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| 2005年1月の日記 |
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1月4日(火)の夜
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1月2日に日本とアメリカで僕にとって二つの気になるカレッジスポーツの試合がありました。一つはラグビーの大学選手権準決勝の同志社対早稲田。もう一つはアメリカンフットボールのローズボウルのテキサス大学対ミシガン大学。前者は同志社が惨敗しましたが、後者はテキサス大学が38対37と辛勝を収めたようです。こういうスポーツの大きな試合のときには、普段はあまり意識しない「愛校心」みたいなものが出てくるなあと思います。
昨日、大阪のサンケイホールであった「米朝一門会」に行ってきました。別に僕は落語好きとかではなく、完全なミーハーで、桂米朝一門の主だった落語家が出演するとはいえ、知っていたのは桂米朝、ざこば、南光、雀々くらいでした。でも非常に楽しめました。古い落語が中心で、中には一昔前なら誰もが知っていたような知識を前提としている噺があり、オチがイマイチ良くわからないのがありました。また機会があれば行きたいものです。日本バンザイ!
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1月7日(金)の夜
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この冬休みは脱線っぽいですが、経済学を薄く広く勉強しています。早稲田留学時代にとった経済学入門のクラスの教科書を読み返したり、なぜか手元にあったJoseph E. Stiglitz. Economics, second edition. W.W. Nortonをつまみ読みしたり。テクニカルなことを勉強するのではなく、経済学の考え方、経済学モデルの枠組みを大まかに掴むのが目的です。その意味で森嶋通夫. 1994. 『思想としての近代経済学』. 岩波新書は非常に有益な本でした。リカードからケインズまでの学説史の概説ですが、経済理論が構築される様が門外漢にもわかりやすく解説されています。僕は今まで主に政治心理学を勉強してきましたが、政治経済学にまで幅を広げられたらなあ、などと漠然と思っています。ていうか、博士論文のテーマは今のところ、政治心理学の知識も政治経済学の知識も必要なものとなっています。
あと最近はアメリカに持って行く本を物色しています。とりあえず真渕勝、北山俊哉、久米郁男. 1997. 『はじめて出会う政治学―わかる楽しさ まなぶ喜び』. 有斐閣アルマと草野厚. 1999. 『連立政権―日本の政治1993〜』. 文春新書を買いました。前者はタイトルから分かるとおり政治学の入門書ですが、この種の本は知識の整理になるので逆にそこそこ政治学を勉強した人にも有益だと思います。それぞれの記述がどのような研究に基づいているのか、考えながら読むと面白いです。後者は細川内閣以降の連立政権についてのサブスタンティブな知識を提供してくれるという点で有益だと思います。データ分析、計量分析だけではわからないこともやはりたくさんあります。建林正彦. 2004. 『議員行動の政治経済学―自民党支配の制度分析』. 有斐閣も面白そうだったのですが、内容が直接僕の関心に合致しないのと、予算の関係で購入を断念しました。合理的選択論のアプローチを全面的に採用しているようで、僕にとっていずれ読むべき本だと思います。しかし政治学の本を見ていると、自分の生産性の低さを痛感し、少しブルーになったりもします…。
今日は一日中、同志社の図書館で勉強していました。昼には同志社の博士課程にいる友人とラーメンを食べに出ました。堀川北山を少し北西に行ったところにある「福三」というラーメン屋で、主人は元和食の料理人で「料理の鉄人」から3回出場以来があったのを断ったという人だそうです。ラーメンは背脂でこってりの典型的な京都ラーメン(京都ラーメンはそのイメージに反して、日本一脂分が多く、カロリーが高い)で、おいしいけどインパクトもないという感じでした。「天下一品」の「あっさり」に似ているような。いずれにせよ、こういうラーメンは日本でしか食べられません。
学部長からメールが回ってきて、最近何人か就職が決まったようです。南部の名門州立大学、NYCの大学、南部のリベラルアーツカレッジなど良いところが多いです。もちろん就職を決めた人たちが優秀なのだと思いますが、こういうのを見ると近年のジョブマーケットの状態はそんなに悪くないのかな、と思ったりもします。僕は今のところアメリカでの就職は考えていないので関係ありませんが。
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1月10日(月)の朝
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いよいよ今日、アメリカに戻ります。夜7時10分発で関西空港→シカゴ→オースティンで、オースティンに着くのは現地時間10日夜11時(日本時間11日午後2時)です。長旅で疲れますが、これまでのように伊丹空港→成田空港と移動して成田で半日潰してダラス行きに乗るよりだいぶ気が楽です。とはいえ、アメリカに戻る際の憂鬱さはいつものとおりです。帰国後数日間が1年で最も楽しい時で、アメリカに戻る前数日間が最も嫌です。この傾向は年々強くなってきます。僕はよほどアメリカが嫌いなのか、日本が好きなのか…。
おとつい、京都の三条麩屋町あたりのオサレなカフェでコーヒーを飲んでいると、男性の一際大きな声が。この人はどうやらアメリカ在住らしく、聞いてみると「ニューヨークのクラブでは…」などとイタイ話を自慢気に女子に語っています。「なんじゃこいつは!?」と不愉快な気持ちで聞いていたのですが、ふと「これは同属嫌悪なんじゃないか?」と思いました。僕もそういえば最近はよく「アメリカでは…」などと話します。つまり傍から見ればこの男性と同じです。ちなみにオタ系の友人もそのテの店に行くと、他の客に対して同属嫌悪をもよおし、「俺はこいつらとは違う」などと思うそうです。
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1月10日(月)の夜
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オースティンに無事戻ってきました。深夜0時というのに、気温摂氏20度という異様な生暖かさです。帰宅すると張り紙があり、マネージャーが入ったとのことでした。クリスマス頃の寒波到来のため、エアコンの温度を華氏62度に設定し、水道管保護のために水をちょろちょろ出したようです。1ヶ月も変わらないのにえらい違いです。
それにしてもやる気が出ません。正直日本が恋しいです。何とか学期が始まるまでに良い状態にもっていきたいものです。
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1月11日(火)の夜
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現在、11日夜10時。オフィスにて睡魔と闘っています。といってもいつもほどではなく、そんなにつらくはありません。とりあえず12時まではオフィスで勉強しようと思います。
昨夜は夜中の3時まで片づけをしたり、バリカンを使って自分で散髪をしたりしていて、今日は12時半に起きました。そしてカフェでコーヒーとクロワッサンの朝食(!?)をとり、大学近くの服屋で帽子を購入。前から欲しかった、"TEXAS"と書いたナイキのメッシュキャップ。今回の帰国時に結構メッシュキャップを被っている人を多く見て、日本でも大丈夫かもと思ったので。それから一旦家に帰って、止めてもらっていた郵便を受け取りに郵便局へ。中には公安委員会からの手紙があって、手続き上のエラーがあるため申し込んでいたIDの発行ができないとのこと。前にもここに書いた、学生ビザの名前が変わっていないという問題だと思います。もうこのまま身分証明書無しで生活することになるのか…。とりあえず明日にでもまた公安委員会に行ってみようと思います。その後、スーパーで買い物。りんごの袋詰めが2キロちょっとで200円しないという激安でした。1週間分の食材を買ったのですが、バターを買い忘れました。実は先学期からのがだいぶ残っているのですが、休み中は冷蔵庫をオフにして常温で戸棚の中においていたのでやばいかもと思います。とりあえず明日の朝はこのやばそうなバターを使ってみるしかありません。あとスーパーの隣のシアーズという一応デパートに寄ると、レッドウイングのアイリッシュセッターではない靴が格安で売っていました。でもレッドウイングはアメリカでは完全に実用靴で、この靴もその例に漏れずアメリカ人のおっさんが履くような靴だったので、一応試着したものの購入を考えもしませんでした。
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1月17日(月)の朝
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苦手な時差ぼけのせいもあって、この1週間は勉強もできず、軽く落ち込んでやる気が減退していました。しかしこれではいかん、と思いますのでそろそろ本腰を入れて勉強したいと思います。学業上の様々な不安がありますが、何かやらないことには事態は悪化するばかりです。このHPおよび日記は最近存在意義が見出せなくなっていたのですが、少なくとも僕の精神衛生を保つ上で何らかの良い影響を及ぼしていたのかもしれません。下らない内容でも明日からほぼ毎日更新ペースでいきたいと思います。
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1月19日(水)の朝
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昨日は午前中、今学期TAをする「アメリカ政治入門」のクラスの先生とミーティング。この先生のクラスのTAをするのは3回目なので、もうだいぶ勝手がわかっています。しかもこのクラスは入門クラスなので4回の試験が全てマークシート方式のようで、採点する必要がありません。というわけで、おそらく「給料泥棒」的すごい楽な仕事になるでしょう。先生も僕の境遇を理解しているので「TAの仕事はほとんど無いようにするから、プロポーザルがんばりなさい」と言ってくれました。とはいえ、僕としては「時間がある」ということと「プロポーザル上手くいく」ということは結構別物のような気がするのですが…。
午後はPositive Political Economyの授業。学生は6人と少なく、しかもそのうち4人は僕と同学年でコンプも終わった人たち(そのうち一人はプロポーザルも終わってる)。あとの二人のうち一人は経済学部博士課程の2年生、もう一人は政治学部博士課程の2年生です。最初の4人と先生とはよく知った仲なのでほとんど自己紹介もなく、内輪の集まりのようです。こうした事情を受けて、先生も授業の内容をできるだけ学生の関心に合わせて結構フレキシブルにするということになりました。配られたシラバスは文献リストを含む20数ページにも及ぶ量。カバーしているトピックは、
・Political Business Cycles(政治的景気循環)
・Political Monetary Cycles(政治的金融循環)
・Partisan Economics(党派的経済)
・Economics and Elections(経済と選挙)
・Economic Voting(経済投票)
・Money and Elections(カネと選挙)
・Corporate Political Behavior(企業の政治行動)
・Markets and Politics(市場と政治)
一目見て、気が付くのがpublic choiceがカバーされていないということです。これに関して先生は、public choiceは経済学の方法で政治を分析する手法であって、この授業では実質的な政治と経済の関連について勉強する、と言いました。つまり"political economy"の定義はこの場合、方法論にあるのではなく、実質的な関心対象にあるということなのでしょう。それに僕も含めてUT政治学部の院生は経済学の方法論的トレーニングをほとんど受けていないので(特に数学を使った経済理論)、public choiceをこの授業で扱うのは現実的に無理があると思います。いかにも政治学部でオファーされている「政治経済学」の授業という感じです。そうなると一人だけ参加している経済学部の学生は不満じゃないのかなあ、などと思うのですが、自己紹介によると彼はマクロ経済学、開発経済学が専攻のようで、ひょっとすると彼的にはそんなに問題ないのかもしれません。来週の授業は先生によるマクロ経済学の基礎のレクチャーのようです。
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1月20日(木)の朝
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昨日はTAをしているクラスの第一回目の授業がありました。教室は新しく政治学部が移る予定の建物です。その建物はUT創立当初からあるキャンパスの中心に位置する由緒ある建物で、最近大幅な改修が行われ、雰囲気のある外観は残したまま中身は最新の設備を取り揃えています。感じのよい中庭もあります。政治学部は来年をめどにこの建物に全面移転するのですが、現在は政治思想系の先生たちだけが移っています(政治思想系はいつのまにか一大勢力になっています)。
授業は登録者100人を超える大きなもので、オーディトリウムで行われます。昨日は第一回目だったので、シラバスの説明に終始しました。この授業ではある実験が行われています。それは授業の内容を毎回ビデオテープにとって、登録者がウェブ上でそれをいつでも見ることができる、という新しいシステムの導入に関するものです。UTはこのシステムを近い将来に全ての入門クラスで導入しようと考えており、この「アメリカ政治入門」のクラスはその実験第一号に選ばれたのだそうです。しかし、なんでそんなことする必要があるのか。この授業では出席はとらないので、学生は授業に出なくてもビデオさえ見ていれば問題ないことになってしまいます。これでは授業に出席する学生が減るのでは。などという疑問を先生にぶつけると、ビデオを見て勉強するのは時間も労力も授業に出席する以上にかかるし、決して楽なことじゃないから結局授業に出ないような学生はビデオすら見ないだろう、とのことでした。要するに真面目な学生が授業の内容を復習するのに使うという本来の目的が達成されると見ているようです。まあこういうことも含めて「実験」なのでしょうが(何週間おきかに実態を調査するためにアンケート調査が行われるようです)。
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1月21日(金)の朝
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昨日はUTの公共政策大学院であるLBJスクールであったジョン・アイケンベリー教授の話を聞きに行ってきました。アイケンベリーは国際関係、アメリカ外交政策が専門のプリンストン大学ウッドロー・ウィルソンスクールの教授で、この分野では現在最も有名な論客の一人と言える人です。彼はアカデミックなキャリアもさることながら、父ブッシュ政権後期に国務省(日本で言うと外務省に当たる)の政策作成の部局で働いた経験もあり、Foreign AffairsやNational Interestなどの現実政治に近い政治雑誌に寄稿するなど、どちらかというとアカデミズムよりも現場に近い「政策学者」だと思います(アメリカには政治学者にも大きく二種類があり、一つは完全にアカデミズムの世界で研究する人。もう一つは政権に入ったりしつつ現実的な政策に関わる研究をする人で、こういう人たちはたいがい国際関係大学院や公共政策大学院などのプロフェッショナルスクールやシンクタンクに籍を置き、メディアにもよく登場する)。彼の目下の論点はブッシュ政権のユニラテラリズム批判にあるようです。実は僕はあんまりこういう話には昔から興味が無いのですが、アイケンベリーは有名人なので完全にミーハー気分で行ってきました。
講演のタイトルは"Unipolarity and the Future of Unilateralism."(「一極支配と単独行動主義の未来」)。教授はまず冷戦後のアメリカ外交の"grand strategy"を振り返り、そこには二つの大きな流れがあったと言います。一つはソビエトに対抗しつつ、安全保障を重視するリアリスト戦略で、ヨーロッパやアジア各国にアメリカの軍事力を提供してきました。もう一つはデモクラシーの促進、multilateralismをモットーとするリベラル戦略で、国際自由貿易体制などアメリカが進んで国際社会の公共財を生み出す努力をしてきました。この時代における安全保障の基本方針は"security cobinding"であり、つまり力の拮抗する大国同士が国際組織を通じてお互いに監視しあうことで国際的な秩序を保とうとしてきました。ちなみに教授の説明によれば、安全保障の方針として歴史上、"hiding"(孤立主義)、"balancing"(勢力均衡)、"cobinding"(相互監視)の三つがあるそうで、これらは例えるなら、アブナイ隣人がいたとして、引っ越すのが"hiding"、自分に危害が加えられないように武装するのが"balancing"、あえてそのアブナイ人も含めて大勢で同じアパートに住んで生活を監視しあうのが"cobinding"なのだそうです。
ところが現ブッシュの時代になって二つの大きな現実の変化がありました。一つは911以降のテロの勃発により、戦争が「私有化」されました。さらにウエストファリア条約以降国際関係を支配してきた5〜7ヶ国による勢力均衡による国際秩序の維持が崩れ、アメリカだけが唯一の超大国となりました。こうした現実を踏まえての現ブッシュ政権のgrand strategyはまず、"hegemonic strategy"(覇権戦略)。これはいわゆるネオコン戦略で、混沌とした国際秩序をアメリカの強大な力でもって治めようとします。さらにもう一つのgrand strategyとして、"conservative nationalist strategy"(保守愛国戦略)。これは従来の国際協調主義的な"liberal strategy"にとって代わるもので、「国際社会など無い」との認識、「国際社会と協調する必要など無い。アメリカはしたいようにする。国際的な正統性など必要ない」という主張に表されます。ちなみにこうした戦略は珍しいものではなく、例えばタフト政権(1909−1913)なんかにも見られるそうです。
で、問題なのがこの"hegemonic strategy"と"conservative nationalist strategy"の二つを実施することによって、世界各地で「アメリカの処理能力を超えた過剰な抵抗」(overloaded resistance)を生み出すこと。この二つの戦略の組み合わせは到底持続可能ではなく(unsustainable)、いわばアメリカにとっても世界にとっても「災厄のレシピ」(recipe for disaster)なのです。ただ最初の"hegemonic strategy"に関してはいわば一つの現実であるので、教授はそれほど批判的ではないようで、アメリカは今後、"conservative nationalist Leviathan"(保守愛国超大国)ではなく、"liberal Leviathan"(リベラル超大国)になるべきだ、と言います。またもう一つ問題なのが、アメリカの人々(そしておそらくアメリカ人以外の人々)がこの戦略を拒否する有効な術を持たないということだとのことです。
とまあ、以上アイケンベリー教授おなじみの話でした。だいたいこういう有名人の言論はすでに雑誌やメディアに多くとりあげられていて、どこかで聞いた話なわけでその意味で面白みにかけます。もちろんこれはすごいことなのですが。あと、僕がこういう国際関係の話にあまり興味がないのは、実際問題日本人に関係が無いことだと思うからです。僕がもしアメリカ人に生まれていたならこういうアメリカ外交戦略のあるべき姿に関する話や、国際政治秩序の話は面白いし、有意義だと思ったかもしれません。しかし今の国際環境に生きる日本人にとってこういう話は所詮遠い国の話、自分たちの影響の及ばない話のような気がするのです。その意味で、こういう国際関係の話は小説などと同じ娯楽にしか過ぎないのではないかと思うのです。もちろんミーハー的な関心はありますが、それはいわば「知的な遊び」にしか過ぎません。戦後日本の外交政策のgrand strategyなんて現実的にはしょせん一つしかありません。「アメリカ協調」です。ていうかこんなのgrand strategyとはいえません。基本的にアメリカの動きに逐一対応すれば良いだけなのですから。日本はアメリカのgrand strategyの駒にしかすぎません。日本はそうである以上、独自のgrand strategyなど持てるはずもありません。grand strategyをもてるのは、あるいは自国のgrand strategyに関する議論が有意味なのは、アメリカのような覇権国か、少なくとも勢力均衡の一極をなす国です。戦前の日本ではおそらくgrand strategyをめぐる議論が、まさに国の興亡をかけたものになっていたのではないでしょうか。大隈重信『東西文明の調和』、浮田和民『倫理的帝国主義』、石原莞爾『世界最終戦争論』などの「でかい話」がただの「でかい話」ではなく、日本のgrand strategyに結びついた現実的な話だったのではないでしょうか(『文明の衝突』は覇権国アメリカのハンチントンが書いたから評判になったのであって、日本人の誰かが書いていたらただの娯楽向きの「でかい話」で終わったでしょう)。ただし「戦前の日本は良かった」と言っているのではありません。むしろ僕としてはその逆で、「grand strategyなど真剣に論じなくてはいけない物騒な国(例えばアメリカ、中国、北朝鮮など)に生まれなくて良かったなあ」とある意味思います。以上、勢いにまかせて書いたとんだ脱線話でした…(後で削除あるいは修正するかもしれません)。
あと、昨日のブッシュ大統領の2期目の就任式の祝賀パレードにUTのマーチングバンドが参加したそうです。大学として何だか色がつきそうだし、だいたいバンドのメンバーで個人的に反対した人はいなかったのでしょうか!? また就任式の聴衆の中に、カウボーイハットをかぶったテキサス人が散見されたのが気になりました。こういうのを見るとリベラル派は、ワシントンがテキサス人に支配されてる!なんて思ったりするのでしょうか。ちなみにオースティンのテレビ局の報道によると、就任式の後のセレモニーでブッシュ大統領はタキシードにカウボーイブーツを合わせるテキサススタイルで決めていたそうです。
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1月23日(日)の朝
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TAをしている「アメリカ政治入門」のクラスの教科書をざーっと読んでいます。この教科書は全米レベルで販売されているものですが、テキサス州向けにテキサスバージョンがあり、それにはテキサス政治に関する章がいくつか含まれています。そこでの記述をいくつか拾ってみると、
・人口20,851,820人で、カリフォルニア州に次ぐ全米2位
・人種構成:白人53.1%、ヒスパニック32.0%、黒人11.6%、その他3.2%
・所得上位20%が49%の富を所有(所得配分不平等率全米3位)
・高校卒業者率、全米下から4位
・18歳以下の子どもの22%が貧困層に分類
・健康保険未加入の子どもの割合全米2位
・人口に占める栄養失調者の割合全米4位
・財政支出に占める福祉への支出割合全米下から4位
・最貧困層からはその総収入の17%の額を税金として徴収する一方、最富裕層からはその総収入の5%しか税金として徴収しない、超逆進的税制
など結構悲惨なことになっています。なんでそうなのかというと、一説には「テキサスの統治哲学は低税率、低サービス州を支持している。テキサス人たちは低税率がビジネスや労働者を引き込み、それは経済成長に繋がると信じている。経済成長は繁栄と機会をもたらし、それは社会問題を解決する。テキサス人たちは他のアメリカ人が彼らのやり方に口出しするのを決して好まない。」とのことです。テキサス人の政治信条は「個人主義」と「自由」なのだそうです。きっとブッシュはアメリカをこういう国に変えたいのでしょう。
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1月24日(月)の朝
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先ほど朝9時からアドバイザーに会って指導を受けてきました。昨夜はそのための準備で全然寝れませんでした。論文の理論の部分について僕が考えていることを伝え、いくつか質問をし、議論しました。彼は学内の行政職に忙しい人なのでこんな早い時間な上、15分くらいしか話せませんでしたが、いろいろと有意義な内容だったと思います。僕がとるアプローチに関しては、おそらく心理学のそれを批判しつつ「rational choiceバンザイ!」みたいな感じになりそうです。あと今学期の終わりにはプロポーザルをそろそろディフェンスしよう、ということにも。今のところ全然できる気がしませんが…。今日の午後、別の先生にも相談に行くし、明日の午前にもまた別の先生のオフィスに行きます。今学期はそれぞれの先生の個人指導を受けることが主体で、これまで僕はこういうのを苦手としてきましたが、何とかその殻を破りたいと思います。
学部は政治思想のシニアレベルの引き抜き活動を引き続き行っているようです。今月に相次いでその候補者であるアマーストカレッジ、ハーバード、LSEなどのテニュア付き教授が来訪します。もちろんUTとしてはその中から選ぶというよりも、選んでいただくという感じだと思うのですが、それにしてもこんな一流大学のテニュアを捨ててまで、東部の知的雰囲気とは程遠いテキサスに来てくれるもんなのでしょうか。よほど良い条件なのか。また院生をぞろぞろと連れてきて在校生が職にあぶれたりするようなことにならなければ良いのですが。これらの教授、例によって古代政治思想にベースをおきつつも現代の問題も語るというようなタイプの人たちのようです。
また政治行動の分野でも今月、シニアレベルの引き抜きの対象となっている中西部の大学の教授が講演をしに来ます。その人はかなりディープな政治心理学者で、一般受けするとは思えませんが、この分野では有名です。しかしどうしてこうも僕の好みとは違った方向に補強が行われるのか。入学以来、「学校のプログラムよりも本人のがんばりの方が重要だ!」と自分に言い聞かせてきましたが、最近「やっぱ学校のプログラムってすごい重要だよなあ」と思ってきました。
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1月25日(火)の昼
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昨日の朝から今日の朝にかけての「先生行脚」が終わりました。これからはできるだけ毎週あるいは最低二週間に一回、これらの先生を巡って、プロポーザルおよび博士論文そのものを進めたいと思います。今のところ結構好感触を頂いていますが、今後絶対「波乱」があることでしょう。くじけないでがんばりたいと思います。
冬休みに読んだ森嶋通夫. 1994. 『思想としての近代経済学』. 岩波新書から感心したことを。経済学の分野では、大きく自由市場を重視する新古典派と市場への政府の介入を認めるケインズ派が争っており、両者は政治的には保守対リベラルの対立構図となっています。理論的な部分での両者の根本的な違いは、新古典派が「供給が需要を作る」と考えているのに対し、ケインズ派は「需要が供給を作る」と異議を唱えている点です。こうした新古典派の「供給(貯蓄)はそれ自身に対する需要(投資)をつくる」という考えは「セイの法則」(Say's law)と呼ばれ、これが成り立つ限りは新古典派の自由市場論は有効です。「セイの法則」はつまり商品をいくら作っても、市場において何がしかの値段が付き、需要されるということを言っています。しかし「資本蓄積が進行し、経済発展がなし遂げられるにつれ、投資機会の多くは実現済みのものとなり、少ししか投資機会が残されていなくなる」。その結果、「技術発展が急速に進行する例外的な時代を除いては、一般には投資需要は、余剰生産物(実物貯蓄)より遥かに小さくなる」ということになり、セイの法則は満たされなくなります。著者は上記のような現実の世界での調整を以下のように記述します。
将来の経済状態を予測して企業者が適当だと判断した投資量よりも、生産量が多ければ、現在生産物がつくられ過ぎているのであるから、生産者は生産を縮小するであろう。また逆に投資が生産より多ければ、その財の生産量は拡大されるであろう。このように、現実の世界では、セイ法則が主張するように供給に需要が適応するのではなく、逆に生産(供給)が投資(需要)に適応するのである。このような適応が行われるためには生産量が調節されねばならない。すなわち生産が投資を上(下)回るときには生産縮小(拡大)が行われる。
もし投資が十分でないのなら、生産量は小さく、その結果雇用量も少なく、失業が生じます。新古典派はこの点「セイの法則」を仮定することで投資は常に十分で、生産量もあるため市場に任せている限り、完全雇用は損なわれないと考えており、失業が生じるのは労働者が高すぎる賃金を要求するからだと考えていました。自由市場経済において失業が生じるとしてもそれは一時的なものに過ぎず、放っておけばそのうちまた完全雇用の一般均衡が生じると考えていました。それに対してケインズは「反セイの法則の世界」では、完全雇用の一般均衡が生じず、たかだか失業を伴う不完全均衡が成立するに過ぎないと主張しました。それゆえ失業を解決するためには、新古典派が言うように市場に任せるのではなく、政府が事業をするなどして投資を増やさなければいけないのです。
以上のような話は、前から漠然と知ってはいましたが、今回この本で新古典派とケインズ派の対立を「セイの法則」を巡る対立ととらえることで一層明確になった気がします。もちろん経済学をやっている人にとっては基本なことだとは思いますが(今手元にある経済学の教科書で確認したところ、「セイの法則VS有効需要の原理」としてちゃんとありました−「財・サービス市場→労働市場」ではなく「労働市場→財・サービス市場」で説明されているなど森嶋の説明と若干違う気もしますが)。しかし、経済理論上のモデルをめぐる論争はなかなかに面白そうです。なんで政治学ではこのような政治モデルをめぐる理論的論争ができないのか。「価格はいかにして決まるのか」「失業はなぜ生じるのか」などという問いと同様、「大統領選挙の候補者得票率はいかにして決まるのか」、「棄権はなぜ生じるのか」などという問いにかんしても政治理論を構築し、そのモデルをめぐって経済学同様、理論的な論争は可能なのでしょうか。政治学の場合、モデルに関する論争となると、モデルが内的に一貫性があるかどうかとかよりも、データと照らし合わせて「いかに現実を説明するか」ということに重点がおかれる気がするのですが、経済学では必ずしもそうでは無い気がします。
ちなみにこの本の著者の森嶋通夫氏は阪大教授からLSE教授へと転じた人で、一部では日本人が経済学でノーベル賞をとるならこの人、と言われていました(2004年没)。専門的には数理経済学者ということですが(LSEのHPでは"A distinguished mathematician and econometrician"と紹介されている)、専門外の領域への言及も多く、一部では「トンデモ」扱いもされていたようです。特に話題になったのが冷戦期70年代末のソ連の脅威を巡る論争で、戦争の被害によるコストは占領によるコストを上回るから、ソ連軍が攻めてきたときには日本は白旗を振って降伏し、赤旗を振ってソ連軍を迎え入れれば良いと主張した「白旗赤旗論」があります(これは当時の左翼の「平和主義」に対する皮肉であったという話もある)。大物と呼ばれる学者は、経済学者に限らず時にトンデモな方向に行くような…。
最近アニメ『まほろまてぃっく』のシリーズ第二弾を見ています。ドジっ娘の妹系でしかもメイドという「萌え」の要素を凝縮したキャラが登場しています。だいたいこのアニメはベタな「萌え」に満ち溢れているのですが、これはその最たるものだと思います。僕としては「萌え」というのは、例えば先ごろ欽ちゃん新球団に入団した野球女子高生。単に「かわいい女子高生」だと「萌え」ませんが、それが「一生懸命野球をする」というから「萌え」るのです。しかもそれが「現実」であるから萌えるのです。これが僕が思うに『枕草子』にも出てくる本来の「萌え」*です。一方アニメの中の「萌え」とはこのような平安期からあるような自然な感情をあくまでも人工的に再現したものであり、それが成功するためにはある程度のリアリティ、少なくとも現実の中にアニメの設定を想起させるものが必要だと思います。またあまりにも非現実かつベタな萌え設定だと、いかにも製作者から「これでお前らは萌えるんだろ!」とバカにされているみたいで、逆に「こんなんで萌えてやるか!」と反発したくなります。とはいえアニメですから現実には存在しえない「萌え」の「理念型」としての非現実の面白さも重要なわけで、そのへんのさじ加減が難しいのでしょう。
*「これはウソ記事なのでご注意を。」
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1月26日(水)の昼
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昨日の「実証政治経済」(positive political economy)の授業はイントロということで、政治経済学的アプローチとマクロ経済理論にかんする先生のレクチャーがありました。政治には様々なプレイヤーが存在します。例えば、政治家、有権者、官僚、企業、利益団体など。そしてそれぞれのプレイヤーに対して何らかの仮定をもうけることができます。例えば政治家の目的は次の選挙での再選だとか、企業の目的は利益追求だとか。また彼らに何ができるかも。さらに有権者に関しても、有権者はバカで単にそのつど目の前にある状況に適応的に(adaptive)に行動しているのか、あるいは有権者は利口で世の中や経済の仕組み、政治家の意図などをある程度理解して合理的(rational)に行動しているのかなどさまざまな仮定が考えられます。このように各プレイヤーの行動様式、目的、能力に関して仮定したうえで、彼らを経済の仕組みの中に放り込むと、相互行為の結果どのような政治的帰結がもたらされるのか、モデルを作って予測します。
しかしここで問題になるのがどんな「経済の仕組み」を想定するかということ。つまり各政治のプレイヤーたちは自分の目的を達成するためにどのような場所で戦うのか。そこで登場するのがマクロ経済理論です。マクロ経済理論はその名のとおり、マクロ経済がどのようにして動いているのかに関する理論です。もちろんマクロ経済理論は一つではありません。例えば「セイの法則」を前提とする古典派の考え方では図1にあるように、需要量が変化しても値段は変動しますが、供給量との均衡点である生産量は変化しません。例えば需要量を増やす=需要曲線を右方にシフトさせたところで、価格は上がりますが、生産量は増えません(でも供給量の変化によって価格と生産量は変化します)。それに対してケインズ派の考え方では図2にあるように、需要量を増やすと価格が上がり、供給量も増えます。しかも図2みたいな都合の良い供給曲線を想定すれば、「需要量が増えても、当面は価格の上昇は最小限で、生産量だけ増やせる」と主張することができるのです。

これが政治的にどのような意味を持つかというと、「政府による経済介入」の正当化です。生産量が増えればその分、雇用が増え、失業者の数が減ります。問題は政府の力によって生産量を増やすことができるかということ。図1の古典派のモデルを想定すれば、政府が公共投資によって人工的に需要を増やしたところで、それによって生産量は増えないので、政府の経済への介入は正当化できません。しかし図2のケインズ派のモデルを想定すれば、政府が公共投資によって需要を増やせば、それにともない生産量は増えるということになり、政府の経済への介入が正当化されます。このように政府が失業率を操作することで国民生活に影響を与えることができるマクロ経済を想定するのと、そうでないのとでは同じ前提をもつ政治家、有権者など政治的アクターをそのモデルに放り込んでも、出てくる結果(予測)は全く異なるかもしれません。
また別の例としてフィリップス曲線というのがあります(図3)。これは経験的に観察される物価と失業率のトレードオフの関係を描いたものです。つまり失業率が下がれば物価が上昇し、失業率が上がれば物価は下降するという現象です。ただし長期的にはトレードオフの関係が存在しなくなり、ある一定の失業率のレベルに収束すると考えられるので長期フィリップス曲線は自然失業率で垂直に描かれます。

こうしたモデルが与えられたとき、前提として「次の選挙での再選が目的」、「公共投資によって失業率を改善することができる」、「金融政策によってインフレを改善することができる」などが想定される政治家はどのように行動するか。まず選挙前には有権者の支持を得るために失業率を下げようとするでしょう。その結果、失業率は改善されますが、同時にインフレも起こります(図3中左肩上がりの矢印)。次にやがて一時的に下がった失業率も自然失業率のレベルまで戻ります(右向きの矢印)。で、選挙が終わって次の選挙が近づくまでのしばらくの間に高くなってしまったインフレを何とかしないといけません。そこで政府は金融政策でもってインフレを抑えようとしますが、その結果失業率が上がります(右肩下がりの矢印)。その失業率も一旦、自然失業率のレベルまで下がるのですが(左向きの矢印)、また選挙が近づいてくると政治家は有権者の支持を得るために財政政策でもって失業率を下げようとします(…以下くりかえし)。ということで、「合理的な政治家」+「フィリップス曲線の経済モデル」の組み合わせで、上記のような「政治的景気循環」が発生するのではないか!?との予測が導き出されます。といっても、もちろんこういう結論は各プレイヤーに関する前提や、前提とする経済モデルに寄ります。例えば上記の議論では暗に有権者を前述したように「バカで単にそのつど目の前にある状況に適応的に(adaptive)に行動している」と仮定しているのですが、もし有権者がこれらの経済の仕組みや政治家の意図を見抜くほどに合理的であると仮定するならおそらくまた異なった予測が導き出されるでしょう。
というわけで自分の復習用に長々と書いてしまいました。要するに政治経済分析においていかに、前提とするマクロ経済理論が重要かということでした…。
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1月28日(金)の昼
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昨日は友人と、LBJスクールで行われた『ワシントンポスト』誌の編集局次長、ボブ・ウッドワードの講演に行ってきました。ウッドワードはニクソン政権二期目のときに、同じく『ワシントンポスト』の記者カール・バーンスタインとウォーターゲート事件をスクープし、ニクソン大統領を退陣に追い込んだことで知られている人です。また最近はBush at War. 2002(邦題『ブッシュの戦争』)や、Plan of Attack. 2004(邦題『攻撃計画』)など911やイラク戦争をめぐるブッシュ政権の内幕を描いた著作でも有名です。でも期待に反して講演の内容は正直ヤマも無ければオチも無いといったもので、テキトーに頭に浮かんだことを話しているだけのような感じでした。それに、僕は読んでいないのでわかりませんが、内容もほとんど本に書いてあることだったのではないかとおもいます。
彼は初めに聴衆に手を挙げさせることで「世論調査」をします。最初の質問は「前の大統領選挙で誰に投票したか」というものです。会場の3分の2はケリーに投票しているといった感じでした。"Blue Austin in Red Texas"です(青は民主党、赤は共和党の色)。二番目の質問は「ブッシュの減税政策は効果があったか」というものです。会場の90%以上が「無かった」に手を挙げました。さらに三番目の質問は「イラク戦争は必要だったか」で、これまた90%以上の人が「無かった」に手を挙げました。ちなみに僕はアメリカ国民ではないので、どの質問にも手を挙げませんでした。で、それから本題に入り、まずは『攻撃計画』の元にもなった2003年末に行われたブッシュ大統領や主要閣僚との長時間におよぶインタビューの話から。彼はブッシュに「なんでイラク戦争を始めたか?」と聞いたそうなのですが、これに対してブッシュは「大量破壊兵器」とは答えずに、「人々を自由にするという義務感からだ」と答えたそうです。さらにウッドワードは「それは危険なパターナリズムでは?」と聞くと、ブッシュは「エリートの人間はそう思うかもしれないけど、一般の人々はそう思わないだろう」と答えたとか。また「将来、イラク戦争をどのように歴史が評価すると思うか」との質問に対して、ブッシュは「それはわからない。そのころにはわれわれみんな死んでるしね」と無責任に答えたそうです。まあそんなこんなでこの話は終わり、『ワシントンポスト』の名物社主キャサリン・グラハムの話に。次いでニクソンの話になり、最後出版業界の内幕のような話になり、そこで終了です。
これ以上いても意味がないと思ったので、質疑応答のコーナーの最初で友人と会場を抜けました。彼とは結構今までいろいろな講演に行っているのですが、「今回のは今までで最悪くらいだった」などと話合いました。で、どれが一番良かったかという話になり、やっぱマイケル・ムーアだったんじゃないの?ということに。右でも左でも、保守でもリベラルでも極端なことを言う人の話はやはり面白いということだと思います。
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1月29日(土)の夜
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デジカメを買いました。夏の旅行中にマウンテンデュー漬けにして壊してしまって以来、デジカメは持っていなかったのですが、いつも行っている大型スーパーの隣のシアーズで44ドルで売っているのを見つけたので。29ドルのもありましたが、それには画面がついておらず、かなり迷った揚げ句結局44ドルのを買いました。しかしさすがに格安だけあってあまり良くありません。本体についている画面は日本で最初に出たカメラ付き携帯電話くらいのものだし、よくフリーズするし、操作性が最悪だし、保証期間は無いし、説明書も超いい加減だし、何よりも画質が良くありません。4年前に買った無印良品の9800円のデジカメ(画面無し)にも劣るくらいです(ちなみにもう無印はデジカメは作ってないみたいです)。試しに、アパートと大学の間のいつも良く行くカフェから外を撮ってみました。見てのとおり遠景がかなりぼやけている上、光源がにじんでいます。まあでも44ドルだしこんなもんか…。せっかくなので、飽きるまでしばらくいろいろと撮ってみたいと思います。
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