2005年5月の日記
5月1日(日)の夜

 先日、アパートの賃貸契約を更新しました。期間は1年間でその間の家賃は現在より10ドル上がって月額405ドルです。10ドル値上がりしたとはいえ、それでもまだ立地や部屋の広さを考えるとリーズナブルな額と言えます。しかし、やはり値段は値段なりの部分もあるもので、このアパートの場合問題はマネージメントにあります。僕が入居した3年前のマネージャーは派手で若作りした感情の起伏の激しい中年の白人女性で、ほとんどオフィスにいないうえ、頼んだことをすぐに忘れる人でした。彼女はこのアパートに住んでいて、週末になると蛍光色のボディコンに身を包んでどこかにお出かけしていました。また彼女の年齢にしては年のいったガラの悪い子どもたちも同じアパートの別室に住んでいて、そこは変な若者の溜まり場となっていました。
 このマネージャーは1年半前にいなくなり、現在の男性マネージャーになったのですが、彼もまたちょっと普通ではありません。年齢は20代後半くらいでおそらくアメリカ生まれのヒスパニック系。坊主頭にひげを生やし、タンクトップからのぞく筋肉のついた腕にはタトゥーがあります。初めての人がオフィスで彼を見かけても絶対マネージャーとは思わないことでしょう。しかし彼は外見とは裏腹に寡黙な働き者で、アパート内で工事があると業者と一緒に大工仕事で汗を流しています(ていうか彼自身業者上がりのような気がします…)。ただ何か設備に不都合があってもなかなか解決されないのは相変わらずです。この辺はマネージャーの能力うんぬんではなく、マネージメントに原因があるのかもしれません。例えば現在もバスルームの蛇口から絶えず水が少量流れ出ている、バスルームの天井が崩壊している(下の写真)などの問題があるのですが、マネージャーにはこの問題を1年くらい前から伝えているにもかかわらずまだ解決されません。まあ僕自身としては実はあんまりこの問題は気にならなかったりするのですが、この夏部屋をサブリースする予定があるので、一応直してもらいたいと思っており、明日にでも再度伝える予定です。でも正直今回もあんまり期待できないような気がします…。

5月3日(火)の夜

 今日はアドバイザーと自分の研究についてじっくり話し合いました。悪戦苦闘の末、理論の部分に関しては自分でも良いものが書けたと納得しているし、フォーマルモデルとシミュレーションの超大まかな見通しも立ったのではないかと思います。でも問題は実証研究のデザイン。やはりカギとなる某変数を測る尺度が必要だということになりました。この変数に関しては政治学ではまず普通はサーベイで聞かれないし、聞かれているのが一つあるにしてもその尺度は僕としてはあまり満足のいくものではありません(しかもそのデータはメキシコのサンプルで、入手可能かどうかも不明)。ということで、自分で既存の変数から作るしかありません。
 これまでの政治学における研究では、この変数は前述の直接的な質問で測ったものを除いては、たいがい単に「仮定」されてきただけで、ロジックとしては「この仮定にもとづいて統計モデルを作り、予測されたとおりの結果が出た→仮定は正しかった」という結構無理のあるものでした。僕が当初考えていたのもこれです。でもこれがダメとなった今、自分で工夫して変数を「二次加工」して作るしかなさそうです。もしこの作業が上手くいって結果が出ればこの研究はかなり満足のいくものになるのではないかと思います。これまで僕は自分の書いてきたペーパーにあまり自信はもてませんでしたが、この研究に関してはまだ今のところ自信が持てます。僕のやろうとしていることは投票行動、選挙研究の分野では全く新しいことだと思うし、2000年以降現在までワーキングペーパーとして出ているcutting edgeの諸研究よりも一歩先を行っていると思っています。
 プロポーザルに関しても妥協したくありません。同期の学生にもプロポーザルを通したが、リサーチクエスチョン、デザインなど研究の枠組み的にどういう結果が出ても面白くないという、正直よくあんなので本人がディフェンスしようという気になったなあというのがあります。どうも今学期中に僕がディフェンスするのは無理そうですが、別に来年の財政援助は保証されているし、オースティンを離れる予定もないし、データを集める苦労や、フィールドワークも無いので実質的に害はありません。いずれにせよ、何とか今までの殻を破ってポジティブ志向でたゆまず努力したいと思います。

 まだ博士論文の目途も立っていない段階で、就職のことを考えるのは早すぎると思うのですが、UTに今学期在外研究で来られている日本の大学の先生(政治学ではない)から「そろそろ求人を定期的にチェックしてだいたいの傾向を把握しておいた方が良い」と言われたので、最近は科学技術振興機構の運営する「研究者人材データベース」をちょくちょく見ています。それで、政治学の求人は少ないなあと驚きながら見ていたのですが、"KH's web site"の小林さんによると「今年はどうも政治学関係の公募が豊作でけっこう出ているようです」とのこと。これで「豊作」とは現状の厳しさをまざまざと見せつけられた思いです。しかも、その反動で来年以降は減るのではないかとのこと。まあこういう現状は大学院に入る前から薄々知っていたわけですから文句は言えません。今はとにかく自分の好きな研究が自由に比較的経済的な心配も無しにできることに感謝しつつ、日々やるべきことをやるしかありません。

 どうも全米的にそのようですが、ここ数日オースティンでもこの時期にしては異様に寒く、最低気温摂氏12度、最高気温20度とかです。しまってあった毛布も出してきましたが、睡眠不足もあってすっかり風邪気味です。早くもっと暖かくなってほしい!

5月4日(水)の夜

 今晩は2時まで、TAをしている「アメリカ政治」のクラスの復習。試験があさってにあるので明日のオフィスアワーは多少人が来るのではないかと思ってのことです。それにしても、このクラスは浅く広くでしかも暗記中心なので大変です。さらにこれを英語で説明しなきゃいけないとなるともっと大変です。大学によっては留学生の院生がアメリカ政治のクラスを教えなければいけないこともあるようですが、そんなの僕には恐ろしくて考えられません。講義を準備する分にはまだ時間さえあれば何とかなるような気がしますが、undergraduateの学生からの教科書に書かれていないアメリカ政治にかんする質問に即興で答えるとなるとかなりしんどいと思います。これならよっぽど大学院の「世論と投票行動」とかのクラスを教える方がマシのような気がします。

5月6日(金)の朝

 昨日、いつも僕が秋学期にTAをしているゲーム論とパブリックチョイスのクラスの先生にたまたま廊下で会い、来学期のことについて話し合いました。来学期は他にパブリックチョイスのクラスが僕のアドバイザーの先生によって開講されるので、このクラスはゲーム論一本で行くつもりのようです。教科書もMartin J. Osborne.2003.An Introduction to Game Theoryと、前回までのようなほとんど誰も知らないも本ではなく、やっとある意味ちゃんとしたゲーム論の教科書を使うことになるようです。僕にとってもこの教科書で基礎を勉強し直せるのはうれしいことです。

 あと昨日は夕方に年度末の学部のパーティがありました。僕は少々会うのがプレッシャーな先生もいるのであまり行きたくなかったのですが、タダメシだし、この種のパーティは今のところ皆勤なので結局参加することに。これはアメリカではどこでもそうなのか、UT政治学部が特殊なのかは良く分かりませんが、学部のこの種のパーティではなぜかいつも人種または性別で固まる傾向があるよう思います。ある韓国人の学生に言わせれば、この学部では女性が男性よりも優遇されていて、アメリカ人が留学生よりも優遇されている。したがって、この学部で最も虐げられているのは留学生の男だ!とのことです。僕は今まであんまりそういう風には考えたことが無くほとんど人種や性別は気にせず生活してきたのですが、これに似たような考えが何となく根底にあって、それがパーティでの参加者の行動に出ているのかもと思います。よく考えてみれば、undergraduateの学生でも人種の違いに関して口にすることはほとんど無いにしても、結局は人種で固まっている場合が多い気がします。まあ人間似たもの同士で寄り合うのはある意味自然ですし、肌の色や性別なんてその最たるものでしょう。

5月8日(日)の朝

 金曜日の「アメリカ政治」のクラスの試験監督をしているとき、たまに学生から質問を受けたりしたのですが、その中で「この"preacher"の意味が分からないから教えて欲しい。英語は自分にとって第二外国語だ」というのがありました。僕は留学生として彼の気持ちもわからんではなく、だいたいこれは英語の試験じゃないので教えても良いかなあと思ったのですが、自分で判断するのも良くないと思い結局「先生に聞いてください」と振りました。自分のことも含めてですが、やっぱ外国語で勉強するのは大変なことです。

 最近はあまりテレビを観ないのですが、たまに観るとしたら地上波の宗教チャンネルです。非常に興味深い。24時間、さまざまなキリスト教団体が番組を作っていて、ブラックチャーチの模様があり、数万人をスタジアムに集めての「テレヴァンジェリスト」の説教あり、さらには宇宙人がどうとかまであり、そのへんの普通の番組よりよほど面白いです。中でも最近のお気に入りは"Travel the Road"という番組。これはティムとウィルという白人二人がミッショナリーとして、アフリカや東南アジアの未開の地に踏み入って、ジャングルで危険な目にあったり、内戦に巻き込まれたり、現地の人の反発にあったり困難に直面しつつもキリスト教の布教に励むというもので、冒険エンターテイメントの要素も多分にあります。キリスト教のミッショナリーというとイエズス会とかザビエルとか昔のことのようですが、実は今でも普通に行われており、多かれ少なかれだいたいこんな感じなのかなあと感心しながら観ています。
 僕はオースティンに来て2年間バイブルスタディーに通って3年目はかなりコアな集会に参加していたのですが(クリスチャンでない僕は途中で何となくいづらくなって参加しなくなった)、その中でミッショナリーについても色々と聞きました。中でも興味深かったのが中国への布教活動。その集会のリーダーの一人の友人の中国系アメリカ人がミッショナリーとして中国に行ったそうなのですが、公然と布教活動ができない中国にあって、その人の表向きの目的はビジネスなのだそうです。その人がミッショナリーであるということは、教会内の一部だけの秘密で、彼は誰にも本当の目的や身分を明かさずに中国で会社を立ち上げ、キリスト教の布教活動を行うのだとか。長期間に及ぶミッショナリーの期間中はアメリカへの帰国は許されず、その人との別れの場面は非常に崇高で感動的なものだったそうです。
 ちなみに先日のローマ法王の死去に伴って話題になった枢機卿ですが、百人ちょっといる枢機卿のうち身分が明かされていない人が一人いて、その人はどうやら中国在住の中国人ではないかとのことでした。つまり、身分が明かされると迫害を受けたり布教が難しくなるから公表されていないということです。こうやってクリスチャンは今でも地道に世界に信仰を広めようとしていることを思うと驚きを感じます。

5月10日(火)の夜

 STATAを使って色々と分析をしているのですが、むかつくことがありました。モデル内で使われたケースだけを用いての各変数の記述統計が欲しかったのですが、どうやらSTATAではこれを得るコマンド"estat summarize"は最新版でないと装備されていないようです。こんな簡単なことなのにあり得ない! SPSSなら大昔から回帰分析のオプションとして余裕でついています。なんでSTATA社はこんな簡単なコマンドを最新版の「9」まで取り入れなかったのか。高度な統計手法のコマンドを意味無くどんどん追加する一方で、これくらいの簡単な分析上の要求にこたえられないなんて、まったくアホだと思います。おそらくどこかの誰かが"estat summarize"と似たようなadoファイルを作っているのではないかと思いますが、探すのも面倒くさいです。本格的にSTATAから離れることを決意しました。

5月11日(水)の夜

 今晩はTAをしている「アメリカ政治」のクラスの期末試験がありました。午後7時から10時。これは制度としてそう決まっているだけで、実際問題は今まであった3つの試験からほぼ同じ内容の4択問題を100問選んだものなので、1時間程度で全て終了するものと思っていました。ところが二人の学生が粘りに粘り、結局終わったのは9時10分。2時間10分もかかっています。まあ制度的に3時間認められているので文句は言えませんが、その間冷房の効いた教室でTシャツだけで突っ立っていたので寒くてすっかり凍えてしまいました。明日はマークシートを採点センターで採点して、これで今学期のTA業務全て終了です。無事終われそうで良かった…。

 ここ数日は研究の方も割と順調です。例の某変数の尺度はまだあまり納得いかないのですが、それを使っての分析では、思った以上に理論どおりの結果が出て、案外いけるもんだなあと驚きました。

5月13日(金)の夕方

 昨夜は徹夜で博士論文の一章になるであろうペーパー30枚を書き上げ、先ほどアドバイザーに提出しました。今学期は一応これで終了としたいと思います。今学期を振り返って後半、特に中西部政治学会から5月初旬はきつかったと思います。今までの勉強人生最大のスランプに陥り、精神的にも最悪の状態でした。まあでもこの間に、一応TeXを習得出来たのは良かったかなあと思います。あとSTATAに関してはやっぱこれからもちょくちょく使い続けると思います。何だかんだいって便利だし、それにせっかく高いカネを出して買ったんだし(でもアップグレードは断じてしません!)。先日はちょっとテンパってて面倒くさくていらいらしていましたが、そもそもモデル内で使われたケースだけを用いたsummary statisticsも別に"if"を使って他の変数でお互いに条件付ければ簡単に出せるわけです。
 今晩はMBA、官庁派遣、在外研究の人たちとのお別れ会です。例年この時期は人を見送ってばかりです。僕が見送ってもらうのはいつになるのでしょうか…。

5月16日(月)の夕方

 金曜日に今学期終了ということにしてから、急に体調が悪くなって難儀しています。睡眠障害とでもいうのか、しんどいのに寝られない。きっと学期後半、コーヒーとエナジードリンク漬けのあまり寝ない生活が続いたからだと思います。今日も午後から頭がすごく痛くなって早めにオフィスから帰ってきました。今晩こそちゃんと寝られますように。

 今日の昼は同期の台湾人とキャンパス近くのタイ料理屋で食事しました。彼女は先週末プロポーザルをディフェンスして博士候補生となり、後は台湾で博士論文を書くそうです。で、この食事会は本来は彼女のお別れ会として企画されており同期の韓国人3人も来る予定だったのですが、彼らは都合が悪くなり、結局二人で行くことになりました。彼女は僕より一つ年上で背が高くて細くて色白で美人で性格が良い人で、僕が今まで会った中では最も善良な人です(かつては某もはめど氏と「こんな清楚で純粋な人も…」と色々良からぬ妄想を膨らませていたものです)。僕は自分の専攻とは別に比較政治とフォーマルセオリー専攻のコアクラスをとっており(←コースワークに含まれないので普通の人はあまり取らない)、彼女とは最初の学期にとった比較政治のコアクラスで一緒でした。夜9時半に終わる授業の帰り道バス停まで色々語りながら歩いたものです。あの頃は二人ともアメリカに来たばっかりで不安だったよねえ、などと当時を懐かしみました。ちなみに彼女が台湾に帰る理由もイカしていて、「もうこれ以上彼氏と離れ離れでいるのは耐えられない」とのこと。こういう人間的な情熱も研究者には必要だと思います…。
 ちなみに僕の代には東アジアからの留学生は6人(日本人1人、台湾人1人、韓国人4人)いて、そのうち今学期までにプロポーザルを終わらせたのが2人、プロポーザルを書いているのが3人、コンプに落ちて退学になったのが1人です。専攻としては僕以外は全員比較政治で、自分の出身国にからめた研究をしているようです。それにしても4年前の秋に一緒に入学した頃は、誰がこのような4年後を予測できたでしょうか。不安におののきつつ「4年後はオースティンにいないかもしれない…」と思っていたことを考えれば、苦労しながらも今まだ勉強できていることに感謝だなあと思います。

5月19日(木)の夕方

 体調が悪いの、未だに続いています。夜眠れない+日中頭痛いというのに苦しんでいます。やはり学期が終わって気が緩んでいるのだと思います。というわけで、今日も午前中でオフィスを「早退」し、午後は近所のカフェでコーヒーとブルーベリーマフィンを頂きながら、アイン・ランドの1964年の『プレイポーイ』のアルヴィン・トフラーによるインタビューを読んでいました。
 改めて思うのがやはりアイン・ランドのわかりやすく単純で力強い文章には何かしら「邪気」をはらんだ捕らえどころのない魅力があるということです。後からよく考えればあまりにも極端な主張で説得力が無いものも多いのですが、読んでいる最中は何度か鳥肌が立つくらいです。このような読書体験はおおよそ僕はアイン・ランド以外ではしたことがありません。だからこそアメリカではアイン・ランドの死後も著作がコンスタントに売れ続け、その「信者」を一定の割合で生み出しているのでしょう。またランドの思想である客観主義(Objectivism)は明らかに世間一般とはズレた極端な思想ですが、このような極端に右派で保守的な大衆思想(あるいはそれを受け入れる素地)が「重し」としてアメリカ社会がリベラルになりすぎるのを防いでいるのだと思います。
 彼女の思想の根幹は何と言っても人間の理性賛美、そこから導かれる自由主義、個人主義、利己主義の擁護(その裏返しとしての平等主義、集団主義、利他主義の批判)、さらにその政治的表現である資本主義の礼賛です。ランドは『プレイポーイ』のインタビューで客観主義について以下のように答えています。

−客観主義の前提は何ですか?またそれはどこから始まりますか?
ランド:それは「存在は存在する」という公理から始まります。この公理が意味するのは客観的な現実は、それを認識する者や、それを認識する者の感情、感覚、願望、希望、あるいは恐れとは独立して存在するということです。客観主義は、理性は人間にとって現実を認識する唯一の手段であり、唯一の行動の指針であるということを主張します。ここで理性とは人間の知覚によって得られたものを特定し統合する機能を意味します。


つまり、これは客観的存在を否定するポストモダン的な考え方(「自分が死ねばこの世界は無くなるのではないか!?」)の批判であり、自分が何をしようが何を考えようが現実は現実として客観的に存在する(「自分が死んでも、この世界は存在する」)、ということです。そして自分の希望や願望や迷信、その他諸々の感情的バイアス無しに、そうした現実をありのままに認識する能力が人間の理性だというのです。
 この「公理」から演繹的に客観主義の倫理や実践にかんする主張が導かれます。まずランドは理性は人間の生存のための基本的な道具であるから、合理性は人間の最も高次の美徳であると説きます。それゆえ、理性的な思考をすること、現実を正しく認識すること、そしてその認識にしたがって行動することは人間の義務となります。また人間の究極の目的は「生存」であり、人間は自分を他人のために犠牲にしてはいけないし、他人を自分の犠牲にしてはいけません。つまり利己主義の肯定、利他主義の否定です。また理性を駆使して生存を求めるということは、現実社会において勤労と達成への欲求として現れ、合理性に裏打ちされた生産的な仕事が人生における最大の価値となります。ランドにとって、友情や家族の絆すら、もしそれらが生産的な仕事よりも上位に置かれるなら、不道徳なものとなります(人間の合理的な生き方に関係が無いから)。要するに客観主義においては、人間にせよモノにせよ、目的(人間の場合、生存)があり、その目的を合理的に達成することが善なのです。
 このような客観主義の根幹の主張を確認したうえで、インタビューはさまざまな現実の問題へと進みます。まずは女性の役割について。

−男性と同様、女性もその生活において仕事を中心とすべきでしょうか。もしそうならどのような種類の仕事でしょうか。
ランド:もちろん。女性は人間です。男性にとって適切なことは女性にとっても適切です。基本的な原理は同じです。私はどのような仕事を男性がすべきかについて指図はしませんし、女性についても同様です。とりわけ女性的といった特定の仕事は存在しません。女性は男性と同様、その目的や前提に応じて彼女らの仕事を選択することができます。


上のようなコメントはインタビュー当時の1964年としては最先端のフェミニスト思想とかぶります。これまでランドは超保守として、フェミニストとしては決して考えられてきませんでしたが、近年ランドがフェミニストの観点から研究されるようになったのはこの辺にあるようです。またランドは『肩をすくめるアトラス』(1957年)で男を従える超人的な女性を主人公にしており、これも当時としてはかなり画期的なことだったようです。さらにランドは家事について、人生の目的としての労働と達成という観点から、家事は非実際的ではあるが、それが単なる感情的な道楽ではなくキャリアとして、科学的に行われるのなら重要なことだと主張しています。
 インタビューは進んで、今度は男女の恋愛について。

―唯一の情熱が仕事である合理的な人間の人生のどこにロマンチックな恋愛が入るべきでしょうか。
ランド:それは最大の報酬です。深いロマンチックな恋愛を経験できることのできる唯一の人間は仕事への情熱によって駆り立てられる人間です。なぜなら愛は男性や女性の人格における最も深遠な価値への自尊心の表現だからです。人は価値観を共有できる人と恋に落ちます。もし明確に定義された価値や道徳的な人格をもたないのなら、その人は他の人間を賛美することなどできません。この点にかんして、私は『水源』から引用したいと思います。「"I love you"と言うためには、"I"をどのように言い表すか知らなければならない」


要するに、恋愛の本質が価値観の共有なら、より明確に価値観を持っている者同士が最も情熱的な恋愛ができる、ということです。またランドは愛とは自己犠牲ではなく、人間の必要や価値に対する最も強力な主張であると言います。これはつまり恋愛ですら冷徹な合理的な計算であるべきであり、感情に流されてはいけないということです。実際、ランドの小説では、主人公の女性がある男性と別れて、別の男性とくっつくのですが、その最初の男性は後の男性を自分よりも合理的に考えてランド的な意味で優れていると認め、いともあっさりと彼女を諦めて二人を祝福するのです。

 以上のようにランドの主張は、はっきりとした形而上学的な「哲学」に裏打ちされており、そこから導き出される現実問題にかんする主張においてブレがあまりありません。しかしブレが無いということは、言い換えれば、常識で考えておかしな、周りが引くような極端な主張をもしてしまうということです。これはまさに教条主義であり、ランドが最も嫌った共産主義など全体主義体制や、キリスト教原理主義に通じるものです。また客観主義はロックなどに見られる古典的自由主義(現代アメリカのメインの保守)やその極端化としてのリバータリアニズムと似通っているようで実は全然違ったりします。というのも古典的自由主義では善(good)と正(justice)が区別され、前者を個人的な問題として問わず、代わりにその個人にとっての善がどこまで許されるかを問うという点で、多元主義的、価値観的相対主義的なのに対し、ランドの客観主義は善の内容を、「人間の目的は生存であり、そのために合理的に生きるのが善であり、その合理的生き方とは〜である」などと決めてしまっており、他の善なる生き方にかんする価値観を許容しないのです。それゆえ現実的に考えて、せいぜい個人の生活指針にしかならず、とても社会哲学にはならないと思います。

5月20日(金)の夜

 今日は朝から自転車で買い物。主に日本への土産など。一旦帰宅後、食事を済ませ図書館で博士論文とは別のアイデアに関するデータを本からパソコンに入力しました。キャンパスは卒業式シーズンでガウンを着た卒業生とその家族でごったがえしており、「自分はいつこの人たちの中に加われるのだろう」と何だか不安に感じました。5時まで図書館にいて、帰宅後食事をして再び大学へ。夏休みの帰国で2ヶ月空けるのでオフィスの整理および、郵便物を確認。郵便物の中にAPSRの5月号が無いか期待していたのですが、ありませんでした。
 この号に、実はテキサスA&Mの後輩の論文(彼のアドバイザーとの共著)が掲載されているはずです。APSR(American Political Science Review)は政治学の最高峰の学術誌でおそらく日本人は今まで5人も掲載されていないと思います。彼は僕とは1年違いで同じ同志社の法学部政治学科→大学院アメリカ研究科→テキサス留学ときており、日本でのゼミやアドバイザーも全て同じです。彼はこの論文の他にもCQ Pressから8月に出版される本の一章を書いていたり、南西部政治学会で最優秀論文賞を受賞したりで、3年目を終えたばかりなのに活躍が目覚しく、もはやここまで来るとうらやましいというより「同門」として素直に喜ばしく思います。彼は日本にいるときから「APSRにいつか論文を載せたい」といつも言っていて、当時僕は「何アホな夢見てんねん!」と思っていましたが、今回本当に載りました。やはり僕も彼を見習って野心的に常に高い目標を置いて勉強しなきゃいけないなあと思います。勉強面以外でも彼は「ホームページでメイド喫茶とか萌え〜とか書かない方が良いですよ」と実に真っ当な助言をしてくれるよく出来た後輩です。

 某Y先生よりmixiに招待して頂きました。前からGREEには登録していますが、この手の「ソーシャルネットワークサービス」はイマイチどのように利用するのかまだよくわかりません。色々と可能性を探ってみたいと思います。

5月22日(日)の夜

 明日の朝、オースティンを発って日本に一時帰国します。今日ふと冷静に色々な状況を考えてみるとすごい不安になりました。不安に打ち勝つだけの努力をせねばなりません。生産的な夏が過ごせますように。

 金曜の日記で一部事実誤認がありましたので、訂正しておきました。

5月25日(水)の朝

 無事日本に帰りました。日本は思ったよりもまだ寒いと感じます。今回は機内でも眠いのに眠れず、映画を3本見ました。僕は機内ではどうも涙腺が緩いらしく、映画を見てすぐに泣いてしまいます。前回の帰国時には「きみに読む物語」で号泣してしまいました。昨日も3本中2本で少し泣いてしまいました。今回は気を緩めず、今日からさっそく勉強を開始したいと思います。

5月26日(木)の朝

 昨日の午前はたまっていた各種支払いや、プリペイド携帯の手続きなどをあわただしく済ませ、午後から所要で大阪の梅田へ。合間に紀伊国屋書店で帰国時恒例の政治学の新刊書チェックをしました。やはり気になったのは慶應義塾大学出版会から出ている「叢書21COE-CCC多文化世界における市民意識の動態」のシリーズ。ざっと1時間ほどかけていくつか目を通しただけなので、感想とかは書けませんが、何冊かは買って帰るかもしれません。

 それにしてもこの年齢でまだ学生となるとさすがに大阪のビジネス街を歩いていて肩身の狭いものを感じます。まあ研究者志望である以上これは避けられないわけで、ほとんどの研究者が通ってきた道だと思いますが。日本で院生をやっている人はおそらくアメリカで院生をやっている人よりも多かれ少なかれ日々こういう感覚を強く感じているのだろうし、大変だと思います。

5月30日(月)の朝

 アン・コールター(栗原百代訳). 2004. 『リベラルたちの背信』草思社(Ann Coulter. 2003. Treason. New York, NY: Crown Forum)を読みました。アン・コールターは有名な保守派の論客で、内容はタイトルのとおり、いかにリベラルたちがアメリカを裏切り、国益を害したのかを論じたものです。この本で槍玉に挙げられるのは、クリントン、カーターを初めとする民主党歴代大統領、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストなどのマスコミ、ハーバード大学、イェール大学などの一流大学とそこに寄生する学者・知識人連中、ハリウッドのセレブたちで、それらを一くくりに「売国奴」と徹底的に叩きます(コールターに言わせればニューヨークタイムズは「ソ連の非国営通信」であり、ハーバード大学のあるマサチューセッツ州ケンブリッジは「ソ連の領土」)。一方で、賞賛されるのが50年代に「赤狩り」を推進したとされるマッカーシー上院議員、民主党が始めたベトナム戦争を名誉を保ったまま終わらせたニクソン大統領、悪の帝国ソ連を崩壊へと導いたレーガン大統領、テロとの戦争を力強く推し進めることでアメリカ国民の安全を守っている現ブッシュ大統領ら。特に本書ではマッカーシー上院議員の名誉回復が図られていることが新鮮です。また上記の「売国奴」リストの中にイェール大学が含まれていることからもわかるように、本書の標的は一部の保守にも向けられており、東部エスタブリッシュメントなど党派を超えてアメリカを支配するエリートに対する怨嗟も語られます。要するにこの本は、アメリカの田舎に住み、キリスト教的な伝統的価値観をもつ学歴の無い庶民の草の根保守派の立場から書かれています(大部分が現ブッシュ大統領の支持者と重なる)。そうした人々にとってはリベラルやエリートの国際協調主義や環境保護は、庶民の価値観によって体現されるところの真の国益を損ねる売国行為に他ならないのです。
 まず本書の前半部分はほとんどがマッカーシー上院議員の名誉回復のために費やされます。今手元にある『岩波=ケンブリッジ世界人名辞典』を見ると、マッカーシーは以下のように記述されています。

…有名になったのは、1950年代前半に、250名の共産主義者が国務省に侵入していると、根拠もないのに告発し、1953年には強力な常設政府機能調査小委員会の委員長になったことによる。執拗な反対尋問と相手を傷つけるあてこすりによって、多くの無実の市民や官僚を糾弾したが、暴走して、軍部と直接対立することになった。彼の扇動した反共産主義の一種の魔女狩りは”マッカーシズム”として知られるようになる。

おそらくこれが世間一般の評価ということなのでしょうが、見てのとおり大変な悪者として描かれています。しかしコールターはこうした評価は完全に間違っていると言います。彼女によると、「ソ連のスパイである証拠は、いくらあっても充分とされることはけっしてな」く、「火を見るより明らかなソ連のスパイまで、ジョー・マッカーシーが煽った反共ヒステリーの犠牲となった無実のリベラルとして扱われた」のであり、実際には国務省内には多くのソ連のスパイがおり、マッカーシーはその脅威を察知して調査に乗り出した愛国者なのです。またいわゆるエリートや共産主義に共感を抱くアメリカ嫌いの知識人やリベラルはマッカーシーのことは嫌っていましたが、愛国的な大多数の庶民は彼を支持していたそうです。

マッカーシーは労働者に愛されていた。偉大なアメリカ国民の良識に訴える才があった。広範な主張で新聞の見出しになり、国民を奮いたたせた。ふつうのアメリカ人には、自国を愛さない卑劣な同国人の存在など信じられない。彼らにとってマッカーシーは詩人だった。リベラルたちは歴史書を著したかもしれないが、当時のアメリカ国民の直感的な反応に左翼のはったりは通用しなかった。エリートがどんなにあざけっても、アメリカ人の多くはマッカーシーが好きなようだった。

こうしたマッカーシーの真実の姿は当時のリベラルなマスコミの報道や、後の歴史学者の作業によって完全に歪められました。コールターに言わせれば「歴史は、リベラルのやむことなき洗脳プロセス」なのであり、リベラルの著す歴史書によて後世に生きる人々は間違った真実を教え込まれるのです。ベトナム戦争時も「アメリカ国民の大半は一貫してベトナム戦争を支持していた」のであり、「反戦運動が国を席巻したという神話など、愚の骨頂」なのです。リベラルは現在も冷戦の勝利に貢献したのはレーガンではなく、トルーマンであるとプロパガンダに忙しいし、ジョンソン大統領やケネディ大統領の私生活の問題や盗聴には甘かったのにニクソン大統領を執拗に叩き、大統領の座から引きずり下ろしました。こうしたリベラルの認める敵はただ一つ、アメリカ合衆国であり、リベラルはソ連や現在ならフランスに阿ることに躍起になる売国奴なのです。彼らに反対して真の国益を守ろうとするマッカーシーのような愛国者はエリートやリベラルやマスコミによって「極右」などとレッテルが貼られ、葬られます。
 このような「エリートや知識人やリベラルやマスコミは愛国的な庶民をだまして、国を誤った方向に導こうとしている」、「その過程で真の愛国者が迫害されている」というのが本書を貫く一つの主張です。つまり「草の根保守・愛国者」VS「体制派リベラル・売国奴」という図式です。ここで前者にくくられるのはマッカーシーやニクソンやレーガンであり、おそらくはバリー・ゴールドウォーター(アイン・ランドも支持者だった)やパット・ブキャナンなんかも含まれるでしょう。こうした「リベラルによる歴史の捏造」、「ニューヨークタイムズの偏向報道」、「フランスに褒めてもらいたい病」などという「売国的行為」に対する「愛国者」の批判というのは、日本にそのまま当てはまって面白いと思います(上の「リベラル」を「左翼」に、「ニューヨークタイムズ」を「朝日新聞」に、「フランス」を「中国」に変えるとわかりやすい)。
 もちろんこの本は明らかに保守の立場から書かれた政治宣伝の本で、用いられている情報も含めて全て信頼することはできませんが、現実のアメリカ政治における論戦の一部を垣間見るという点で非常に興味深いものがあります。昨年の7月にこの日記で紹介したデイヴィッド・ブロック(佐々木信雄訳).『ネオコンの陰謀:アメリカ右翼のメディア操作』.朝日新聞社はクリントンを攻撃する保守の汚い政治宣伝の内幕を暴いたリベラル側からの本でしたが、アメリカではこの種の本が両陣営から毎年多く出版され、そのうち何冊かはベストセラーにもなります。アメリカ政治を勉強するのに研究書を読むだけでなく、この種の「下世話」な本を読むことも重要なのではないかと思います。

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