2005年2月の日記
2月1日(火)の朝

 昨夜は今学期最初のアイン・ランド協会(Ayn Rand Society)のミーティングに行ってきました。今回は1938年に出版されたランドの二番目の小説である『アンセム』(Anthem)についてのディスカッションです。この『アンセム』は悪く言えば通俗的なSF小説で、舞台は現代文明が失われた遠い未来の共産化された世界。おそらくこの世界のイメージは20世紀初頭の共産主義運動の高まりの結果、世界中で共産主義国が誕生し、結果、個人主義、利己主義を基盤とする市場経済が消滅し経済が立ち行かなくなり地上からこれまでの現代文明が消滅したという設定にもとづいているのだと思います。
 この世界では電気、自動車、飛行機などあらゆる文明の利器は失われており、蝋燭を発明した20人の学者が顕彰されているくらいです。またこの世界では「人民は全体で一つ」との思想のもと「個人」という概念が無く、名前も「平等7−2521号」、「自由5−3000号」と言うように標識番号で示され、しかも「私」というコトバ自体が存在せず、自分のことを言うときには常に「われわれ」と言います。また人民は社会に属するという考えのもと、家族という概念も無く、毎年春の「交接期」に「優生学協議会」が20歳以上の全ての男と18歳以上の全ての女が集めてそのとき限りのペアを作り、冬に子どもが一斉に生まれ、その子どもたちは誰が親かも知らされることなく一ヶ所で一緒に育てられます。そして15歳になれば「天職協議会」が各人の職業を決定し、一生その仕事をし、その職場で共同生活を行う。やがて40歳になれば退職し、また別の場所で共同生活し45歳までにだいたいが死んでいくという社会です。要するに個人が完璧に「人民全体」という名の政府に管理され搾取される社会です。他人と同じであることが善で、他人と違うとりわけ他人よりも優れることは悪な社会です。
 そのような社会の中で、主人公(平等7−2521号)は自分が人よりも背が高く、れた頭脳をもっているということに罪悪感を感じて生きています。やがて15歳になり、「天職協議会」から自分がこれから一生従事することになる職業をあてがわれる時が来ますが、彼は「学識びと」(学者集団)になりたいと思っているものの、結局「街清めびと」という街の清掃夫の職業をあてがわれます。彼はもちろんそれを受け入れ、街の清掃活動に従事しますが、ある日その作業の途中偶然「孔」を発見します。その「孔」は「語られざる時代」(つまり20世紀の文明)の遺跡へと通じており、そこで「我々が喪失してしまった数々の秘密」を発見します。それからの2年間彼は、毎晩3時間「親睦活力回復娯楽活動」の時間を抜け出し、その遺跡に通い研究に励みます。もちろんこうした研究活動は「学識びと」にのみ許されている行為で、彼は罪の意識に苛まれつつ研究を続け、やがて電球を完成させます。彼はそれを「学識びと世界協議会」に持ち込もうと企みます。きっと「学識びと世界協議会」は人民の役にたつこの発明を喜んで受け入れ、自分を「学識びと」にしてくれるだろう、との期待のもと。しかし「学識びと世界協議会」は彼のこの発明を憎み、彼を罰しようとします。その理由は「それに、そのようなものは、蝋燭局を破滅させてしまうだろう。蝋燭は、人類にとって偉大な恩恵である。すべての人々に是認された恩恵である。したがって、ひとりの人間の気まぐれのために、蝋燭が破壊されてはならないのだ」、「これは、世界協議会計画を挫折させるだろう。世界協議会計画がなくては、太陽も昇れない。蝋燭が、すべての協議会からの是認を確保して、必要とされる蝋燭数が決定され、松明のかわりに蝋燭を使用するために世界協議会計画が修正されるまでに50年かかった。こんなものが出てきたら、たくさんの国家で働く何千何万もの人間に重大な影響を与えてしまう。また再び、こんなに早く世界協議会計画を変更することなどできるはずがない」、「それに、もしこれが、人々の労苦を軽減するとしたら、それは重大な悪ではないだろうか。他人のために汗を流し、苦労することにおいて以外に、人間に存在すべき大儀などない」などです。結局主人公は失意のうちに逃走し、「未知の森」をさ迷い、「語られざる時代」の遺跡を発見しそこで初めて個人主義という考え方を知り、「私」というコトバが存在したということを悟ります。そしてそこで主人公は「個人の自由」、「個人の権利」のために戦うことを決意し、この小説は終わります。
 と、以上のようにこの小説は「個人主義」対「集団主義」がテーマで、「公共の利益」、「社会的目標」などの考えのもと、個人よりも集団を優先させる共産主義思想の恐怖を描いています。もちろんこうしたイメージは明らかに誇張されたものですが、ランド自身が亡命ロシア人(のユダヤ人)であり、ソ連での体験をもとにもされているようです。で、作品紹介が長くなってしまいましたが、昨夜のアイン・ランド協会のミーティングではこの小説をもとに「集団主義」(collectivism)について考えてみよう、というものでした。具体的にはネット上で集団主義的思想が現れている記事や評論を拾ってきて議論しました。特に「公共善」(public good)によって個人の権利を制限することを暗に主張するタイプの評論が攻撃されていました(気をつけてみれば意外と一杯あるものですね)。中でも僕は知らなかったのですが、Ken Wilberという"transpersonal"(個を超える)の思想を説く在野の哲学者が批判されていました。例えばこの哲学者の"I have one major rule: everybody is right. More specifically, everybody- including me- has some important pieces of the truth, and all of those pieces need to be honored, cherished, and included in a more gracious, spacious, and compassionate embrace."(私は一つの主要なルールをもっている。みんなが正しい。より詳しく述べるなら、私を含むみんなが真実の重要なカケラをもっている。そしてそれらのカケラの全てが尊敬され、大切にされ、より上品で高邁で慈悲深いものに含まれている)という言葉。いかにも個人を超える価値の源泉などなく、人間に価値の優劣があると考えるランド信奉者が嫌いそうな考えです。
 また集団主義の表れとして良い具体例について述べなければならなかったのですが、僕は1950年以来7期28年続いた京都の蜷川革新府政における公立高校について述べました。蜷川虎三知事は「15の春は泣かせない」と高校入試における競争を無くそうとしました。そこでまず彼は公立高校の間にレベルの差があってはならないと考え、高校選択の自由を無くし、家から最寄のバス停によってその生徒の進学する高校を決めるようにしました。僕の高校入試の頃はまだその名残があったので公立高校願書には、希望進学先の高校名を書く欄はなく、ただ家から最寄のバス停を書く欄があっただけでした(結局僕は私立高校に進学しましたが)。結果、公立高校のレベルは下がり、戦前の伝統を受け継ぐいわゆる名門公立高校というのも無くなりました。レベルの高い教育を受けたい生徒は私立高校に行くしかなく、また優秀でも私立に行くカネの無い生徒は概してレベルの低い公立高校に行くしかありません。結果、良い大学に行く生徒は自ずと私立高校出身になり、中学の時点で優秀だった生徒も公立高校に進学することで、その「芽」を摘まれるとの批判もありました。さらに高校のレベルが平均少し下くらいで均一化したため、成績下位の生徒の受け皿となる公立高校も無くなり、そうした生徒は高いカネを払って私立に行く他無くなりました。当時蜷川革新府政と対決した野中広務自民党府議はこうしたことを批判して「18の春は泣いている」と言っています。

 中途半端ですが、いい加減長くなってしまったのでこのへんで止めたいと思います。ちなみにこのランドの『アンセム』という小説は著作権管理者の落ち度で現在著作権が無効になり、"public domain"に入っており誰でも翻訳して紹介できるそうです。なのでウェブ上で翻訳が公開されており、日本語訳未公刊にも関わらず、ある意味日本人にとって最も近づき易いランド作品となっています。個人の創作物が公共の財産として接収されるのを大変嫌ったランドなのに、なんとも皮肉なことです。

2月2日(水)の朝

 昨日の「実証政治経済」の授業は政治的景気循環論についての議論でした。そのうちの一つのトピックはRogoffとSibert(1988)のモデルのプリンシパル・エージェントモデルからの解釈でした。先日の日記で紹介した、フィリップス曲線をもとにしたNordhaus(1975)のモデルは経済構造や政府のインセンティブも知らず、政治家にだまされ続ける「アホな有権者」を想定しない限り成り立たないものです。しかしRogoffはそれに対して、有権者が合理的であっても政治的景気循環が起こるモデルを作りました。それを可能にしたのは情報の非対称性(information asymmetry)の概念の導入です。これは政府はt期の自らの能力を知っているが、有権者はt+1期にならないとそれを知ることができない、ということを意味します。
 まず前提として政府が提供しなければいけないサービスは一定であるとします。そのサービスは政府の能力と均一一括税(poll tax)と通貨発行(seignorage tax)によって供給されます。ここで政府の能力とは主にサービス提供の効率性のことであり、政府の能力が高ければその分、同じサービスを提供するのにも安い税金、少ない通貨発行で済みます。有権者はこの政府の能力でもって投票を決めるとして、前述のとおり有権者は一期遅れてしかその能力を知ることができないのなら、ここに政府にとってt期の選挙時に自らの能力を良く見せかけるインセンティブが生じます。その際、t期における政府の能力のシグナルとして政府が有権者に対して発するのはt期における税率です。つまり一定のサービスを提供するのに少ない税率で済むというのは政府の能力の証明になるということです。しかしそれで選挙に勝ったとして、t+1期には政府の無能さが露呈し、それでも一定のサービスは提供しなければいけないので、低い政府の能力、t期に設定された低い税率である以上、通貨発行によって財源を賄わなければいけません。これによってインフレが引き起こされ、選挙に合わせた景気循環が生じるというわけです。
 で、これをプリンシパル・エージェントモデルとして考えたとき、「X = f (E, π)」のように表せます。ここで、Xは政府の政策的なアウトプットを示し、それは政府が実際何をやったかその努力(E)とどうにもならない外性的でランダムな要因(π)によって決まります。ここでプリンシパル(依頼者)である有権者は、エージェント(代理人)である政府のEを直接観察することはできず、Xだけを見て政府の働きを判断し、選挙での投票行動を決めます。その意味でEは政府しか知らないプライベートインフォメーションであり、ここに情報の非対称性が存在します。そしてもし政府が有権者が直接Eを知ることができないのを良いことに、Eを実際よりも良く見せるためにXを意図的に操作できるとしたら、それをしない手はありません。
 この構造において依頼者たる有権者はこのように代理人たる政府にウソをつかれる、不誠実に行動されるリスクが生じます。しかしこのリスクはEを直接監視する(monitor)ことによって軽減されます。つまり有権者が直接Eを監視できるなら、有権者と政府の情報の非対称性はその分軽減され、政府は有権者にウソをつくことができなくなるのです。このこととRogoffらのモデルを合わせて考えるなら、「モニタリングコストの低い国では政治的景気循環は起きにくい」という予測が成り立ちます。より具体的にはマスコミや市民による政府監視団体が発達して政府が何をやっているか、政府がどのような状態かということが有権者に良く知られていれば、その分政府は情報の非対称性を利用して有権者をだますことができず、Rogoffが示唆する政治的景気循環発生のモデルが成り立たなくなり、つまり政治的景気循環は起きにくいかもしれないのです。またもう一つ注意すべき点は、有権者が合理的で、情報の非対称性の問題を知っていて「政府はウソをつくかもしれない」とわかっていても、モニタリングによって情報の非対称性を解消しないかぎり、政府にウソをつかれてしまうということです。合理的有権者であっても、Nordhausのモデルとは違って、Rogoffらのモデルでは有権者は情報の非対称性ゆえ政府にだまされるということです。

 あと別の話として、以前はこうした論文で使われているようなフォーマルモデルは、現実の世界を考慮に入れず、いわば「摩擦ゼロ」の理論的な世界で構築され、純粋にそのモデルの一貫性、知見の面白さだけで評価されていたそうですが、こういう政治経済学の分野では、アクターに関する前提を設定する際に現実政治を考慮しており、またモデルのデータでの実証をも視野に入れているのだそうです。僕も将来、方法論的にはこういうスタンスをとりたいものだと思います(mathematically-drivenな理論をデータで実証する)。それにしても先学期、経済学部でゲーム論の授業をとっておいて良かったです(おかげで博士論文は遅れましたが)。

2月3日(木)の朝

 昨日はメインのアドバイザーじゃない先生のオフィスで1時間半にわたって、博士論文でやろうとしている理論の部分について話し合いました。といっても、中心となる議論ではなく、先行研究を紹介することでやり過ごせると思っていた部分に関してで、どうやら僕はその部分をちゃんとフォーマルモデルを使って示さなければいけないようです。少し具体的に言うと、「選挙において候補者が政策上の自らの位置を不明確にすることによって得をするかどうかは有権者のリスクに対する態度に依存する」という議論がしたいと考えています。例えば、通常の投票の空間理論で使われている有権者の効用関数はquadraticで、リスク回避的な効用関数にすでになっています。例えば以下の図において、二人候補者がおり、一人の政策上の位置は確実にx2であり、もう一人は1/2の確率でx1、1/2の確率でx3だとします(L=1/2x1+1/2x3)。x2x1x3の政策上の距離としてちょうど真ん中です。ここでこれらの候補者に対してこの有権者はどのような効用をもつかというと、図で示したとおり最初の確実な候補者の方に高い効用を見出します。

まあこれは直感的に考えても当然のことですが、この議論を敷衍したなら例えば「有権者は、二人の候補者のうち、仮に自らの理想の政策上の位置よりも候補者の期待される位置がより遠くても確実性の高い候補者に投票する場合がある」ということがいえます。ここまでは直感的、あまり数学的に洗練されていない(でもおそらく数学的には間違っていない)議論をしている先行研究はあります。で、僕としてはここからさらにリスク受容的な効用関数を作って、その場合どういうことが言えるかということを見てみたいのです。もちろん言いたいのは、「有権者は、二人の候補者のうち、仮に自らの理想の政策上の位置よりも候補者の期待される位置がより遠くても確実性の高い候補者に投票する場合がある」ということです。でもこれはどうやら有権者と候補者の相対的な位置関係にもよる議論のようだし、この辺をどうやってフォーマライズすればよいのか。もちろん候補者の不確実性もこんな簡単な「クジ」ではなくて、正規分布なんかを想定します。直感的、あるいは図ではどういう場合にこういうことが言えるのか説明できるのですが、それを数学で示すのが僕にとっては難しそうです。誰か他の研究者がやってくれてないかなあ。僕はそれに乗っかりたいだけなのに…(理論的研究よりも実証研究の方がメインだと思っているので)。シミュレーションもやる必要がありそうなので、matlabなんかも勉強しないといけないのかなあと思います。先は長すぎです…。本当に博士論文が書けるのか。

 ところで今年のUT政治学部博士課程の入試についてですが、志願者去年233人に対して今年271人と増加しています。その増加のほとんどを説明するのが志願者去年14人から今年61人へと増えた政治思想専攻。希望専攻別の数では、比較政治>政治思想=国際関係>アメリカ政治という具合になっています。ちなみに昨年の調査によるとundergraduateの学生の関心は、アメリカ政治>国際関係>比較政治>政治思想だそうですので、研究面での学部の傾向はundergraduateの選好を反映していないと言えるでしょう。

 あとようやくTexas IDが届きました。昨年の10月に名前の変更を申し込んで以来、さまざまなトラブルの末、ようやく今になってです。これでレンタルビデオ店で会員にもなれるし、最近友人からもらったDVDプレイヤーが活用できます。そんなDVDなんかゆっくり観てるような余裕があるのか、という感じですが。

2月4日(金)の朝

 昨日家に帰ると公安委員会より下のようなハガキが来ていました。近所に性犯罪者がいるから気をつけろというお知らせのようです。書いてあることによるとこの男性は昨年末に16歳の女子に暴行を企てるも未遂に終わり、現在は保護観察下にあるようです。これが日本でも今話題の性犯罪者の情報を近隣に公開するというやつでしょうか。もしこの人と夜道で会ったりしたらドキドキしてしまいそうです(もちろん僕は対象外でしょうけど)。

 前の日記で書いた、効用関数のシュミレーションうんぬんですが、よく考えたらmatlabなんか使わなくてもRでいけそうな気がします。しかしRは高機能なのに無料というのがすごいです。SPSSはデータ加工にこれからも重宝しそうですが、今となってはSTATAは買って損したと思うくらいです。何かSTATAの方がRよりも優れているという点はあるのでしょうか。

2月5日(土)の昼

 昨日はランチタイムに学部であった、シアトルのワシントン大学の国際関係大学院の教授の講演に行ってきました。タイトルは"Civil Society in Post-Colonial Eastern Europe and Africa"(「植民地後の東ヨーロッパとアフリカにおける市民社会」←"Post-Colonial Eastern Europe"というコトバが気になりますが、これは冷戦時にソ連の強い影響下にあったことを指して「植民地」と言っているのでしょうか!?)。比較政治の分野ではおなじみの民主化と市民社会ネタです。この教授はもともと東ヨーロッパの民主化が専門だそうなのですが、2000年から世界銀行のプロジェクトに関わっていてアフリカ諸国の民主化支援の活動をしているそうです。
 市民社会に関してはいろいろと定義があるようですが、大きくは国家と家族の間にある全ての民間の団体、組織を指します。例えば教会、ボランティア組織、マスコミなど。民主化論の研究ではこうした市民社会の発達が民主化に不可欠な要因として強調されています。例えば東ヨーロッパではソ連崩壊以降、民主化が進みましたがポーランドでは「ポーランド人」としての均一的な民族意識とともに、強いカトリック教会という市民社会的な要因がその民主化に大きく寄与したそうです。また東ヨーロッパ諸国の場合、EU加盟という大きな目標実現のためには民主化が不可欠であり、EU諸国からの援助も民主化を前提としていたため、民主化へと向かうインセンティブが大いに存在したといえます。
 しかしアフリカ諸国の場合、国境内にいくつもの異なる民族意識をもつ集団が存在する上、市民社会も未発達で、EU加盟のような外からのプレッシャーもありません。そんなアフリカ諸国をどのように民主化へと導けば良いのか。異なる民族意識が問題ならその民族意識をもとに国境線を引き直せばよいとの考えもありますが、その新しい国境内でマイノリティに対して民族浄化(ethnic cleansing)が起こるのは必至です。そこでこの教授が世界銀行にプロジェクトとして提案したのが、1000ドルとか2000ドルの小額のカネを行政単位よりも小さい地区を単位にそれぞれ与え、政治家が介入することなくそこの住民が話し合って地域の学校を補修したり、井戸を掘ったりとかするなど使い道を決めるというもの。その活動を通じて地域住民の自発的な組織や市民社会を育もうというものです。ここでのポイントはカネの配分に関してその国の政治の影響を全く受けないようにするということだそうです。実際、そのプロジェクトはコートジボワール(象牙海岸)の首都で試験的に実施されているそうです。ただ一つ問題として、こうしたプロジェクトが例えば市民社会は市民社会でも、中東のハマスやアイルランドのIRAのような民間過激派組織を潤すことになるのではないかとの懸念があるとのことす。またこうしたプロジェクトの資金捻出も企業や国に呼びかけているが上手く行かず、大きな問題になっているのだそうです。
 質問タイムではUTのアフリカ政治の先生が辛口コメントしました。そのプロジェクトを正当化するためには「もっと詳しい分析が必要だ」とのことです。その先生が言うには例えばルワンダでは均一的な民族意識、強いカトリック教会、植民地時代の遺産である強力な統治機構があるにも関わらず民主化は上手くいっていない。市民社会は本当に民主化を促進するのか、あるいは市民社会のタイプが問題なのか、もっと調べる必要があるのでは、とのことでした。
 僕は1年目に比較政治専攻のコアの授業をとったときにこの種の議論を少し勉強しましたが、民主化とか市民社会にかなり懐疑的です。特にこういう「民主化学者」が国際機関のプロジェクトとして途上国に民主化支援したりすることに。乱暴な意見ですが、そんなんその国の人に任せたら良いことだと思います。わざわざ部外者がおせっかいにも口出すことではありません。極端な話、アフリカの某国民が殺しあっていたとして、部外者が「バカだなあ」と傍観していることはそんなにダメなことなのでしょうか。クリントン政権はイェール大学のブルース・ラセットの「民主政治国同士は戦争しない」という民主平和論に影響されて、「世界平和を実現するためには全ての国が民主政治国になれば良いんだ!」とばかりに各国の民主化支援を行い、同時に人道的介入と称してアメリカの国益にかなわない軍事介入を行いました。ブッシュもイラクの「民主化」に熱心ですし、ブッシュ自身が述べるところによると戦争の大儀は結局のところ「大量破壊兵器の脅威」ではなく、「イラク国民の開放」です。思うに民主化は「する」ものでもなければ「される」ものではなく、「民主政治になる」が理想です。日本も含めて外部の力によって「民主化」された国はどこかにその後遺症が残ると思います。方法論的な問題が多々あるとはいえ、民主化の過程を研究すること自体は興味深いです。でもその知見を現実に生かそうとする試みには注意が必要だと思います。

 あと昨夜はレンタルビデオ屋に行きました。近所にあるマニアックなビデオ屋と全米チェーンであるブロックバスターを覗いたのですが、マニアックな店の方は棚一面日本映画で、黒澤明、北野武、小津安二郎、大島渚などのコーナーがありました。三池崇史も全作品そろっていました。ただ日本のアニメに関して言えば、マニアックなビデオ屋の方が本数は多いものの、ブロックバスターの方が一般ウケする=僕が見たいと思うものが多かった気がします。で、結局ブロックバスターの会員になろうと思ったのですが、料金や規約などが店内にもウェブサイトにも無く、どういうシステムなのか良く分からず、何となく面倒くさくなって帰宅してしまいました。ちょっと見た感じ、日本のビデオ屋とはシステムが違うような感じでしたが…。

2月7日(月)の昼

 昨日は大変不毛な一日を過ごしてしまいました。土曜日の夜、アパートで統計ソフトをいじったりネットサーフィンをしているといつのまにか午前3時に。急いで就寝するも日曜は日本に電話をかける用事があったため7時半に起床。電話の用事が済んで、もう一回寝なおそうとすると、今度はテキサスA&Mの後輩から電話が。特に要件はなかったのですが2時間近くうだうだと会話しました。ようやくそれが終わったのが11時半。一応メールチェックだけして寝ようとすると、友人からのメールにすごい面白いブログへのリンクが。結局過去ログまで全部見てしまって、気付けば午後2時半。朝7時半に起きているのにほとんど何も生産的なことをしないままもう半日が過ぎてしまっています。でも眠かったのでそれから3時半まで昼寝。一旦大学に行った後、4時半に約束していた友人のアパートに行きました。
 友人のアパートでは、アメリカのプロアメフトのチャンピオンを決める「スーパーボウル」観戦です。スーパーボウルは普段はアメフトを見ないような人でも見るという国民的なイベントで、日本で言うとさしずめ「紅白歌合戦」でしょうか。昨年はジャネット・ジャクソンがハーフタイムショーの最中に意図的に乳首を露出すると言う「事件」があり大問題になりました。この彼とはもう3年連続、スーパーボウルを彼のアパートで二人っきりで見ており、半ば行事化しています。といっても僕はアメフトのチームもルールも良く分からないし、結局はご飯を食べながらウダウダとしゃべったり、ゲーム(ドリキャス)をするくらいなのですが。
 この彼は僕がアメリカで今まで会った人の中では一番変わっていて、福祉賛成の自称アナーキスト(←矛盾)で、最近まで麻薬中毒者更正施設から脱走してきた男をかくまって住まわせ、揚げ句の果てにカネを持ち逃げされ、彼の名前とIDで無保健医療を受けられていたため、病院からの多額の請求に悩まされています。彼は現在23歳の人類学専攻の学部4年生で、少し前までは映画監督になると言っていたのに、最近は将来ロースクールに行ってマクドナルドとかマルボロの企業弁護士になってカネをかせぐと目を輝かせて夢を語っています。また僕は彼は背も高いしスタイルも良いし、アメリカ人の平均と比べて方向性はメジャーではありませんがファッションセンスも圧倒的に良いし、趣味も良いしで絶対モテると思うのですが、実際はそうでもありません。一つには彼はいつも肩にフケをためています。また一つには彼は少々粘着なところがあるようで、これと思った女性にはしつこくアプローチしたり自作の詩を送ります。あともう一つ彼はやっぱ変なので、彼の奇行や勘違いにより一緒にいて恥をかくことが多いです。まあそんな彼だから「仲良くしてた女性が突然手のひらを返したように冷たくなった」という女子にまつわる(彼にとって)理解不能なことが今までに多いらしく、僕と彼とは「女はジコチューだ」「女は気まぐれだ」という意見で概ね一致し、女子への勝手な恨みごとで盛り上がり、これまで仲良くしてきました。
 しかしそんな彼の携帯に夜の7時半ごろ着信が。聞くと「19歳の女子3人がこれからここに来る」と。「いったい何が起こったんだ!」と僕が驚いて聞くと、ニヤニヤするばかり。僕は冗談と思って信じてなかったのですが、果たして8時半ごろアメリカンな三人娘がやってきました。若い。僕とは10歳近く年齢の差があります。僕は地味な高校、大学時代を送ったので、この年齢の女子としゃべった経験がほとんどないことをに気づきました。またなぜか唐突に、大学時代のホテルでのバイトで、クロークのお姉さんに褒めコトバのつもりで「GLAYのギターの人(TAKURO)に似てますよね」と言ったらそれから口を聞いてもらえなくなったことを思い出しました。緊張しながら”ナイスチューミーチュー”と三人娘と握手。それからは三人娘と必死の「コンパトーク」です。「どこ出身?」「何専攻?」「どこ住んでんの?」とどうでも良い話が続きます。もちろんアメリカではこんなヘビーなシチュエーションは初めてです(ていうか日本でも…)。彼とグダグダとゆるい会話をするはずの夕べが、一転緊張感が駆け巡る戦場と化しました。僕の観察では、この三人娘のうち彼に興味があるのは一人です。しかも「男性への興味」ではなく、いわば「珍獣への興味」という感じです。他の二人はきっとこの女子に「変なおっさんがいるから、ヒマだったら一緒に行かない!?」と言われて着いて来たのだと思います。一方で彼に目を向けるとお気に入りの女子に「僕の瞳の色は変わってるだろ!?見てごらん!」と恍惚とした表情で女子に顔を近づけています。あーもう見てられない。と思った僕は9時過ぎにスーパーボウルが終了したと同時に「勉強があるから帰らなきゃ…」とアパートを後にしました。遠くない未来の彼の絶望を予想しつつ…。で、帰宅して友人から借りた『アドレナリン・ドライブ』のDVDを見て、「石田ひかり萌え〜」と思いながら就寝しました。

2月8日(火)の昼

 今学期できるだけ相談に行こうと思っている3人の先生のうち一人とは2週間に1回会う約束をしています。そして今朝が前回のミーティングからちょうど2週間でした。会う約束をしているといっても、別に時間を決めてアポをとっているわけではなく、単に今日の午前中にある先生のオフィスアワーに行くというものです。この先生は政治心理学系で、フォーマルセオリーとかの人ではないので、できるだけempiricalな部分で相談しようと思っています。で、昨夜はアパートにパソコンを持って帰って、とにかく何かをもっていかないと!とあせっていたのですが、結局アイデアは出ず、しかも自分のしたい統計分析がSTATAでもRでもどうやって良いのか良く分からず悪戦苦闘していました。結局「天使が舞い降りる」のを願って、朝の5時までパソコンに向かっていたのですが、何一つ思いつくことなく、今朝のミーティングをスキップしてしまいました。すごい徒労感と自己嫌悪で悲しくなります。博士課程の精神的つらさはよく聞く話ですが、僕は全くそのとおりだと実感しています。でも僕が思うに、周りの院生は留学生も含めてそんなに苦労しているようには見えません。みんな実は苦労してるのかなあ…。

2月10日(木)の夕方

 ミシガン州立大学の前田さんの就職が決まったようです。実は2週間ちょっと前、前田さんがノーステキサス大学からオファーをもらったという晩に、ご本人から電話を頂いてその話を聞いていたのですが、その後もまた別の大学からオファーがあったようで何ともすごい話だと思います。ここで言うのも何ですが、本当におめでとうございました! 僕は今苦しんでいる最中ですが、僕にもやがてこういうときが来ると信じてがんばりたいと思います(僕はアメリカでの就職は考えていませんが)。
 それにしても日本人の政治学関係者、最近テキサスに多い気がします。僕が2001年秋に来たときには僕の知る限り、僕が唯一だったのに、現在UTオースティンに僕を含めて2人(一時期3人)、テキサスA&Mにも1人(一時期2人)、そして今回前田さんがノーステキサス大学に助教授として赴任、と4人を数えます。日本において将来「テキサス学派」とかできないかなあ。
 ちなみに前田さんは就職してからもタイトルを変えてHPは続けられるそうですので、これで「テキサス系政治学サイト」が二つということになりそうです。といっても僕のこのサイトはそもそも前田さんのサイトのパクリなのですが…。

2月10日(木)の夜

 現在夜の9時でオフィスでプロポーザルのための作業をしているのですが、衝撃の論文を発見してしまいました。Journal of Politicsに2001年に掲載された論文で、まさに僕がやろうとしていることと7割方かぶっています。変な話ですが自分で書いたんではないかと思うくらいで、結構色々な分野から横断的に選んできたと思っていた参考文献リストもほぼ同じです。自分では恥ずかしながら、あまりにも突拍子も無いアイデアで悪い意味で「オリジナルすぎるのではないか」などと悩んでいたのですが、すでにこの方向性で論文が出版されているのです。これは良い兆候なのか、悪い兆候なのか。救いとして、まず僕はアメリカ政治で、この論文は比較政治であるということ、そしてこの論文はそんなに数学的に厳密な議論をしていないということ、理論的に僕が犯しかけていた間違いを、(もし僕が正解だとして)犯しているということ、さらに著者の二人ともがどうやらこの論文をこれ以上発展させていないと思えることです。あー、ドキドキした…。眠気が一気に吹っ飛びました。いずれにしても検討が必要です。

2月12日(土)の夜

 僕が先日スーパーボウルを一緒に見た彼の話。彼はテキサス南部の海に面した、石油精製工場とブッシュ知事時代の緩い環境規制(事実上、企業の自主規制に任せているだけ)によって引き起こされたアメリカでも大気汚染の最もひどい街の肉体労働者の家庭出身で、相当に急進的リベラルの政治思想を持っています。ベタですがゲバラやカストロを尊敬し、この春には禁を犯してキューバに渡る計画を立てています(アメリカとキューバは国境が無く、入国できないことになっている)。彼は金持ちやクリスチャンが嫌いですが、それと同じくらい中産階級出身のリベラルな活動家が大嫌いです。「大学で反戦活動とかやってる連中も休暇には郊外の実家の邸宅で過ごしてるんだ」とか「大学の民主党の幹部も将来弁護士になってカネもうけを考えている坊ちゃん嬢ちゃんばっかりだ」みたいなことを言ってるし、彼が以前取ったラテンアメリカ政治のクラスのTAをしていた元僕のルームメイトのコスタリカ人(当時LBJスクールに在籍し、父親はオックスフォード大学の博士号をもつ大学教授、母親はソルボンヌ大学卒の弁護士)についても「彼は南米はアメリカに搾取されているとか被害者っぽいことを言うけど、彼のような階級がその国民を搾取していることに無自覚だ」とか「南米の貧困問題について語るわりには、白人のアメリカ人の彼女と二人で東南アジアに何ヶ月も遊びに行ってる」とか文句を言います(ちなみ僕も元ルームメイトに対しては同じような部分で腹が立っていて、このHPの当時の日記にも「京都議定書に署名しないなどブッシュの環境政策を批判してる割には、クーラーも暖房も常にガンガンにかけて過ごすし、外出時も良く電源を切り忘れる」などと書いています)。
 そんな彼が先日、世界銀行の開発プロジェクトにも関わっているという民間の国際的なNPOのイベントに参加したそうです。別に彼はその団体の活動の趣旨に深く感銘を受けたとかではなく、単にイベント好きなだけで、しょっちゅう学内でビラを見つけては色々なイベントに参加しています。僕もそうやって彼に、例えば「ギリシア人学生会のボーリング大会」など明らかに場違いなイベントに連れて行かれ、何度か恥ずかしい思いをしたことがあります(もちろん彼はその「ギリシア人学生会」の誰とも面識はありません)。で、彼の語るところによると、そのNPOのイベントとは、世界の食糧事情を参加者に身をもって知ってもらおうというもので、参加者は世界の食糧事情を反映させて、「床に座ってコメを手で食べる」(40%くらい)、「イスに座ってパンとオカズ1品を食べる」(50%くらい)、「イスとテーブルに着いてちゃんとした食事を摂る」(10%くらい)というグループにそれぞれランダムに振り分けられるのだそうです。
 彼は床に座ってコメを食うグループに入れらました。そして食事が始まってしばらくして、イスで食べているグループの中に知人を発見し、そっちに行ってしゃべっていたのだそうです。すると主催者の一人の白人女子が鬼の形相でやってきて「あんたはここのグループじゃないでしょ!床に座りなさい!」と怒られたそうです。またその後彼の携帯電話に着信があり、しゃべっているとまた主催者が来て手厳しく怒られたとか。そこで彼も切れて出てきたそうです。
 彼は「会場の参加者のほとんどは、こういう食糧問題についてすでに多くの知識をもっている活動家風だった。そんなのイベントする意味が無い」、「あまりにもシリアスすぎる。もっと気楽にやらないと普通の学生は来ないよ」などと言っていました。まあ奇行を得意とする彼のことですから、彼の言い分を完全に真に受けることはできませんが、そんなもんかなあ、と思いました。

 と、先ほど突然オフィスの電話が鳴り、取るとMSUの前田さんでした。あまりにもネガティブな僕の掲示板の書き込みを見て、心配してわざわざ電話を下さったようです(ちなみに掲示板に書き込んでから30分後!)。30分くらい色々と話したのですが、やっぱ僕のこのネガティブ思考いかんなあと思います。僕は今日ここに「このHPには今後もうネガティブなことは一切書かない」ということを誓います!

2月14日(月)の朝

 昨日は数日前から観ている、ダスティン・ホフマン主演の『真夜中のカーボーイ』(1969年)を観終わりました。「成人指定」を受けた映画で唯一のアカデミー賞作品賞を受賞した作品です。テキサスの描写もニューヨークの描写も最高で、「アメリカで暮したいなあ」と思いました。僕はもう3年以上アメリカに住んでいるわけですが、まだイマイチ日本にいるころ思い描いたアメリカはどこにあるんだろう、と思っています。まだ他にアメリカという国、アメリカの大学という所があるのではないかと。とにかくこの映画は非常にアメリカっぽい映画でした(監督はイギリス人らしいですが)。

2月15日(火)の朝

 昨日は久しぶりにメインのアドバイザーの先生とミーティングをしました。なかなか有意義だったと思います。だいたいまとまってきた博士論文の概要、章立てを含めたアウトラインを説明して、方向性が間違っていないか聞いたのですが、すごいベタ褒めで気持ち悪いくらいでした。"I love it!"とか"I'm excited!"とか言っていました。しかし、自分では欠点がわかっているし、その欠点のほころびからプロジェクト全体が崩壊する可能性があることも知っているので安心はできません。やはりアドバイザーは厳しく指摘してくれる人の方が良いのかなあ、と思います。僕は結構打たれ弱い性格なので、常に励ましてくれる人の方が良いと思っていましたが、最近は「もっと打たれなければいけない!」と思うようになってきました。あと博士論文では自分の実力不足も省みず覚悟を決めて、二つフォーマルモデルを作ることにしました(ゲームではありませんが)。7章のうち2章がフォーマルモデルの章になる予定です。
 また今朝は別のアドバイザーを訪ねて、フォーマルモデルからの(期待される)インプリケーションをもとにした計量モデルについて相談しました。といっても最近はフォーマルセオリーのパートに頭を痛めていたので、あまり計量モデルについては進んでいません。「不確実性」の尺度や、データについて話し合いました。「"ambitious"なプロジェクトだ」と言っていました。明日はまた別の先生にフォーマルモデルについて相談に行く予定です。
 ここに来てようやく一つ殻を破り、前進が見られた気がします。この調子で行きたいものです。

2月16日(水)の朝

 昨夜はTAのクラスの宿題の採点をしていました。課題はアメリカの連邦制をめぐる諸問題の分析で、学生は「同性婚」、「取水権」、「インデアン保護区でのギャンブル」の3つの問題に対してそれぞれ問題に関係する3つのホームページをソースとして引用しつつ、連邦政府の問題、連邦政府と州政府の間の問題、あるいは州政府どうしの問題かなど当事者を特定し、連邦主義の三つのモデル(二重連邦主義、協力的連邦主義、強制的連邦主義)をそれぞれのケースにあてはめて解決法について論じるというものです。これを一つの問題について1ページずつということなので、最低3ページということになります。しかしアメリカの大学ではどうやらこの「1ページ」ということに対して明確な定義は無いようで、学生によってその解釈はバラバラです。シングルスペースに小さいフォントでびっちりと書く学生もいれば、中にはダブルスペースでフォントを最大限でかくし、行数、字数を少なくし、無理やり1ページにするような人もいます。まあ僕も留学生としてその気持ちはよく分かりますが。あといつもこの種の宿題やペーパーを採点して思うこととして、アメリカの学生は大学までの間に作文技術をみっちりと仕込まれると聞いていたのに、案外そうでも無いような気がします。これは英語の言い回しのことを言っているのではなく、主に段落の作り方など文章構成に関してです。全く段落の無い文章、段落の最初にキーセンテンスが来ていない文章が多いです。とはいえ、このHPの文章も結構テキトーに書いているので、たいがい段落も一つの文章も無意味に長すぎるのですが。

2月17日(木)の朝

 TAをしているアメリカ政治のクラスでは、このところcivil libertiesとcivil rightsのことについてやっています。これらのコトバ、たいがい日本語ではそれぞれ「市民的自由」と「公民権」と訳され、字面だけ見てるとあまり関連性がよくわかりませんが、英語で見ればわかるとおり表裏一体の概念です。教科書の定義によるとcivil libertiesとは、

The personal rights and freedoms that the federal government cannot abridge by law, constitution, or judicial interpretation.
(連邦政府が法律、憲法、司法解釈によって奪うことのできない個人の諸権利および諸自由)

とあり、つまりこれは個人の事柄への政府の影響を拒否する「消極的自由」の概念です。それに対して教科書の定義によるとcivil rightsとは、

The positive acts governments take to protect individuals against arbitray or discriminatory treatment by governments or individuals based on categories such as race, sex, national origin, age, or sexual orientation.
(人種、性別、出自、年齢、あるいは性的嗜好などのカテゴリーにもとづく、政府あるいは個人による恣意的あるいは差別的な扱いから個人を保護するために政府がとる積極的な措置)

とあり、つまりこれは市民的自由を達成するために積極的に政府に働きかける「積極的自由」の概念です。いずれにせよここでのポイントは市民的自由も公民権(市民的権利)も政府の役割に関する政治的な概念であり、政府との関連をもつということです。
 と、このようなことをこのクラスでは現在勉強しているのですが、なかなかこういう風にアメリカ政治に関して薄く広く勉強する機会は僕にとって貴重だと思います。というのも、たいがい大学院ではこのレベルのことは基礎知識としてもっているという前提なので、改めて習わないし、問われることは無いからです。投票行動論とか計量分析をやっているのなら、なおさら知らないでもやっていけます。でももし将来アメリカ政治を教えることになれば、こういったことをきっちり教えないといけないのでしょう。
 これまで僕は大学院の授業をとり、大学院の授業および学部の上級クラスのTAをし、今回初めて入門クラスのTAをしていますが、気づいたこととして、初級クラスになればなるほど幅広い知識が必要だ、ということがあります。大学院の授業では極端な話、専門的な論文や本について、理論がどうとか、方法がどうとか話していれば良いのですが、「アメリカ政治入門」といった初級クラスではそうもいきません。O・J・シンプソンがどうのとかマルコムXとキング牧師がどうのとか、教科書の内容と現実の出来事との連関を強調することが必要だし、むしろそれがメインと言えるかもしれません。学生もよくそういう方面に話を振ってきます。つまりこういう初級クラスを教えるには、アメリカ社会全般に対する幅広い知識が必要なのです。
 ただし教えるのではなくTAをするという意味では楽な面もあります。というのもこういった初級クラスの試験に出てくるような内容は全て教科書に書いてあり、ある意味丸暗記的に勉強できるのであまりTAに質問が来ないからです。去年TAをした上級クラスの「大統領選挙の政治」のクラスでは、先生が教える内容の論拠が教科書ではなく専門的な論文にしか無い場合が多く、教科書を見ても載っていないと気づいた学生からよく質問が来ました。

2月18日(金)の朝

 最近意味無くブラウザをInternet ExplorerからMozilla Firefoxに変えたのですが、表示されるフォントの大きさが違ってなかなか馴染めません。特にこの自分のHPのフォントはスタイルシートを使って"12"に固定してあり、実際IEだとフォントサイズを調節しても変化が無いのですが、Firefoxだとなぜかブラウザでのフォント調節の影響を受けてしまいます。ていうかFirefoxはデフォルトでフォントサイズ"16"になっており、このHPはその調節の影響を受けるので、これでは大きすぎます。で、フォントを"12"にすると、今度はYahoo!などの他のサイトのフォントが小さすぎて、読みにくくなります。パソコンやネットのことは謎が多いです…。

2月20日(日)の昼

 昨日はスタンフォード大学ビジネススクールの教授のトークに行ってきました。この教授はビジネススクール所属と言ってもむしろ政治学方面での論文が多く、フォーマルモデルを使っての官僚制の分析などが有名です。今回のトークのタイトルは"Retrospective Voting as Adaptive Behavior"というもので、「回顧的投票」(「業績評価投票」)の理論を「限定的合理性」(bounded rationality)の観点から編み直そうとしたものです。"retrospective voting"はそもそもフィオリーナが80年代初頭に、「有権者は合理的でない」との60年代のコンバースの研究以来の知見に異議を唱えるべく作り上げた理論で、有権者は争点は理解していなくても、全体として業績を評価して合理的に投票を行うと主張しています。これでもってそれまで心理学が隆盛だった投票行動の分野に、経済学的な合理的選択論アプローチが入る余地が出てきたわけです(有権者の合理性が前提できないのなら、そもそも経済学モデルの入り込む余地は無い)。つまりこの"retrospective voting"の議論は最初から「有権者の合理性」の問題と深く関わってきたのです。
 教授は最初、簡単なゲームをします。3×3のマス目を使ってのおなじみの○×ゲームで、教授が負けたら勝った人に60ドル払う、勝ったら負けた人から2ドルもらう、引き分けなら教授が相手から1ドルもらう、というものです。ここでのポイントは3×3のマス目を使っての○×ゲームは、どちらかがミスしない絶対に引き分けになるということで、容易に常に教授が1ドルを手にすることが予想きます。その意味で2ドル、60ドルの結果には意味がありません。ところが例えばチェスを用いてこれと同じ勝負をすると話は違ってきます。というのもチェスのゲームを3×3の○×ゲームのように相手が勝つために完全に合理的に行動できるとは想定できないし、自分自身にかんしてもまたしかりだからです。時には墓穴を掘るような、つまり非合理的な選択を知らずにしてしまうでしょう。つまりここに人間の合理性の限界があり、結果が予測できない勝負の面白さゆえ、60ドル、2ドルという結果にも意味が出てくるわけです。ところがプレイヤーの合理性を完全に前提している議論では、上記のチェスゲームも○×ゲームもゲームの複雑さに関わらず、同じものとみなしています。どんな複雑なゲームを想定していても、プレイヤーの合理性を前提としていくつかの予測(均衡)を導き出しているわけです。
 そこで出てくるのが限定的合理性の概念。このフレームワークにおいて有権者は遠い将来を予見するのではなく、「適合的な行動」(adaptive behavior)を想定されています。それは、試行錯誤の過程であり、まずあることを試してそれが上手く行けばそれを繰り返す、上手く行かなければまた別の方法を試すというものです。では「上手くいく」、「上手くいかない」の基準は何か。それは教授によるとaspiration(希望)だそうです。つまり、有権者はある政権のパフォーマンスが有権者のaspiration(有権者の期待していたレベル)を超えれば、その政権に投票する、それを下回れば投票しないと考えるわけです。だから仮に経済が1年前よりも悪くなったからと言って即その政権に愛想を尽かすわけではなく、悪くなっていても「思ったよりも悪くなってない」限り、政権を支持するわけです。
 この議論は有名な「投票のパラドクス」の解決にも使えます。「投票のパラドクス」とは、期待効用の計算で考えると明らかに自分の一票が選挙結果に及ぼす影響は低く、それに対して時間的物理的コストは高く、投票するのは非合理的なはずなのに、多くの人が実際投票している、なぜか?というものです。これを解決するためにあくまでも有権者の投票参加を合理的選択論の立場から主張したい研究者は「義務感」という概念を導入したり、あるいは有権者の非合理性を説く心理学の立場からは「有権者は自分の1票が支持する候補者の勝敗に影響を与える確率を過大に評価している、つまり計算ミスをしている=有権者は合理的でない、合理的選択論者が仮定する有権者の合理性が間違っている」という議論があったりしました。これに対してこの教授のaspirationの概念は、「自分が期待するよりも今回の選挙で投票することに利益がありそうだから、投票する」という理屈になるわけです。
 で、その後教授は何やらフォーマルモデルを出してきて、「これまで考えられてきたのとは違って、中位投票者よりも党派的投票者の方が選挙での影響力は強い」というインプリケーションを導くのですが、スライドのフォントが小さかったり、時間が押して説明がかなり端折られたりして詳細はよくわかりませんでした。

 トークの後の質疑応答のコーナーではUTのアメリカ政治の教授たちが主に質問していましたが、僕のアドバイザー二人を除いてはどれも的外れなどうでもよい批判のように思えました。アメリカ政治を伝統的な政治心理学の立場からやっている同級生も「あの教授はビジネススクールの教授だから、われわれとは考え方が違うんだ」などとぼやいていました。完全に理論的なトークだったので、厳密な理論よりも経験的な結果に興味が強い人からすると違和感があったのかもしれません。僕の考えでは教授のトークは、合理的選択論を批判する心理学のprospect theoryにおける"reference point"の議論をあらためて合理的選択論の枠組みでやりかえたもののようにも見えました。もしそうなら僕の現在やっていることと同じ方向性です。この種の議論が、投票行動の理論研究の"cutting edge"だとして、何とも僕の研究にとっても明るい話だと思いました。僕の研究の方向性はUT政治学部ではマイナーだけど、おそらくこれがメジャーとして受け入れられている場所もあるのではないかと。やはり学部のプログラム、傾向は重要です。例えばもし僕がこの教授の下で研究できていたならどうなっていたでしょうか(決してUT政治学部に入ったことを後悔しているわけではありませんが)。

2月21日(月)の朝

 アメリカのABC系のテレビ番組で"Extreme Makeover"というのがあります。これは容姿で悩む様々な人々が選ばれて、テレビ局のカネで人体改造を施されて生まれ変わるという企画番組です。日本でも似たような整形番組はありますが、この番組ははるかにその規模を越えています。どんな肥満でも強力な脂肪吸引によってほとんど原型をとどめないくらい痩せてしまいますし、元の顔が全く分からなくなるくらい骨格も含めて改造し男も女も少女漫画のキャラのようになります。そしてとりわけ興味深いのが、日本のこの種の番組とは違って、整形することへの躊躇、心の葛藤が全くと言っていいほど描かれません。参加者はみんな一様に嬉々として何のためらいもなく大規模な人体改造を受けます。人体改造後はお披露目の場面で親が感激して泣きます。タトゥーも日本よりもよほど一般的だし、アメリカ人には「親からもらった体を…」という意識が薄いのかもと思います。
 ただし何の問題も無いのかというとそうでもなく、例えば先日の回では番組で整形手術を受けてゴージャスになった高校教師の女性が、父兄から「子どもに悪影響だ」と抗議を受けている様子が出ていました。父兄らの言い分としては「容姿の美しさが全てではないはずなのに、先生自らがそうした考えを肯定している」というものでした。それに対してこの女教師は「現在アメリカでは肥満が大変な問題になっている。肥満は明らかに悪だ。そうした肥満を克服し美しくなろうとすることのすばらしさを子どもたちに教えたい」と、肥満克服と美容整形をこじつけていました…。
 またこの"Extreme Makeover"には"Home Edition"があり、これは建物としての家に悩みを抱える家族のためにテレビ局がリフォームを施すという内容です。これだけ聞くと日本の「ビフォーアフター」みたいですが(どちらがパクリなんでしょう…)、それよりも全然大味で、要するに肉体労働者を大量に動員して1週間で家の立て替えを行うというものです。つまりあくまでも元の家の構造を土台にリフォームするのではなく、家を壊して新築します。「限られた予算内で」とか「匠の技」もへったくれもありません。しかも毎回子ども部屋が変で、例えば子どもが「将来は医者になりたい」とか言ってると、ベッドの上にレントゲン写真が飾ってあったり、机の上に心臓の模型が置いてあったりとても居心地の悪い部屋を作ってくれます。家が完成した後は、依頼者家族(たいていマイノリティー系)が戻ってきて、司会者の案内で家中を見て回ります。そして事あるごとに「オーマイガッー!!!」とか大げさにリアクションをとって涙を流して喜びます。最後には子供に"Thank you ABC."などとテレビ局への感謝の言葉を言わせたりします。

 絶対テレビ番組は日本の方が作りが丁寧で面白いと思います。

2月22日(火)の朝

 昨日僕がTAをしている授業の先生から日本の"civic education"について聞かれました。"civic education"とは政治社会に生きる良き市民になるための教育で、政治が何のためにあるのか、自分たちの政府がどのような理念の下に作られているのか、どのような権利や義務を自分たちはもつのか、どのようにして政治に参加できるのかなどについて学ぶものです。僕が今学期TAをしている「アメリカ政治」のクラスはこの"civic education"の考え方にもとづくもので、それゆえ専攻に関わらず全学部生必修となっています。したがって正確に言えば、このクラスで勉強しているのは「政治学」ではなくあくまでも「政治」なのです。
 先生からの問いに対して、僕は日本における"civic education"についてはあまり深く考えたことが無かったので、あくまでも印象を話しました。僕の印象ではそうした政治教育は日本ではあまり盛んに行われてこなかったのではないかと思います。中学の「公民」くらいではないでしょうか。その一つの理由として、日本では日本特有の事情からこうした政治教育を巡っては保守と革新(サヨク)の間で常に議論があったということが挙げられると思います。保守側が多かれ少なかれ、国旗を敬うだの国歌を歌うだの「教育勅語」の良い面を復活させるだの「日本国民」としての教育を子どもたちに施したいのに対して、戦前の軍国主義の復活を警戒するサヨクや教職員組合の側はそれに反対してもっと子どもの自主性を生かした「自由な教育」(「地球市民」としての教育!?)を提唱するという構図です。
 また日本で"civic education"が盛んでない、あるいはそういうアイデア自体がそもそもあまり無い理由として、「政治学」の性質の違いもあるのではないかと思います。日本の政治学はもともとドイツを初めとするヨーロッパの国家学、憲法学の伝統から来ているもので、つまりもともとは少数のエリートのための「統治の学問」(government)です。それゆえ日本の大学ではたいてい、政治学科は法学部に所属し、それを専攻する学生の数も決して多くはありません。それに対してアメリカの政治学(political science)はその出発点からして「市民(citizen)のための学問」であり、市民の立場から政府をコントロールしていくための学問です。大学でも政治学は最もメジャーな学問の一つです。こうした伝統は日本にも大正時代以降「輸入」され、その最初の受容は早稲田大学政治経済学部だと言われています(このへんの事情は内田満. 1992. 『アメリカ政治学への視座―早稲田政治学の形成過程』. 三嶺書房に詳しい―この本は絶版のようですが、『内田満政治学論集』に再録されているようです)。
 僕は正直、国旗、国歌を「教える」ということに関しては疑問がありますが、日本でもアメリカのような"civic education"は必要だと思います。将来はもちろん良き「政治学者」になりたいですが、それと同時に良き「政治教育者」にもなりたいものです。

2月23日(水)の朝

 先日この日記に書いたスタンフォードのビジネススクールの教授は驚いたことに、引き抜き交渉の対象者なのだそうです。しかし相手は名門スタンフォード大学のしかもビジネススクールの名前付の教授職をもつ人物。ほとんど不可能なんじゃないかと思います。と思いきや実は給料の面ではテキサス大学はスタンフォード以上のものを出すことができるそうで、問題は研究環境。彼は必ずしもスタンフォードの研究環境に満足していないらしく、この面でUTがそれ以上のものを用意できれば見込みはあるのだそうです。で、その研究環境が具体的に何を指すのかというと、まず当然研究費。そしてそれ以上に重要なのが彼の意向にそった人事です。つまり彼の研究を進める上で必要な人材を様々な大学から引き抜いてくるという契約です。最近、UT政治学部が政治思想にやたら力を入れているのも、実はこの種の契約のせいで、トロント大学から引き抜いた大物教授との契約で、彼の就任後、彼の意向に沿って各地から研究者を集めるということになっていたのだとか。つまり「あなたに今後わが学部の政治思想専攻を全ておまかせします!あなた色に染めてください!」という契約です。すごいスケールのでかい話です。
 ただし理系はもっとすごいらしく、例えば最近UTは神経科学の研究者を引き抜いたのですが、そのときの条件として、潤沢な研究費や人事はもちろん彼の研究のためにビルを一つ立てるというのがあったそうです(現在政治学部の建物の隣に建設中)。しかもこの教授は6年間で一つしか授業をもつ必要が無いそうで、そこまでしてUTが彼を獲得したのはどうやらノーベル賞受賞を期待してのことだそうです。
 青色ダイオードの中村修二教授がよく言っているように、能力があるならアメリカで研究した方が日本で研究するよりも断然良いということでしょうか。

2月24日(木)の朝

 意味無く、この夏に政治学部が全面移転する建物の写真を。

現在は政治思想の人たちが一足早く移転しています。僕がTAをしているクラスもすでにこの建物で行われています。写っている人の服装から見てもわかるとおり、テキサスではすでに夏の気配すらあります。

2月26日(土)の昼

 今朝は8時くらいに起きたのですが、雨が降っていていつものように自転車で買い物に行けません。で、どうしたもんかとぐだぐだとバリカンで散髪したり、朝食と昼食を食べたりしているとあっという間に午後1時になりました。大変不毛な時間を過ごしてしまいました。買い物は、良く考えたら今晩、テキサスA&Mの後輩が来るということなので彼に車で連れて行ってもらおうと思います。

 全然関係ないのですが、昨日新しい英単語を覚えました。"procrastinate"というもので、意味はMerriam-Websterの辞書によると"to put off intentionally the doing of something that should be done"ということで、つまり「すべきことを故意に延期する」という意味です。この単語は、勉強しなきゃいけないのに、ゲームなどで遊んでしまうときなんかに、アメリカ人の学生の間ではしょっちゅう使われるようで、かなりポピュラーなのだそうです。

2月27日(日)の昼

 昨夜はテキサスA&Mの後輩が来て、高級日本食レストランで食事。ここは何度来てもステキです。その後、午前中雨のため自転車で行けなかったスーパーに連れて行ってもらって買い物。あとはアパートで夜中の3時くらいまで、研究の話をしたり下らない話で盛り上がったり。共著で何か出来ないかということを話し合ったのですが、結構良い感じのアイデアが出てきてこの線でいけるのではないかと検討中。途中、歩いてセブンイレブンまで買い物に行ったり、まるで日本みたいです。今日はこれから昼食と買い物にモールに行ってきます。

2月28日(月)の夜

 今日の昼、学部で引き抜き対象者である、中西部の大学の有名政治心理学者のトークがありました。「あー、まさにこれぞ政治心理学!」という内容で、ちょっと懐かしくなりました(って今でも僕は一応、政治心理学も専門のつもりですが)。リサーチクエスチョンは「政治に関する事実はいかに人々の政策選好に影響を与えるか」というもの。イラク戦争開戦直前から約1年間、4回にわたってundergraduateの学生を対象に行ったパネル調査データを分析し、いかに「イラクで○人死んだ」とか「大量破壊兵器が見つからなかった」とかの事実が人々の選好(イラク戦争支持)に影響を与えるかを見ています。でも実験じゃなくサーベイなのにランダムサンプリングしてないし、因果関係にかんする理論がイマイチよくわからないし、分析手法は単にパーセンテージを見てるだけだし、なんだかなあという感じでした。要するに「強い党派性をもつ有権者ほど、事実に関する正確な情報をもつ」、でも「強い党派性をもつ有権者は、事実を知っても自分の信念や政策選好をそれに合わせてアップデートしない(変化させない)」ということのようです。

 明日から二日間、朝日新聞社の『AERA』の記者の方の取材の手伝いで、ブッシュ牧場のあるクロフォードに行ってきます。クロフォードは人口700人ほどの小さな田舎町です。また面白いことがあったらここに書きたいと思います。

トップに戻る
トップページに戻る