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2005年7月の日記
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7月4日(月)の夜
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ロバート・B・ライシュ(石塚雅彦訳). 2004.『アメリカは正気を取り戻せるか:リベラルとラドコンの戦い』東洋経済新報社(原著はRobert B. Reich. 2004. Reason: Why Liberals Will Win the Battle for America. Alfred A. Knopf, New York)を読みました。ご存知のとおりライシュはクリントン政権の労働長官であり、この本はリベラルの立場から、保守のリベラル批判に反論しつつ、昨今優勢の過激な保守主義を批判しています。なかなか説得力のある議論だと思いました。
この本でのライシュの標的は過激保守派、すなわち「ラドコン(Radcon, radical conservatives)」です。ラドコンは善悪二元論の単純で強固な世界観をもち、目的のためには手段を選ばず、常に「われわれ」と「やつら」を区別しつつ国民の窮状の責任をリベラルになすりつけることで勢力を伸ばしてきました。ライシュによるとこうしたラドコンは、彼らの価値観に基づいて社会の急激な変革をもくろんでいるという点で、現状肯定的で社会の急激な変革に懐疑的な本来の保守とは異なります。
ラドコンのリベラル批判で代表的なものの一つとして「リベラルは真面目な勤労者から税金を巻き上げ、怠惰な人間を甘やかし、国民生活のあらゆる面に介入しようとする大きな政府支持者だ」というものがあります。この批判に対してライシュはまず、「政府の大きさや力の及ぶ範囲が問題なのではない。問題は政府が何をするか、誰の利益を代表するかなのである」と主張します。その上でライシュは、ラドコンたちは彼らの「大きな政府」批判とは裏腹に、同性愛、婚前交渉、中絶など国民のプライベートな問題に口出しし、愛国者法によって政府による諜報活動を許し、多額の政治献金をした企業を政府受注によって儲けさせるなど、別の「大きな政府」を実現していると言います。さらにラドコンはセックスなどの倫理問題には敏感な一方で、企業経営者の汚職や脱税などの倫理問題には甘く、また能力主義を言う一方で金持ちの子どもが親の遺産で豊かな暮らしをすることは問題としません。つまり、ラドコンも結局もリベラルと同様かそれ以上に大きな政府支持者であり、異なるのは何の価値観を重視するか、誰の利益を護るかなのです。リベラルは、セックスをめぐる宗教的価値観と法律は区別されるべきであると考え、富裕で権力を持つ人々の言うままになるのではなく、弱い人を支持し護る政府を支持します。
こうしたラドコン台頭の背景には、彼らの巧みな戦略があります。70年代以降、本来はリベラルな中産階級が没落しましたが、ラドコンはその原因は「黒人や、怠け者にカネをばら撒いたリベラルな政策にある」として中産階級を反リベラル陣営に取り込んだのです。しかしそのように主張したラドコンの福祉軽視、自由市場重視の保守的な政策によって得をしたのは金持ちばかりで、中産階級はますます没落しました。またその過程でラドコンは勤労者たる「われわれ」に対して、国家の寄生虫たる怠惰な黒人や生活保護を受けるシングルマザーや貧乏人を「やつら」と区別し、国の分断を図りました。このようにはっきりと敵味方を区別するのがラドコンの常套手段です。
これに対してライシュは、そのような区別は正当ではないと主張し、国民全てが「われわれ」なのだと説きます。ある人が大もうけをしたとしてもそれは必ずしも彼の実力ゆえではなく、もし彼が現代アメリカではなく、アフリカの奥地に放り込まれたら同じような成功は収められなかったことでしょう。また反対に貧乏になるのもその人が怠惰なのではなく、運や生まれながらの境遇の問題であるとも考えられます。
さらにライシュは愛国心の問題にも言及します。ラドコンはアメリカの起こす戦争に反対し、政府を批判する者を「愛国者ではない」「そんなに自分の国が嫌いなら出て行け」と激しく非難します。しかしそれは当然正しくありません。国を愛するがゆえに戦争に反対する、自国の政府を批判するということもあり得るのです。
経済政策に関しても、ラドコンは優秀な企業家を儲けさせることで、その富が下層にも利益をもたらすとして自由放任、反累進課税を主張しますが(「滴り落ち:トリクル・ダウン」経済学)、ライシュはそれはますます貧富の差が広がるのみで根拠の無い話だと批判します。それよりも公共投資によって民間投資を活発化させ、より良い多くの仕事を作り出すことを主張します(「下から湧き上がる:バブルアップ」経済学)。
とまあ以上のようにこの本は典型的なリベラルな主張が簡潔に述べられた大変勉強になる本だと思います。要するに最も根本的な部分では「自分は一人で生きている。自分の成功は全て自分の実力だ!(運も実力のうち)。だから自分の得た富は全て自分が独占できるのだ!。100回生まれ変わっても自分は特別であり同様の成功を収めることができる」と考えるか、「自分は社会や多くの他の人によって支えられて生きている。自分の成功は決して自分だけの力ではなく、運や社会制度、他人にも助けられた。だから自分の得た富は全て自分が独占すべきではない。自分も成功者ではなく失敗者の一員となった可能性も十分にある」と考えるかがラドコン−リベラルの一つの重要な違いとなるのではないかと思いました。ちなみに、ライシュは巻末に「現代アメリカにおけるラドコンの主要な考え方や、ラドコンのルーツ」について知るための推薦図書として、ミルトン・フリードマン、フリードリヒ・ハイエクらの著作と並んでアイン・ランドやレオ・シュトラウスの著作を挙げていたのが興味深かったです。
ただし本書の訳者の理解には少し疑問が残ります。「訳者あとがき」にはいくつか首を傾げたくなる所があるのですが、特に以下に疑問を感じます。
アメリカの保守化傾向はグローバリゼーションという形を通じて、日本の経済社会にも波が押し寄せてきている。小泉政権の「改革」はそれに呼応する面があるのだが、日本には「保守化」はあっても、リベラルという対抗軸はあまりはっきりしない。日本には政治理念としてのリベラルの概念がないからである(政権交代を目指す日本の民主党はリベラルだろうか?)。
戦後アメリカのニューディーラーによって与えられた日本国憲法をもつ日本には、自民党も含めて少なくとも経済の面においてアメリカ的な意味でのリベラルしかいなかったように僕には思えるのですが…。言うなら「日本には政治理念としてのアメリカ的な意味での保守の概念が無かった」ではないでしょうか。
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7月11日(月)の朝
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博士論文とは全く関係無いのが問題なのですが以下、研究のアイデアを。打ちっぱなしでラフなものなので意味不明の部分もあるかと思いますが。
・タイトル(仮)
「国民の政治意識への憲法の影響:憲法の権利内容と福祉国家に対する国民の支持態度」
・研究の目的&意義
この研究の目的は、デモクラシー諸国における憲法が政治に与える影響を実証的に明らかにすることです。
憲法はデモクラシーにおける政治のあり方に多大なる影響を与えられると考えられます。憲法は「国家の統治の基本を定めた法」(芦部信喜『憲法』岩波書店)であり、政治権力とそれを行使する機関の作用および相互の関係を規律する目的を有します。また「専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障する」という立憲主義の立場からは、憲法の目的は政治権力を制限して人権を保障することであるとされます。憲法以外の法が、政府によって国民に与えられるものなのに対して、いわば憲法は国民によって政府に与えられるものです。それゆえ憲法の制定および改正は通常政治家だけでは不可能で、国民投票によります。1789年のフランス人権宣言第16条には「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と、憲法と国民の権利の不可分な関係が示されています。つまり憲法とはその国の政治のあり方を規定する最も根本的な要因であり、政府によってなされる全ての公共政策の根拠、そして国民の政府に対する要求の根拠となるものです。
したがって政府は憲法が禁じている政策を実施することはできないし、憲法が定める国民の権利を推進する政策を実施する義務があります。例えば日本国憲法第9条は戦争放棄を謳っており、それを字義どおりに読めば日本政府は政策として戦争を行うことはできないし、日本国憲法第25条に定められた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を全ての国民に保障するために福祉政策を実施しなければいけません。
以上のように、憲法が政治に対して多大なる影響をもつことは議論の余地が無いくらい明らかだし、誰も異論はないでしょう。しかし管見する限りこれまでその影響を実証的に示した研究は見受けられません。本研究は、デモクラシーの基礎たる国民世論、政治意識への憲法の影響を実証的に分析することによって、その問題点を補うことを意図します。より具体的には「憲法上の権利の有無が、国民世論のあり方にどのような影響を与えるか」という問いに答えたいと思います。憲法の条文に、ある権利(例えば生存権、社会権、環境権)が明記されることでその国の政治がどのように変化するかを解明することは、憲法改正、憲法制定などの今日の実質的な議論にも貢献できることと思います。
・理論: 憲法の国民の政治意識への影響
憲法の国民世論への影響を論じるにはまず、世論の形成に関する考察が必要です。これまでのアメリカの先行研究によると、一般国民の世論は政治家や知識人など政治エリートの影響を受けて形成されるとされています(例えばZaller, 1992)。つまり国民レベルの意見の対立は、エリートレベルでの意見の対立を反映していると言えます。したがって憲法はエリートの議論を通じて一般国民の世論や政治意識に影響を与えるものと考えられます。
まず憲法に、国民のある権利が明記されている場合、その権利はいわば政治の理念的「前提」となるので、それを根本から否定する議論は政治エリートの間では活発にはならないのではないかと考えられます。仮に理念的にその権利に異議を唱えたいエリートがいたとしても、ルール上その考えを政策に反映させるのは憲法を改正してその権利を削除しない限り不可能であり、そのためには多大なコストがかかります。憲法を改正してある権利を削除しようと国民の大多数の支持を取り付けようとするのは大変な仕事です。したがって、その権利の表現する価値に反対するエリートにとっても、その権利内容自体に反対するのは得策ではなく、この場合議論の方向性はその権利にもとづく政策が「あるべきかどうか」ではなく、「どのように、どの程度行われるべきか」となるでしょう。例えば日本国憲法に第25条がある限り、福祉政策の理念そのものを疑うことは日本の政治エリートにとって難しくなります。できるとしてもせいぜい、どの程度福祉政策を行うかという政策論争になるでしょう。
反対に憲法に、国民のある権利が明記されていない場合、その権利は政治の理念的前提とはならず、根本的にその価値観をめぐって政治エリートの間で対立が生じる余地がでてきます。福祉の権利が明記されていない憲法をもつ国においては、福祉国家の理念を根本的に疑うことが可能であり、福祉政策をめぐる議論は「どのように行われるべきか」の政策論争のみならず、そもそも「その政策があるべきか」というイデオロギー的な論争となるでしょう。例えばアメリカ合衆国憲法には福祉の権利が明記されていないがゆえに、政治エリートは福祉の理念自体をめぐって議論を戦わせています。
以上、まとめると憲法の国民の政治意識への影響として次のことが理論的に考えられます。
「憲法上の権利有り→エリートの議論はその権利に関してイデオロギー論争よりも政策論争になる→国民の世論、政治意識も同様」
「憲法上の権利無し→エリートの議論はその権利に関してイデオロギー論争とそれにもとづく政策論争になる→国民の世論、政治意識も同様」
また憲法上の権利の国民の政治意識への影響にかんして、エリートを経ない別の経路も考えられます。憲法上の権利がある場合、国民はそれにもとづいて憲法裁判を起こすことが可能です。そうした憲法裁判が多くなるにつれ、問題となっている権利に対する国民の理解が深まるものと考えられます。つまり「憲法で保障されている権利が侵害されている」との訴えが繰り返されることで、少なくともその権利が存在するとの認識は浸透すると思われます。それにより、国民の間ではその権利の表す価値に関しては一定のコンセンサスができ、イデオロギー的な論争(「その権利があるべきかどうか」)よりも、政策的な論争(「その権利を保障する政策をどの程度実施するか」)が活発になると思われます。
・仮説: 憲法上の福祉の権利の有無と福祉国家をめぐる国民の論争
以上のような理論から具体的にどのような検証可能な仮説が導かれるでしょうか。ここでは以下のものを提示したいと思います。
メイン
@「憲法に福祉の権利が明記されている国では、福祉国家の理念にかんする国民の議論(イデオロギー論争)の幅が狭い」
A「憲法に福祉の権利が明記されている国では、福祉国家政策に関する国民の議論(政策論争)の幅が広い」
サブ
B「憲法改正コストが低い国ほど、憲法の条文の有無が国民の政治意識に与える影響が少ない」
C「憲法が新しいほど、憲法の条文の有無が国民の政治意識に与える影響が少ない」
まず@に関しては理論の部分で述べたとおり、憲法に福祉の権利が明記されることによってそれがその国の政治の正当な理念となり、政治エリートはそれに真っ向から反対することは難しくなります。したがって、そうした言論は国民の耳に多く触れることはなく、国民の間でも福祉国家の理念が議論の前提として広く受け入れられるのではないでしょうか。この仮説が正しければ、福祉の権利が憲法に明記されている国ではされていない国よりも、国民の福祉国家の理念に関する賛否の分布は、平均が「賛成」寄りで、分散は小さくなるでしょう。
次にAに関しては@に付随して少し説明が必要だと思います。まず憲法に福祉の権利が明記されている国では、理念的に福祉の権利にかんするコンセンサスがあるとします。すると、そのときどきの経済情勢や年齢構成などにあわせて福祉の予算を多くするか少なくするかの政策論争は、あくまでも「福祉は必要」ということを踏まえたものであり、仮に「大幅削減」を主張する場合でも、福祉国家政策の否定という意味合いはもたないものと思われます。したがって、福祉予算の増減をめぐる議論は理念の否定・肯定を含まず、よりフレキシブルに行うことが可能になると思われます。つまり「福祉の理念自体には賛成」の人でも、「福祉予算の大幅削減」を安全に唱えることができるのです。
さらに@、Aに関連してB、Cでは憲法→国民世論の影響の強さを左右する要因について述べられます。まずBでは、理論のパートで書いたとおり、憲法改正のコストは憲法に明記された理念に反対する考えをもつ政治エリートが、憲法に挑戦するか否かを決断を下す上で大きな判断材料となり得ます。もしコストが低いなら、政治エリートは理念的に反対する言論を吐くことで国民世論を誘導しようとするかもしれません。憲法改正のコストとは、いわば憲法の「重み」であり、ある価値をめぐる理念的なコンセンサスの強さを規定すると考えられます。つまり、憲法改正のコストが低い国では、その憲法の体現する価値の国民意識への影響が少ないはずです。
またCにかんしてもBと同様、憲法の「重み」に関する仮説となっています。もし憲法の体現する価値が、エリートの議論や憲法裁判によって国民の間にどれだけ根付くかはやはり時間の影響があるものと考えられます。つまり、憲法が制定、改正されてから時間がたつにつれ、国民の政治意識は憲法の影響をより多く受けていることでしょう。
と、以上仮説の部分までざーっとラフなアイデアを書きました。データを使った簡単な実証分析およびコントロールすべき要因(政治制度、政治文化、経済発展など)の指摘、理論の問題点の整理なども行おうかと思ったのですが、長くなりましたのでまたの機会にしたいと思います。
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7月13日(水)の朝
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月曜日の昼は京大で、「もはめど」氏とUCLA留学中のK氏とランチ。K氏は僕のまわりで数少ないフォーマルモデルを使う政治学専攻の人で、いろいろ本などを教えてもらいました。また彼はギョーカイのゴシップにも詳しく、楽しませてもらいました。ロサンジェルスの学生生活はやはりオースティンとは違って面白そうです(オースティンでも全米的に見てかなりマシな部類だとは思いますが)。
昨夜は同志社Nゼミの2年生歓迎会。専門のゼミは2年生の秋学期から始まるのですが、申し込み→選考を経て、先日受講生が決まりました。たいがい「少数精鋭」で一時期は学部のゼミなのに学部生よりも大学院生の出席者の方が多いなど存亡の危機に立たされることの多かったNゼミとしては快挙ともいえる6人の登録者を向かえ、今回早めの歓迎会となったわけです。会場は木屋町の居酒屋。これまでホームパーティやイタリアンレストランでの「食事会」が多かったNゼミとしては、これまた快挙と言える初の「飲み会」です。参加者は先生+2年生6人+3年生1人+4年生3人+院生3人の総勢14人。1次会を終え、2次会の和民に移動。そこでは「朝ナマ」でおなじみのM先生のゼミ(ここは超大所帯で総勢70人近くいるらしい)が飲んでおり、M先生に「次のアメリカ大統領選挙はどうなるか」などと聞かれドギマギしてしまいました。それにしても僕は学生の中では最年長だったのですが、若いっていいなー。
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7月16日(土)の朝
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先日大学病院に行くと、京都選出の某政治家が秘書らしき人を連れて来ていました。診察はたまたま僕の一つ前で、中待合で待っていると診察室の会話が漏れ聞こえてきました。それによると結構病状は悪い様子。ある意味政治家の職業病とも言えるものでした。診察から出てくるときにたまたま目が合ったので会釈すると、向こうも愛想良く微笑んでくれました。僕はその人の支持者でもなければ、投票したこともないのですが、向こうは僕を支持者か何かと思ったのでしょう。
今晩は祇園祭に行ってきます。
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7月21日(木)の朝
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7月11日の日記で書いた「国民の政治意識への憲法の影響」の続きです(といっても大したものではありませんが)。前回、次のような仮説を提示しました。
メイン
@「憲法に福祉の権利が明記されている国では、福祉国家の理念にかんする国民の議論(イデオロギー論争)の幅が狭い」
A「憲法に福祉の権利が明記されている国では、福祉国家政策に関する国民の議論(政策論争)の幅が広い」
サブ
B「憲法改正コストが低い国ほど、憲法の条文の有無が国民の政治意識に与える影響が少ない」
C「憲法が新しいほど、憲法の条文の有無が国民の政治意識に与える影響が少ない」
このうち@とAに関して簡単にISSP1996のデータを使って見てみたいと思います。対象国は、オーストラリア、ドイツ、イギリス、アメリカ、ハンガリー、イタリア、アイルランド、ノルウェー、スウェーデン、チェコ、スロベニア、ポーランド、ブルガリア、ロシア、ニュージーランド、カナダ、イスラエル、日本、スペイン、ラトビア、フランス、キプロスの22カ国。とりあえず、政府の失業対策に関する政策オプションについての質問として「政府は失業手当てのために支出を多くすべきか、少なくすべきか」(選択肢は1:「もっと多くすべき」−5:「もっと少なくすべき」の5点尺度)を、政府の失業対策に関する理念についての質問として「政府は失業者にまともな生活水準を提供する責任を負うべきか」(選択肢は1:「明らかに負うべき」−4:「明らかに負うべきでない」の5点尺度)を用います。一方で憲法の条文は「福祉に関する権利が一切明記されていない」、「福祉に関する一般的な権利が明記されている」、「福祉に関する特定の権利(この場合失業者が政府によって援助を受ける権利)が明記されている」の3つのカテゴリーに分けます。以下の図は憲法の条文をx軸に、それぞれの質問の回答の平均と標準偏差をy軸にとった散布図です。




今日は時間が無いのでここまでとしますが、また時間ができたときにこの図の解釈と理論との整合性、さらなる分析のための問題点、注意点などについて考えたいと思います。
今日、明日と急用で東京に行くことになりました。自由になる時間は少ないのですが、可能であれば靖国神社→六本木ヒルズ→秋葉原と東京見物したいと考えています。
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7月23日(土)の朝
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東京見物について。靖国神社は今回で3回目でしたが、これまで2回はそれぞれ早朝と夜に訪れたためその付設の軍事博物館である「遊就館」には行けませんでした。今回は主にその遊就館を見るのが目的です。もちろんその前にお参り。僕は靖国神社自体にはそれほど良い印象はもっていませんが、神仏や霊は信じる性質なので、きっちり作法に則って御手洗で手を清め、二礼・二拍・一礼で参拝しました。遊就館は明治15年に設立された日本最古の軍事博物館であり、その目的は「殉国の英霊を慰霊顕彰すること」、「近代史の真実を明らかにすること」とされています。広島の平和祈念慰霊碑に刻まれた言葉が「過ちは繰り返しませぬ」であるならば、靖国神社の遊就館はいわば「今度は勝ってやる」といった感じです。
もっと洗練されていないものを予想していたのですが、おそらくしっかりした学芸員がいるのか展示内容・企画はよく練られていており、全ての展示に英語が付記してあるなど関心しました。入場料800円ですが、それ以上の価値があると思います。僕がこれまでに行った博物館のうちトップ3には入ると思います。その要因の一つとしてはやはり前述の明確な目的があると思います。これはいわばアメリカのワシントンD.C.の諸施設にも共通する精神ではないかと思われ、アメリカの航空宇宙博物館と遊就館は似ていると思いました。両者とも国家の視点から、その国家の偉大さを後世の国民に説く目的で戦争を説明したり、武器を展示しています。このような博物館はアメリカには多くあれ、日本では数少ないのではないでしょうか。この単一の視点から、一つの目的を達成するという方針が博物館の展示物全体を統一的に理解することを可能にし、結果「わかりやすい」ものとなっていると思います。こうした方針はアメリカやおそらく他の国では概ね受け入れられている一方(アメリカでもマイノリティの視点を取り入れろとか議論があるようですが)、日本では異端とされているわけです(対極の異端が「平和のための戦争展」か)。
まあでもそこで描かれる「近代史の真実」としての歴史認識には例によって大いに疑問があり、よい部分はことさらに強調し都合の悪い部分はあえて触れないという印象は否めません。この時代の歴史について日本にとって少しでもネガティブなことを書くと、いわゆる右派の人々は「現代の価値観で過去を裁くな」とか言いますが、それでは過去の人々の無誤謬を認めるしかありません。やはり何が「過ち」であったかを考えるべきだと思います。
最後、記帳所がありパラパラと他の書き込みを見たのですが、実は結構「アンチ」も書き込んでいて意外でした。これをあえて削除せずそのままにする寛容さはすばらしいと思いました。
続いて東京の新名所六本木ヒルズへ。六本木ヒルズというと「IT社長」、「セレブ」、「ヒルズ合コン」、「外資系投資銀行」などというステレオタイプなものしか浮かばない僕ですが、新しく非現実的な空間はそうしたイメージに合致するものでした。観光客も多いですが、サラリーマンが新宿なんかと比べて全体的に若く、オシャレです。大学出てこんなところで働いて高給をもらっていていたら自分が何か特別なんじゃないかと勘違いしてしまいそうです。かつてのジュリアナ東京のように、後々何かの「あだ花」にならないと良いのですが。
その後、秋葉原に移動、帰途に着きました。
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7月25日(月)の早朝
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オースティンに戻ります。例によって夢のような日本滞在でした。立ち向かうべき現実はアメリカにあります。今回は特に不安要因はありませんが無事入国できますように。
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7月25日(月)の夜
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オースティンに戻ったのですが、早速二つほど凹むことがありました。
まず荷物が一つ無くなりました。荷物は全部で二つありダラスで税関を通過後再び預けたのですが、オースティンの空港では一つも出てきませんでした。事情をアメリカン航空の係員に話すと「次のダラスからの便にある可能性が高い」とのこと。ダラス→オースティンは1時間に一本くらいあるので、とりあえず待ってみると次の便に一つありました。しかしその後二つ便を待ってももう一つの荷物は見つからず。仕方なく見つかったら自宅に送ってもらう手続きをして帰宅しました。その荷物の中身は主に衣類で勉強に差し障りは無いのですが、大変腹が立ちます。それに何だか結局見つからないのではという気がします。
で、帰宅するとさらにショックなことが。ドアを開けるやいなや、水が蛇口から流れる音が。見るとバスルームの蛇口からお湯が滔々と流れ出ています。蛇口をいくらひねっても一向に止まりません。2ヶ月前にオースティンを後にするときにも実はこの蛇口から少しは水が流れ出ていたのですが、どうやらそれがひどくなった模様。幸いこのアパートは水道料金が込みで使い放題なので金銭的には問題ありませんが、音が大きく気になるので耳栓して生活しなければいけません。明日修理してもらえる予定ですが、果たしてどうなることやら。
今回の道中では、UCLAのK谷氏に教えてもらった『社会を〈モデル〉でみる:数理社会学への招待』を読んでいました。この本はさまざまな社会・経済・政治現象を説明するフォーマルモデルを概説しているもので、行為のモデル、過程のモデル、構造のモデルに大きく分けられるところの44個のモデルが紹介されています。またフォーマルモデルの基本構造や作り方に関しても簡単に説明されており、参考文献も充実しているなどさらなる学習の有用な手引きとなっています。ただそれぞれのモデルに関する説明は大変基本的で、K谷氏いわく「寝ころびながら読むのに良い本」とのことです。
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7月26日(火)の夜
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荷物は今日の昼ごろ、無事届けられました。水道も昼過ぎに修理の人が来て直してくれました。ただし根本的には直せないみたいで、今でも少しは水漏れしています。その後、買い物に。野菜を多く買いました。塩分ゼロの食塩も買ったのですが、果たしてどんな味がするのか。
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7月28日(木)の夜
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どうでも良い生活の雑事など。
もともと日本→アメリカの時差ぼけには非常に弱いのですが、今回の日本→アメリカでは時差ぼけはほとんど無く、いきなりアメリカ時間で生活できていました。僕も留学以来8回目(!)の日本往復でだいぶ慣れてきたのかなあと思っていたのですが、昨夜12時に寝たところ、今日起きたのが午後2時半。14時間半も寝てしまいました。体が疲れていたわけでは無いだろうし、浅い眠りで断続的に夢をずっと見ていたことからも、無理やりアメリカ時間で生活していたのを、体が本能的に日本時間に戻そうとしたのではないかと思います。いずれにしてもまたいつもと同じ時差ぼけによる頭痛を感じ始めました。
アパート関係でもトラブル続きです。昨夜は温水が出なかったし、今日の夕方は水も出ません。おまけにドアにはマネージャからメッセージがあり、アパートの賃貸契約の更新が出来ていないとのこと。僕の帰国中にマネージャが変わったようで、おそらく引き継ぎが上手く出来ていないのでしょう。
たまにかかってくるどこぞの会社の勧誘電話で、僕はなぜか「タケーシャ」と呼ばれることが多かったのですが、ふとさっき「これはインドなまりなのではないか」と気づきました。アメリカでは"Takeshi"は「タキーシ」と呼ばれることはあっても「タケーシャ」はありません。多くの会社の勧誘電話のコールセンターがインドにあることから、こうした勧誘電話で「タケーシャ」と呼ばれるのは、インドなまりだからなのではないかと。
今回の帰国で、アメリカン航空のマイルがようやく日本往復ができるまでに貯まりました。年末はぜひこのマイルを使って帰国したいと思います。思えばこれまで何回も日米往復をしましたが、途中までマイルのことを考えていなかったのでノースウエスト、デルタ、アメリカン、ユナイテッド、コンチネンタルと航空会社を一本化してきませんでした。で、アメリカンとユナイテッドを主に使おうと決めて2年になります。考えてみれば4回の往復で年末(なぜかnon-peakシーズン)の1回の帰国ができる計算です。つまり一回の帰国で平均8万円として、32万円で5往復、一往復あたり6万4千円です。…しかし、改めて計算してみると結構、カネがかかっているものですね。僕の場合、車も持たない貧乏生活で浮いたカネ(年間約3千ドル)の多くを日本帰国に費やしているということです。帰国しなければいけない事情もありますが、まあライフスタイルの問題でしょう。
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7月29日(金)の夜
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この8月にPh.D.を取得し、就職のためオースティンを離れる日本人の友人に「博士論文完成の秘訣」はとたずねれば、「そんなのは簡単。博士論文だけすること」とのことでした。社交を一切断ち、できればTAもしないで、山寺に篭るつもりでやれば上手くいくとのこと。特にTAはその仕事だけで一日の達成感を味わえてしまうことが問題なのだとか。これは本当にその通りだと思います。僕はあまり友だちは多い方だとは思えませんがそれでも「山寺に篭る」ほどではありません。不安に対処するには、その不安の原因に真剣に取り組むべきだと思います。きっと「しなきゃいけない!」と思う一方で「しない」のが不安を生むのでしょう。もっと孤独を愛さねば。
アパートの契約更新の件ですが、納得のいかないことに今回新たに新しいマネージャのもと、契約し直しになりました。しかも家賃5ドルアップの410ドル。前のマネージャがくれたオファー(405ドル)の書面をコピーして手元に置いていたのですが、それには日付が無い上、契約書じゃないから無効だと言われました。出るとこに出たら何とかなりそうなものですが、5ドルアップというのが微妙なところで結局泣き寝入りしそうです(50ドルアップなら話は別ですが)。それにしてもむかつくなあ。僕には何一つ落ち度など無いはずなのに。早く日本に帰りたい…。
今晩はこれから、最近500ドルで車を買った「第三の漢」ことW氏とともに、東海岸の大学への就職のためオースティンを去るアメリカ人の先輩のお別れ会に行ってきます。日本のビールでも買って行こうか。
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7月30日(土)の夜
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昨夜のパーティではいろいろと学部の人の近況が聞けてなかなか楽しかったです。同級生の韓国人はソウルの研究所で1年間のポジションが見つかったとかで、10日後にオースティンを離れるらしいです。また同時に彼の奥さんの妊娠がわかったようです。これで僕と同期の東アジアからの留学生は6人中3人が何らかの形でオースティンを去ることになります。まあもちろん彼の場合は博士論文を仕上げるべく来年は戻ってくるみたいですが。あと8月にPh.D.を取得した韓国人の先輩もソウルの大学で講師の職が見つかったり、12月にPh.D.取得予定のアメリカ人の先輩もノースカロライナ州の大学に職が見つかったとか。僕には相変わらずこれといった進展がありません…。
前にも書いたとおり結局時差ぼけです。昨夜も朝5時半に寝て午後2時半起床。これはつまり日本時間の午後7時半〜午前4時半で、相変わらず日本時間で生活しているようなものです。きっとついいつも「今日本では何時かな」と、日本時間を意識して生活しているのが悪いのでしょう。早く何とかしたいものです。
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