、社会があって個人があるのだ」と主張しました。また正義の原理などといった普遍的な正義が存在するのではなく、各共同体には各共同体の、また各分野には各分野の固有の正義が存在するのだと説きました。こうしたコミュニタリアンの主張は1992年の大統領選挙のときクリントンによって、「家族の価値」を重視する保守的な有権者を取り込むために使われ、成果を収めたと言われています。
またこの枠組みは「脱物質主義―物質主義」のイングルハートを批判するフラナガンなどによっても利用されました。フラナガンは工業化の進展による経済問題の重要性の相対的低下と社会問題の重要性の向上にともなって、「脱物質主義―物質主義」ではなく、「リバータリアン―オーソリタリアン(権威主義者)」の対立軸が新たに出現したと主張します(フラナガンでは図にあるコミュニタリアンはオーソリタリアンと呼ばれています)。つまり経済争点が重要だった時代には単に「コンサバティブ―リベラル」の対立だったのに、それに新たに社会争点が加わったため、社会争点でリベラルなコンサバティブがリバータリアンに、社会問題でコンサバティブなリベラルがオーソリタリアンになったということです。
…脱線してしまいました。勉強するとします。
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4月23日(金)の朝
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例によってペーパー書きに苦労していて、久しぶりに睡眠不足なのですが、昨夜作業をしていて衝撃の事実が発覚しました。今使ってる時系列データが1991年までのしか無く、それ以降のデータは『世論調査年鑑』という毎年発行される本にあることがわかっていたのですが、以前UTの図書検索システムで"yoron"というキーワードで検索しても出てこなかったことから、「UTの図書館もでかい割に使えねーな」と思ってこれ幸いにと入手不可能ということで分析には含めませんでした(もちろんあくまでサブスタンティブな中味は問われない方法論のクラスのペーパーを書くためにですが)。で、昨夜ペーパーを書いてて、「世論」って「せろん」とも読めるんじゃないの!?と思い立って、検索すると案の定ヒットします。しかも最近のものまであります。「データ入手不可能」の言い訳が立たなくなりました。でも、もう時間がありません。ということでこのまま行きます。
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4月25日(日)の夕方
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ここを越えたらヤバイ!というラインがあるものの、明確な締め切りの無いペーパーというのはしんどいものです。こういうペーパーは徹夜してもあんまり意味が無いと今回わかりました。やはり日々の積み重ねが大事なのでしょう。ああ、つらい…。
昨日、フカヒレと北京ダックを生まれて初めて食べました。フカヒレはスープに入ってる小さいのではなく、大きいのをまるごとです。まさか人生初フカヒレがテキサスになるなんて、全く想像できませんでした…。
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4月26日(月)の夕方
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掲示板でも書いたとおり、今朝オフィスでパソコンを立ち上げようとすると、問題が起きました。電源を入れてもすぐに5秒くらいで勝手に落ちてしまうのです。エラーメッセージどころか何の画面も出ません。電源がちゃんと入っているか確認しつつ、20分くらい繰り返していたのですが、解決せず、大学のパソコンサポートセンターにもっていきました。そこで確認しても同じような症状です。「これはハードな問題かもしれないなあ…」とスタッフがつぶやきます。結局どうしようも無く、IBMのカスタマーサポートに連絡するしかない、ということになりました。でもハードディスクの中身だけは、取り出してCDに焼くことはできるとのこと。時間は2時間ほどかかって、料金は120ドル。中には昨夜もずっとやっていたペーパーがあったので、背に腹は変えられぬ、と頼むことに。しかし、CDをゲットしてオフィスに戻り、一応またPCを立ち上げようとすると、なんと何事も無かったかのように立ち上がる!。言ったいどうしたことなんでしょう。120ドルどぶに捨てたようなものです。むかつきます。いずれにせよ、夏には日本で新しいのを買おうと思います。こんな思いはしたくないものです。今後は重要なドキュメント類は大学のサーバに保存していこうと思います。
「研究用読書ノート」ももう少ししたら復帰できると思います。
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4月27日(火)の夕方
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昨夜からずっとペーパーをやっているのですが、今朝になって前から気になりつつも見過ごしていた分析結果の奇怪な点が改めて気になり、もはめど氏のオフィスアワーに行って聞くとやっぱりおかしい、とのこと(ちなみに僕とは違い、この時期彼のオフィスアワーにはたくさん人が来ます)。彼が書いた"ox"(統計ソフトウェアの名前)のプログラムをもらって、一から全部やり直しました。結局4時間くらいかかったのですが、結果はあんまり変らず。ああ時間がもったいない…。
それと来年度のTA、今年はウェイティングリストに載ることなく、首尾よくゲットできました。本当に良かった…。
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4月28日(水)の朝
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昨夜はペーパーの合間を縫って1時間だけアイン・ランド協会の勉強会に行ってきました。講師は有力なアイン・ランド信奉団体の一つであるAyn Rand Instituteの代表の奥さんで、UTの哲学部の講師をしている人です。UCLAでJD(Judicial Doctor)、南カリフォルニア大学で哲学のPh.D.を取得しているらしいです。テーマは"The Moral basis of Copyright"(「著作権の道徳的基礎」)ということで、文字通り著作権を擁護する内容のものです。まず彼女は現在のアメリカの著作権に関する支配的な考え方は間違っているとします。それは、社会の学術研究促進のために著作権をコントロールするというもので、議会が著作権の期間や範囲を「社会のため」という名目で規定します。著作権が無いと、人々のインセンティブが無いし、かといって著作権がいつまでも続くと社会の発展を阻害するという考えです。彼女はこれは単なる功利主義で、いかなる道徳的基準も、権利についての考え方も無いと言います。
そこで彼女が主張するのは、私的所有権による著作権へのアプローチ。ランドはCapitalsim: Unknown Ideaの中で著作権について述べているそうで、そこでは著作権は「所有権にかんする法的手段」と考えられています。所有権の考え方はロックが主張したように、労働によって作り出された価値にその基礎をおきます。ここで著作権とは知的労働を通じて想像された価値に対する個人の排他的権利であり、それを作り出した人は当然そこから生活に必要な利益を得る権利があるとします。その意味で著作権は所有権であり、言い換えれば、生存への権利なのです。それは価値を創造した者の完全な支配下に置かれるべきものなのです。しかし政府はそうした権利を、"public domain"という考えのもと、著作権の期間を限定することで侵そうとします。
とはいえ、彼女もランドも著作権の有効期間を限定することに対して必ずしも反対なわけではありません。ただしその理由付けが今の支配的な考えのように「社会のため」ではなくあくまでも「作り出した人の生活のため」でなくてはならず、目安として著作権を持つ人のことを誰も直接知らないようになるまでは著作権は保護されるべき、とします。ここで彼女は最近流行の"Copyleft"の考え方に言及し、はっきりと反対を唱えます。"Copyleft"は現在の支配的な功利主義的の考え方においては優勢ですが、所有権として著作権をとらえた場合、到底正当化できないそうです。"Copyleft"支持者の好む例として以下の話があります。昔飛行機が開発されたとき、私有地の上空を飛ぶのに当時のコモンロー(慣習法)は土地の上空まで所有者の所有権が及ぶとしていたため、飛行機をその土地の上空を飛んで欲しくない農場主が飛行機会社を訴えました。で、結局飛行機が飛べないというのでは都合が悪いということで、土地の所有権はその上空まで及ぶというコモンローが否定されたそうです。"Copyleft"支持者はそれと同様に、個人の著作権も新たなインターネットという道具の前に制限されるべきだ、と考えるのです。しかし彼女はそれは違うと言います。上空の所有権の場合、実際には土地の所有者は使用できないのだから、問題無いが、現在のインターネットは個人の生きる権利としての著作権をも侵害している、からだそうです。また"Copyleft"支持者が好んで引用するジェファソンも、「ジェファソンはそんなこと言ってない」と論難します。
リバータリアンはこの"Copyright"ならぬ"Copyleft"に概ね賛成のようですが、自らをリバータリアンと区別してObjectivistと呼ぶアイン・ランド一派は明確にそれに反対しているようです(傍目から見れば区別がつきませんが)。またこれはアメリカ政治全般にいえることですが、様々な主張を掲げる人々の間で「建国の父」たちの「取り合い」が起こります。アメリカというのは右翼も左翼も自分達がアメリカのコアバリューだと主張し、星条旗を掲げるような国です。
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4月29日(木)の昼
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噂によると来年度のTAの選考において、僕より学年が上の人も含めてほとんどのアジアからの留学生はウェイティングリストに載せられてしまっているようです。また来年度の博士課程入学者の中には一人もアジアからの留学生がいないのだそうです。こうしたことを受けて「差別だ」という声も一部アジア人留学生の中から上がっているとか…。まあ僕はこれが差別によるものだとは必ずしも思いませんが、一ついえることとしては、近年アメリカ人の学生の質が上がってきているということがあると思います。不景気や、911以降の国際関係への関心の高まりから、今までだったら大学院を志望しないような優秀なアメリカ人も政治学大学院博士課程を受験するようになっているのです。聞いた話では、UT政治学部でも以前は「ダメなアメリカ人よりも、ソウル国立大や国立台湾大出身の優秀な留学生をとる」という感じだったそうですが、おそらく近年はそうする必要が無いくらい優秀なアメリカ人が集まっているのかもしれません(実際、来年度の新入生はここ10年で最も優秀とのことです)。特に国際関係専攻は、国際関係プログラムが充実していないUTでさえ、ジョンズホプキンスのSAIS(School of Advanced International Studies)とか、コロンビアのSIPA(School of International and Public Affairs)とかの名門国際関係大学院でMAを取ったアメリカ人が入学しているくらいです。
少々気が早いですが来々年度のTAになれるためにも、一刻も早くプロポーザルを完成させ、ディフェンスしたいものです。そしてAPSAやミッドウエストでもペーパーを発表しないとなあ…。
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4月30日(金)の朝
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6月下旬にバージニア大学で1週間、某リバータリアン系研究所が主催する研究者志望の院生対象のサマーセミナーに参加できることがわかりました。食費、滞在費、その他セミナーに関する費用は一切かかりません。おそらく政治的なものだと思いますが(洗脳セミナー!?)、テーマは「合理性と制度」という興味深いものですし、何と言ってもデューク大学のマイケル・マンガーが教えるというのが楽しみです。ついでにアメリカ東部を旅行してきたいと思います。
とはいえ、色々それまでにやらなければいけないことがあるし、考えすぎてよく眠れない日々が続いています…。
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4月30日(土)の夕方
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本日二回目の更新です。ペーパーからの現実逃避で、さっそく6月の旅行の手配を一通り済ませました。以下のとおりです。
6月8日(火)午前オースティン発―(列車、1泊)→9日(水)午後シカゴ着(1泊)
10日(木)夜シカゴ発―(列車、1泊)→11日(金)午後ニューヨーク着(4泊)
15日(火)朝ニューヨーク発―(列車)→同日午後ワシントンDC着(4泊)
19日(金)朝ワシントンDC発―(バス)→同日昼シャーロッツビル着(7泊)
25日(土)午後シャーロッツビル発―(飛行機、ワシントンDC乗り換え)→同日夜オースティン着
おそらくこれが僕にとって最初で最後の長期個人旅行になると思います。僕は2泊3日の国内温泉旅行とかは好きですが、長期個人旅行は好きではありません。言葉が通じない国、アメリカよりも汚くて、危険で、いい加減な国は旅行会社のパック旅行でない限り絶対に旅行したくありませんし、いわゆる貧乏旅行も無理です。留学する前はアメリカだって旅したくありませんでした。でも今回はバージニア大学のセミナーもあるし、この3年間で英語も旅行に支障が無いくらいにはしゃべれるようになったし、こんな旅行ができるのも年齢的に最後かもしれないと思ったので、張り切ってみることにしました。ああ、ペーパー、ペーパー…。
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