2005年11月の日記
11月1日(火)の夜

 今日はTAのクラスの試験でした。範囲はゲーム論のパートの前半で、``rationalizable strategy''まで。例年、この試験は平均点が60点台まで落ちるのですが、今回は過去2学期分の試験を公開したり、若干問題を簡単にしたためか、平均点が80点近くになりました。前回も75点くらいと高かったので、成績がインフレを起こすのでは!?とびびっていたのですが、前回と今回をトータルで見たところ、90%以上の得点(つまりA)の学生が全体の約17%とまあ良いくらいに収まっていました。これはどういうことかというと、前回と今回の試験での点数を散布図にプロットしてみたらわかるのですが、両者にあまり相関が無いということです。つまり前回の試験で高得点をした学生が今回の試験で必ずしも高い点数を取っているわけではなく、その分点数が相殺されて、平均点は依然として80点近くと高いものの、「裾野」が短くなったようです。前回は公共選択論で今回がゲーム論なので、まあ相関があまり無くてもあながち不思議とも言えません。

11月3日(木)の夜

 今日は少しだけ、民主党の学生組織と共和党の学生組織による「同性の結婚」についてのディベートを見てきました。論点としては当然予想通りのもので、共和党側が保守の立場から、「ゲイの結婚はアメリカの伝統的価値に反する」と主張すれば、民主党側はリベラルの立場から「それは要するにユダヤ・キリスト教的価値観であり、政教分離の観点から容認できない。ゲイ同士のカップルもアメリカ市民として正式に婚姻を結ぶ権利を有するべきだ。結婚に関する考え方は変化してきている。昔は人種間の結婚も認められていなかったが、今では容認されている。両性の間の結婚も同じことだ」などと反論します。このディベートはもともと民主党学生組織の側から共和党学生組織の側にもちかけたもので、聴衆もほとんどが民主党支持者。拍手することも認められていたので、民主党側の主張の後には大きな拍手、共和党側の主張の後には沈黙と何となく「袋叩き」の感があり不公平でした。聴衆の顔ぶれもゲイが多いような気がしました。フラタニティやソロリティのTシャツを着ている人は一人もいません。客観的に見ても明らかに民主党側が優勢で、共和党側はせいぜい「結婚が全ての市民に与えられた平等な権利と言うのなら、じゃああなたは犬や猫との結婚も認めるのか?親兄弟との結婚も認めるのか?複数の人間との結婚も認めるのか?」と屁理屈っぽい批判をするのみでした。
 理論理屈で言えば、こういう討論はリベラルの側が勝つのに決まっています。いつだって「人間は権利において平等」という保守でも抗うことのできない民主政治の「公理」とそこから合理性によって導かれる結論はリベラルの意見を支持します。それに対して保守の側は要するに日本でもアメリカでもどこの国でも、「昔からあるものを守る」というのが基本的立場であり(例えば日本なら天皇制、アメリカなら合衆国憲法)、特に合理的な理由の無い伝統に関してはもう「伝統だから」として擁護する他ありません。こうした立場は理性的な観点から言えば、単なる偏見や迷信にしか過ぎません。しかし人間は完全に合理的な存在ではないので、議論は合理的でなければ受け入れられないというわけではありません。だから今回のようなディベートでは保守側は、無理にリベラルの「理論理屈」の土俵に乗るのではなく、思い切って「ゲイは不自然だ」とか「ゲイはきもい」とか「聖書ではゲイは禁じられている」などと非合理的な主張をバンバン言って、人々の直感に訴えかければ良いのです。理屈では「ゲイの結婚は仕方が無い」と思っていても、心のどこかに「でもそれは間違っている」と思っている人はたくさんあるはずです。まあでも穏健で常識的で理性の世界に生きている保守はまだまだこんなことは言えないのでしょう(きっと宗教右翼やパット・ブキャナンなどゴリゴリの保守ならけろっとした顔で平然とこれらのことを言ってのけるでしょう)。まあある意味リバータリアンやアイン・ランド関係者のように涼しい顔で「貧乏人がいるのは世の中が平等で正義が達成されてる証であり、望ましいことだ」などと世間の大多数から嫌われるようなことを言えるようになってしまえば、政治に関わる者として終わりですが(ちなみに彼らの考えに従えば、人間は能力がそれぞれ違うのだからその能力に応じて取り扱いを変えれば結果不平等で落伍者が出るのは当然のことであり、逆に能力が違う者を同じに扱って結果の平等を達成してしまうのは不自然であり不正義)。

 政治における合理性と非合理性という観点から言えば、非合理性が圧倒的に強い例として政党帰属意識および政党支持が挙げられます。政党帰属意識は特定の政党への感情的な愛着心であり、人間の政治意識の不合理的な側面を表し、他の政治的態度に対して強い規定力をもちます。例えば、ある有権者にとって社会的、経済的争点において考えの近い候補者AとそうでもないBがいるとします。この場合、もしこの有権者がAに投票すればそれは合理的であり、反対に後者に投票すればそれは非合理的であると言えます。しかしもし候補者Bがこの有権者の支持する政党に所属していたなら、その有権者は候補者Bに投票することが往々にしてあるのです。アメリカでは中絶賛成で福祉賛成なのに共和党に帰属意識をもっている人(この帰属意識はたいてい家族から引き継がれる)は共和党候補者に投票したりするのです。この感覚は日本ではあまり馴染みの無いことかもしれませんが、それでも僕なんかの場合は、僕の政治的選好を所与として理屈で考えれば明らかにありえない政党に常に投票しているので、合理性を超えた政党支持の規定力というのは個人的に非常によくわかります。
 日本人にとってもう少し感覚的に分かりやすい例で言えば、内閣に対する評価があります。もしある有権者が非合理的な党派性の影響を受けず完全に合理的な判断を下しているのなら、与党がなんであれ内閣の経済、政治、外交などの分野における業績だけで評価を下すはずです。しかし実際には、こうした業績評価を考慮した上でもやはり自分の支持する政党が与党の場合はその内閣を高く評価する傾向にあるし、野党の場合は内閣を低く評価する傾向にあるのです。また有権者が完全に合理的であるなら、そのときどきの政治状況、経済状況、国際環境に対応して内閣支持率は激しく変動するはずです。しかし実際には内閣支持率はそれなりに安定していて、環境の変化というランダムなショックに対しても直接的に影響を受けず、いわば政党支持が「重石」となって急激な変化をみせません。
 と、ちょっと単純化しすぎた議論を上でしたので、研究面で補っておくと、政党帰属意識、政党支持が基本的に心理的で非合理的なものであるとはいえ、それをもつに至る経緯に合理性が無いわけではありません。やはりその政党の業績を評価した上で、その支持を決めたり、強めたりするのです。ただし習慣として一旦党派性を獲得してしまえば、それは単なる理屈を超えてその党の候補者や内閣に対して好意的な感情を抱かせます。内閣支持の場合、少々経済政策や外交政策で不手際があっても与党を支持している人は「大目に見る」というわけです。また政党支持に従って投票するのは完全に不合理的かということに関しても議論があります。近年の研究では「低情報合理性」ということが言われていて、つまり候補者の主張や政治的な制度や法案の中身を詳しく知らない有権者が、自らの選好に最も適った候補者に「正しく」投票する上で、政党ラベルは役に立っているというのです。すなわち、政党支持を利用することによって、少ししか情報を持たない有権者があたかも全ての情報をもっているかのように投票できるのです。そもそも有権者は政治に関する多くの情報をもたず「合理的ではない」のではなく「合理的にはなれない」のであり、それゆえ非合理的な要因としての政党帰属意識が重視されてきたわけですが、この議論はこうした有権者の「合理性」を巡る論争に一石を投じたわけです。

 あと月曜日にまたしてもアパートの近所で殺人事件が起こりました。今学期に入って二人目です。まるで『名探偵コナン』の世界に住んでいるかのようです。殺されたのは学部の4年生で、どうやら強盗とかではなく、誰かに狙われて殺されたようです。凶器は拳銃で、現場からは大学生らしき二人組の男が逃げるのが目撃されていますが、まだ捕まっていないようです。まあこれらの殺人事件は通りすがりとか金目あてで起こったものではないので、僕の身が危ないということは無いと思いますが。

11月4日(金)の夜

 先日の日記でebayは二度と使わないと書いたのですが、実は性懲りも無くそれ以降もやっていました。今日届いたのはUTの古着のスウェット。これまで僕は何度もUTのスウェットに満足のいくものが無いと文句を言ってきたのですが、これには大満足です。当然現在では見たことの無いデザインで、良い感じに古着っぽさが出ています。無名のメーカーですが状態も良好だしサイズもばっちり。値段もたったの5ドル99セント+送料。やっとめぐり合えた一枚という感じです。

11月5日(土)の夜

 今学期に入ってから毎週土曜か日曜の昼は、近所の中華料理屋に通っているのですが、今日はチャーハンを注文しました。しかし、あまりおいしくはなく、謎なことにほとんど生のブロッコリーとレタスが混ぜられていました(ただしアメリカの中華料理店ではブロッコリーがチャーハンに入っているのは珍しくありません)。何かいかにも家で冷蔵庫の余りもので作りました的です。この店の名前は「燕京」で、これは昔の北京の名前なので、中国のこの地方ではレタスをチャーハンに入れるのかと一瞬思いましたが、この店は明らかに韓国人経営です(関係ありませんが、この店はいつも日本の歌謡曲のインストゥルメンタルが流れていて今日は沢田研二でした)。
 オースティンでチャーハンがおいしいといえば、何と言ってもDinghoというレストランです。僕は別に日本でもアメリカでも高級中華を食べたことはありませんが、このレストランは僕が今まで行った中華料理屋の中でもベストです。もはめど夫妻がオースティンにいたころにはよく彼らに連れて行ってもらったものです。でもここはバスで行くのはほとんど不可能。なのでまたいつか誰か連れて行ってください。

 それにしても暑くてイライラします。日中は夏と同じです。夜8時でも気温摂氏24度。下の中期予報なんてあり得ない(単位はもちろん摂氏)。日本の秋が恋しいです。早くテキサスから脱出したい…。

11月7日(月)の昼

 この週末は博士論文のことをしなくては!と思っていたものの、博士論文のファイルを開きつつ、ずっと小熊英二『民主と愛国』を読んでいました。これまでもちびちび読んでいたのですが、「早く続きが読みたい!」との思いに負けてしまって、「今一気に読んでしまって後は勉強に集中しよう」という言い訳も思いついたので、この電話帳のように分厚い本を、寝食やトイレも忘れて15時間くらいかけて一気に読んでしまいました。いやー、すごい本です。決してエンターテイメントではないものの、ハラハラドキドキだし、戦後史に関して疑問に思っていたことが次々に氷解していきました。著者は、あまり自分の主観や主張は交えず、凄い膨大な資料を積み重ねて議論を構築しており、圧巻です。西尾幹二『国民の歴史』で主張されていた「戦後民主主義は大正時代の教養主義の焼き直し」という主張がいかに浅薄かというのが理解できました。主張の是非はともかくとして、いわゆる左翼系の学者は保守系の学者に比べて良く勉強していると思います(扶桑社の「新しい歴史教科書」にしても、イデオロギーと関係ない部分で、歴史的事実に関する誤りが散見されます)。この本で描かれている戦後に時代と格闘した知識人や一般の人々のことを思うと、時に感動で胸がつまります。特に僕の生まれ育った京都はこういう時代の「臭い」が色濃く残っている場所が所々あり(この本では京都のことはあまり出てきませんが)、そういう具体的な景色を思い出しながら読み進めていました。こういう読書体験は僕の人生でアイン・ランド『水源』(これまた電話帳のように分厚い)に次いで二回目でした。

 ところで先日、去年の夏のヴァージニア大学のセミナーで少し話したことのある、カンボジアのプノンペン大学の博士課程の学生からメールが来て、「今、ペンシルベニアでネット関連のビジネスをしている」とのこと。彼は地味で、英語もあまり話せず、いつも一人でいるなど一言で言って「根暗」な印象を受けたので、正直彼がビジネスをしているなど想像できませんでした。それでも一応当たり障りのない返事を書くと、今度は「あなたととても大切な話があるから電話番号を教えてくれ」とのこと。何だか、たまに来る「アフリカのどこどこの国の元皇太子で…」的な怪しげなSPAMによる投資話のような印象を受けました。なのでなんとなく怖くなって、あえて無視することに。謎です。

11月9日(水)の昼

 7月に日本で髪を切って以来、伸ばしっぱなしだったので、そろそろ鬱陶しくなってきました。当初は12月の帰国まで切らない予定だったのですが、もう我慢できません。とはいえ、アメリカの散髪屋のレベルは知れているので、例え10ドル少ししかかからなくても行きたくはありません。ということで、バリカンで自分で刈ることに。一時期はバリカンにはまっていて、3週間おきくらいに自分で丸刈りにしていたのですが、日本に帰ってみるとやはりこの年齢で丸刈りなのは何となく社会不適合者っぽくて(ていうかある意味社会不適合者で間違い無いのですが)、周囲にいらん不安を与えるような気がするので控えていました。でも今回は、完全な丸刈りではなくてトップを少し多めに残すよう試みます。とはいえアジャスターは13mmが最長で、これでもまだ僕にとって短すぎるくらいです。サイドと後ろを9mmにしてトップだけ13mmというのではサイドが薄すぎる気がするのです。なので、とりあえず横と後ろを13mmでやった後、トップはそれよりも長くするためアジャスターを地肌に着けずに、軽く髪の毛の外側をなでるようにやりました。しかし、結局どうなったかというと、トップにムラができて、何か不健康というかこれはこれで周囲を不安にさせる髪型になりました。もう仕方が無いので、一気に普通にトップも行くことに。結局、通常の13mmの丸刈りになりました。今はまだ何だかおかしいですが、まあ12月に日本に一時帰国する際には、日本社会でもおかしくない程度には伸びているでしょう。それにしてももう少し長いアジャスターが欲しいです。16mmのもあるようですが、どこに売っているのか。
 このことに少し関連して、僕は日本にしょっちゅう一時帰国するものの、それでもアメリカにいる期間の半ばごろには、日本の感覚からアメリカの感覚になってしまっていると思うことがあります。例えば、この丸刈りにしても日本にいるときは「バリカンで自分で丸刈り?小学生でもあるまいし」という気持ちで満々ですが、アメリカに戻って2、3ヶ月もすると「まあ合理的でいいかも」となるわけです。その他に、帽子とかでもアメリカではカッコイイと思っていた、ミリタリーキャップ(最近ハリウッドのセレブの間で流行っているらしい)も日本に帰ればタダの人民帽だし、これぞテキサス!イケてる!と思っていたラングラーのスリムジーンズも日本に帰ればタダのオタクジーンズです。アメリカで買った結構上等なウォーキングシューズも日本に帰れば単なるおっさん靴です。僕はそれでもしょっちゅう帰国して、日本の感覚をギリギリキープできているものの、アメリカにずっと住んでいる日本人なんかだと知らず知らずのうちに感覚が完全に日本からアメリカになるのだろうなあ、と思います。僕としてはこういう服飾関係で、日本がアメリカに見習うものなど何一つ無いと思うのですが(日本で言ういわゆる「アメカジ」も日本人がアメリカの衣料を使って発明したものです)。

 昨日は、あることがきっかけで現実逃避も兼ねて、ネオコンとアイン・ランドの思想の違いについて考えていました。両者は非常に酷似しています。両方とも「善悪二元論」だし、エリート主義だし、ヒロイズムが漂っています。ランド=右翼というイメージがあるのも、陸軍士官学校の卒業式に呼ばれて「アメリカは世界の歴史において唯一道徳的な国」と述べたり、また「ソ連の共産主義は悪で、アメリカは善だから、遠慮なく叩け」とレーガンよりも20年以上前に主張していたからです。今回のイラク戦争に関してもアイン・ランドの遺稿管理団体であるAyn Rand Instituteは公式にイラク戦争賛成の立場を打ち出しているし(代表者は何ならイランもぶったおせと言っている)、多文化主義を徹底的に攻撃します。こういう点ではネオコンよりも過激なくらいです。ある論者などは、これはネオコン知識人もアイン・ランドも亡命ユダヤ人である、という部分に起因すると言います。そういえば、同じく亡命ユダヤ人のハンナ・アレントも『革命について』(On the Revolution)で、アメリカ革命のフランス革命やロシア革命に対しての道徳的優位性を説き、アメリカがソ連と冷戦を戦うことの意義付けを間接的に行いました。
 で、それでもネオコンとランドの違いとして考えたのは、「合理性の重視」ということです。ランドの思想の核心は要するに、「合理的であるものは美しく、善である」ということです。経済学や政治学で用いられる合理的選択論をそのまま規範論にしたものと言えるでしょう。すなわち「人間は合理的である」や「人間は自分の利得を最大化するように行動する」ではなく、「人間は合理的であるべきだ」であり「人間は自分の利得を最大化するように行動すべきだ」ということです。また、ランドは理性は人間の共通の能力と見ることから、お互いが合理的であれば価値判断においても同じ結論に至ると主張し、そこから客観的な価値判断は可能であるとします。基本的にゲーム論では、例えば「プレイヤー1は、プレイヤー2が結果Aに利得5を感じているのを知っている」などと互いの選好がお互いに共通認識されているなどという前提がありますが(そういえばこのへんの証明みたいなのも経済学部のゲーム論の授業の最初でやりました)、いわばランドはこれを前提ではなく「そうである!」と主張しているのです。
 それに対してネオコンはそれよりももっと宗教がかっていて、「合理性」などといった比較的客観的かつ明確な、少なくとも理論的に量に換算できる価値判断の基準をもっていない気がします。ARIから派遣された講師が言っていたのは、合理性に従って正しく自分(自国)の利益を把握し、そのために最善の手を打つべきであり、その観点からしてイラク攻撃は正当化できても、イラク占領は割に合わないということです。ネオコンはイラク撤退にしても明確な基準を考えていなかったし、愛国心だの非合理的な要素を強調しすぎるように思えます。戦争を始めるにしても、終わらせるにしても「それが割に合うか、合わないか」という形での議論はあまり見られません。つまり理念先行で、ほとんど信仰です。ランドもカルト宗教のように言われますが、少なくとも理性を重視するという点で、一般的な意味の宗教とは対立するはずです(現に、キリスト教批判はARIによって盛大に行われています)。ネオコンにとって合衆国憲法はほとんど信仰の対象ですが、ランドがアメリカ建国の精神を擁護するのはそれが合理的で、個人の利己心を肯定するからでしょう。したがって、ランドの思想でもってネオコンの思想を批判することも可能だと思います。
 あとこれは印象論ですが、"Ayn Rand Society"のミーティングの参加者の顔ぶれを見ていると、共和党系学生団体よりも、むしろ民主党系学生団体に近い気がします。ヒスパニック系やインド系が多いし、白人にしても非WASPが多いと思います。つまり決して、ネオコンのような国家エリートではなく、市井で真面目にがんばる頑固者の庶民という印象です。 ネオコンの思想は国家にあまり関わりのない個人の生き方に関して何か指針を与えてくれるものではありません。
 とはいえ、僕も指摘されて気づいたのですが、ネオコンとランドの思想は恐ろしいくらいすごく似ています。

11月13日(日)の昼

 昨日は朝突然、「村上春樹の小説が読みたい」と思い立って、大学の図書館で『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を借りてきました。バカ売れした『ノルウェイの森』の一つ前に書かれた作品で、村上春樹の小説の中で評価が最も高いものの一つです。僕が村上春樹を初めて読んだのは18歳だった大学一年のときでした。当時好きだった女子が読んでいると聞いて試しに『ノルウェイの森』を読んで見たのですが、感想は「何じゃ!?彼女は真面目な顔してこんなエロい小説を読んどるんかっ!?」というもので、中身よりも何もそれが衝撃的でした。それに、高校時代、昼休みには三島由紀夫の美学について論を熱く戦わし、田山花袋が布団に女弟子の残り香を求めたのに共感した、恋愛に関しては常に玉砕主義の同級生たちがあれだけ恋愛でもがき苦しんでいたというのに、なんで村上春樹の主人公はクールで友だちいないくせに女子にはこんなにモテるのか!?なんで苦労も無く女子をゲットできるのか!? なんで会ったばかりの女子とすぐにネンゴロになれるのか!? あれから約10年。僕にも色々ありました。彼女いない率95%の男子校特進Bクラスという温室から出てきたばかりの自分ではありません。
 …しかし、今回読み進めていくうちに第一に感じたのもやはり「なんでこの主人公はこんなに女にはモテるのか!?」というものでした。進歩がありません。おそらく僕は心からこのテのキャラクターが嫌いで憎んでいるのでしょう。その意味で僕がリスペクトするのは布袋寅泰です。以下の歌詞を見てください。

腹を空かした狼の気持ち忘れるなよ
熱いヤツほど馬鹿をみる嫌な時代
だからこそ誰にも真似の出来ない
生きざまを見せてやれ
クールな眼差しで



どうせ見るなら魂で夢を見ろ
笑うヤツラは笑わせておけばいい
マジなヤツほど馬鹿を見る嫌な時代
だからこそ誰にも真似のできない
笑顔を見せてやれ
ワイルドをばらまいて

布袋寅泰"Russian Roulette"

これぞ「男」と言う他ありません。同じクールでも村上春樹のクールとは訳が違います。しかし、世間の多くの女子はどうもこういう「熱い漢」とか「男の美学」が嫌いなようです。僕はいつかこうした風潮やそれに迎合する村上春樹の主人公に反して、虎舞竜のボーカルのようにカッコよく革ジャンを決めて男臭くなりたいと思います。
 またもう一つ村上春樹の小説を読んでいて思うのは、よく指摘されることですが、食べ物がおいしそうだということです。特に以下の文章なんかは留学中の身にはこたえます。

 彼女を待つあいだに、私は簡単な夕食を作った。梅干しをすりばちですりつぶして、それでサラダ・ドレッシングを作り、鰯と油あげと山芋のフライをいくつか作り、セロリと牛肉の煮物を用意した。出来は悪くなかった。時間があまったので私は缶ビールを飲みながら、みょうがのおひたしを作り、いんげんのごま和えを作った。それからベッドに寝転んで、しばらく天井を眺めながら古いレコードを聴いた。

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

僕は酒は飲まないのにこう書かれるとビールまでおいしそうに感じてきます。とまあこのように、村上春樹の小説は性欲と食欲に訴えかける小説だと思います(←他にも感想はあるだろうに…)。

 そういえば先週は、ブッシュ政権の初代報道官(Press Secretary)のAri Fleischerの講演に行ってきました。まあ基本は彼の生い立ちや政権の裏話といった感じでした。彼は「大量破壊兵器は無かったのではなく、隠蔽され、破壊された可能性がある」や「大量破壊兵器が仮に無かったとしても、あるという証拠が当時あったし、少なくともフセインにはそれを持とうとする意思があったのは明白なのだからイラク攻撃は正当化される」や「現在イラクで死者が出ているというが、フセイン政権はそれ以上多くの人々を毎日殺していた」などと平然と主張するあたり、さすがにブッシュの忠実な犬という印象を受けました。彼は大学卒業後、一貫してさまざまな保守政治家の広報担当としてキャリアを築いてきており、まさに政治家ではなく政治屋とでも言えるでしょう。それだけにユーモアを交えて「聞かせる話」をするし、講演後の質疑応答の受け答えも実に見事なものでした。ちなみに彼の両親は熱心な民主党支持者で、息子について聞かれた新聞のインタビューで、「共和党員であることは、ドラッグディーラーであるよりはマシだ。ただしほんの少しだけだがな」と答えたそうです。ちなみに彼の上記の主張に対する拍手はだいたい常に会場の3分の1といったところでした。

11月16日(水)の夜

 反戦団体のメーリングリストで告知されていた、イラク帰還兵のUTの学生の話を聞こうみたいなイベントに行ってきました。聴衆は20〜30人と思ったよりも少なめ。帰還兵は三人で、全員が白人。心理学の学部生、中東研究の大学院生、公共政策の大学院生でした。こんなイベントに出るくらいだから、超反戦なのかと思いきやそうでもなく、ある意味イラク戦争に参加する非職業軍人の本音みたいなのが聞けてよかったです。ただし彼らは帰還兵と言っても、実際に戦闘に参加したわけではなく、占領地での行政職や輸送任務に就いていた人たちのようで、要するに戦争の「地獄」を見たわけでもなく、比較的安全な任務に就いていたようです。
 印象に残ったこととして、そのうちの一人は「イラクで、新聞やテレビなどアメリカのメディアによるイラク報道を見ているとウソが多いことに気づく。彼らはイラクからの悪いニュースばかり報道して、良いニュースは全然報道しない。報道を見ると自分が今いる所が地獄のようだが、実際窓からの眺めは平和そのもので、報道とのギャップに驚く」と言っていました。これに対して会場から男性(ちなみに彼はリバータリアン党VS緑の党の討論会で、リバータリアン側で演説していた人で、アイン・ランド協会のミーティングの参加者でもある)が手を上げ、「あなたが言うようにマスメディアの報道にリベラルのバイアスがあるとして、あなたが普段接していた軍隊内部での情報にもおそらくバイアスはある。真実はその中間にあるように思われるが」と指摘していました。さらにこの手を挙げた男性は続けて、「われわれはメディアを通してしかイラクの情報に接することは出来ないが、実際、イラクの人々はアメリカ軍をどう見ているのか?侵略者かあるいは解放者か?」とベタな質問をします。これに対して帰還兵の一人は「イラク人は実際、アメリカ軍が侵略者か解放者かなんか関心が無い。彼らはただカネが稼げれば何だって良いんだ。」と答えます。これは、真実を突いているようで、一方で非常にイラクの民衆をナメた発言であります。会場の人々はこの発言に違和感を感じつつも、実際にイラクに行った人がそう言っているのだから反論はできません。この会ではこのような種類の妙な違和感(政治信条から聴衆のほとんどが疑問に思うような帰還兵の発言も、彼らが「イラク帰り」であるという理由で批判できない)が常に漂っていました。一種の「帰還兵無誤謬」状態です。
 また別の帰還兵は聴衆の「イラク市民がアメリカ人によって殺される場面を見たことがあるか」との質問に対して、「自分は見たことは無いが、そういうことが起こっているのは知っている。ただ実際イラクでは誰が戦闘員で誰が市民か区別がつきにくい。戦闘員も普通の市民に紛れているし、昼は市民で夜は戦闘員というケースもあり得る。だから結果として市民を殺害してしまうのも仕方が無い側面もある」と言っていました。これは戦争において侵略した側がほとんど必ず直面する問題です。旧日本軍もいわゆる「南京大虐殺」で似たような状況に直面しました。「南京大虐殺は無かった」派は「『虐殺』の原因は、戦時国際法に反して降伏の後、投降せずに戦闘服を脱ぎ捨てて南京市民に紛れ込んだ中国軍にある。日本軍は安全確保のために市民を検査し、疑わしい場合殺す必要があった」などと主張したりします。この言い分からは、「ではなぜそもそもその軍隊がその場所にいなければならなかったのか?」という問題が欠落しています。
 総じてこの帰還兵たちはイラク戦争に肯定的であり、「アメリカはイラクのために良いことをしている」と信じているようでした。「イラクの人々が今一番求めているものは何か?また一番恐れているものは何か?」という質問に対しても「彼らが求めているのはただ安定だ。アメリカ軍がそれをイラクにもたらしている。もし今アメリカが撤退したら混乱しか残らないだろう。また彼らが今恐れているのはフセインのような独裁者が再び現れることだ。」と答えていました。彼ら帰還兵は要するに世界の人々に自由とデモクラシーを広めることを正義とする偽善的ないわゆる体制派リベラルのようでした。それに対して、聴衆のほとんどは見た目にもわかりやすい反戦デモにいそうな左翼風で、彼らのほとんどが何かしら今回のイベントでモヤモヤしたものが残ったのは想像に難くありません。
 あと、三人の帰還兵も聴衆もみんな「しゃべりたい」人が多く、何だかうんざりしました。一旦話し出すと長いし、なかなか終わりません。また聴衆の中には講演の最中だというのに、「ビラの印刷ができたからこれを○○までに配ってくれ」とばかりに、印刷物を渡しつつヒソヒソ話をする70年代風のジャケットに長髪の活動家風情(お前らは帰還兵の話を聞くよりも、こういうイベントを企画するのが楽しいだけちゃうか!?)や、途中何度も会場を出入りするこれまた活動家風情の白人カップル(お前らは反戦とか訴える自分が好きで、そういう自分に酔っているだけちゃうか!?)とかが目立って、ムカつきました。僕は日本でもこういう左翼系政治イベントのオーガナイザーがあまり好きではありません。

11月19日(土)の昼

 最近はEITMのクラスの宿題に追われています。昨日に提出があったかと思えば、月曜にも提出があります。内容は時系列分析の共和分関係のこととか、フォーマルモデリングのrational expectation、adaptive expectation、learningとかそのへんのことをやっています。宿題はUT政治学部にしては珍しくグループ単位でやるものなのですが、これが何ともストレスがたまります。僕以外の二人のメンバーが全然やらない、というかおそらくできない。まあ僕自身の勉強なので別に僕ばかりががんばるというのには問題ありません。問題は、僕もそんなに大してできるわけではなく、自分の解答に多々疑問があるのですが、彼らに相談したところで何の解決にもならないということ。つまりグループ学習のメリットが全く無い。おそらく僕が例えば経済学部でこの種の授業を取ったら、落ちこぼれることは必至でしょう。でも少なくともグループの作業のプレッシャーから、わからないなりに勉強して貢献しようとすると思います。でも彼らにはそういう学習意欲も無いのでは、と思ってしまいます。別に人間関係とか協調性を学ぶのが目的では無いのだから、大学院レベルでのグループ学習にはほんと疑問に感じます。

 昨夜は、UTのundergraduateの"Japanese Association"の野外での「秋祭り」とやらに行ってきました。Japanese Associationといっても、UTのundergraduateには日本人留学生は非常に少ないので、メンバーの8割方は日本に興味のあるアメリカ人かアメリカ生まれ/育ちの日本人といったところでした。僕は手伝いで、経済学部の某先生らとたこ焼きを焼いていたのですが、なかなか上手くいかなくて往生しました。極めるためにたこ焼き機を購入しようかと思いました。
 その後2次会なのか、打ち上げなのかダウンタウンのクラブでパーティがあり、おっさん過ぎて場違いなのは承知で某先生らと共に行ってみることに。めくるめく世界です。一つのアジア系の学生団体がこの種のイベントを催すと、他のアジア系団体からもたくさん人が集まるようで、フロアはアジア系(おそらく留学生ではなくアメリカ人)の若い男女がくんずほぐれつで踊っています。普段はスウェットにジャンスポのバックパックであろうアジア系の女子も、目一杯おしゃれして露出の高い服を着ています。こういう「クラブで踊りまくる」というのは、アメリカの学生の一般的な週末の楽しみ方の一つではあるのでしょうけど、僕は正直こういうのは楽しいとは思わないし、実際どうかと思います。保守的な僕としてはミニスカ、ローライズ、ヘソ出しなど全く良いとは思えません。むしろ見ているとセンスの無さにムカつきます。これはジェネレーションギャップなのか、それともカルチャーギャップなのか。彼らの親御さんたちはどう思っているのでしょうか。こういうのを見ると僕は将来、自分に娘が出来たとしても留学させるのはどうかなーと思ったりもします。某先生は何やらニタニタとうれしそうでしたが。

11月23日(水)の夜

 相変らず低調な毎日。ここ数日はEITMのクラスの宿題と、TAのクラスの試験問題の作成の他は、ずっと図書館で借りた日本の小説を読んでいました。するべきことは一向に進まず…。ネガティブなことはこのHPには書かないと決めて数ヶ月ですが(初期の頃の日記を見てもらったらわかりますが、そのころ僕は基本的に弱音ばかり吐いており、それがこのHPの存在理由のようなものでした)、ついついそういうことを書きたくなってしまいます。
 いっそ旅行にでも出たほうが良いのかもしれません。アメリカを最終的に去る前に絶対に訪れたい場所が二つあります。一つはユタ州のソルトレイクシティ。別にモルモン教の信者ではありませんが、大昔に『なるほどザワールド』か『世界まるごとハウマッチ』で見たモルモン大聖堂をこの目で見てみたい(そういえば後者の番組に出ていたケント・ギルバートもケント・デリカットもモルモン教徒です)。もう一つはロードアイランド州プロビデンス。中学の頃から愛読している怪奇小説家のH.P.ラブクラフトが生まれて、人生の大半を過ごし、亡くなった街です。ラブクラフトは主に1920年代にパルプ雑誌に執筆しており、その作品のほどんどが人種差別、優生学、偏執的な海嫌いに彩られた低俗なものですが、後世に与えた影響は大きく、スティーブン・キングを初め日本人を含めた多くの小説家、およびホラー映画に類似したものが見られます。現在ではラブクラフトに関する博士論文もあるようだし、プロビデンスにあるブラウン大学にはラブクラフト文庫なるものもあるようです。彼の小説は表現が独特で、「冒涜的な角度」とか「非幾何学的な直線」とかわけの分からないけど何だか禍々しさを覚えるものであり、いちいち胸を躍らされたものです。彼の世界観は非常に非キリスト教的なもので、人間に好意も悪意ももたないし知能も低い「白痴の神」よってこの世界は作られたのであり、従って人生に意味などなく、その神の気まぐれ次第ではすぐに終わってしまうようなものです。全く正反対と言っても良いですが、僕はどうしてもこのラブクラフトが哲学者のカントに重なるのです。二人とも独身を貫いて、基本的に生まれた街を終生離れなかったというだけかもしれませんが(カントはケーニヒスベルクで生まれ、死にました)。

 今日は目覚ましを7時にセットしたはずなのに、起きるとすでに11時。外は快晴でおそらく摂氏25度くらい。ひどい罪悪感に苛まれながらも起床し、セロリ、にんじん、トマトの朝食をとった後、12時半に友人と待ち合わせて大学近くのカフェへ。キャンパスもカフェもサンクスギビング前日で、閑散としており、気兼ねなく5時間近くその人と会話。非常に抽象的で、ある意味目的の無い会話でしたが、久しぶりに人と長時間話をするということだけに徹してすっきりしました。その後、アジア系のスーパーで、明日のサンクスギビングパーティにもっていくためのちらし寿司のための「すし太郎」と「むき海老」を購入。帰宅後、ごはんと温野菜とサーモンの簡単な夕食をとり、ベッドに寝転びながら、相変らずクールな主人公のモテぶりにムカムカしながら村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んでいると、眠くなったので30分ほど夕寝。起きてシャワーを浴び、またお腹が空いたのでサンドウィッチを作ろうと思うもパンが無く、歩いてセブンイレブンへ。パンとテレホンカードとコーラを買って、コーラを飲みながら帰宅。気温も良い感じに下がっていて、パーカー一枚で爽快です。東京で一人暮らしをしていた頃を思い出しました。アパートに帰るとさっそくチキンのハムとレタスをライ麦パンで挟んでサンドウィッチにし、ハーブティと一緒に食べる。そしてまた読書。村上春樹を読み終え、現在に至ります。午前3時。
 完全にどこかおかしいです。僕が大学時代忌み嫌っていた、一人暮らしの自堕落な大学生の生活パタンです。ちょっと前までの僕はこうではなかったはず。もっと規則正しい生活を送り、やるべきことをやっていたはず。罪悪感がふつふつと沸いてきます。そしてなぜだか日本や人や色々なものが恋しい。明日の朝はJack in the Boxでジャンクな朝食を摂るべく早起きしようと思います。

11月25日(金)の夜

 昨日のサンクスギビングのパーティでは、ハリバートンの子会社のKBRの社員としてイラクのファルージャにいたというアメリカ人に会いました。ファルージャといえばイラク戦争の激戦地の一つで、民間人の殺害があったとか、国際法で禁じられている生物兵器の使用があったとか噂されている場所です。彼に先日の講演会でイラク帰還兵の言っていた「イラクはメディアが報道するほど悪い所ではない」との感想について意見を求めると、彼は「いや、メディアが報道するよりもよほどひどい」と全く逆のことを言っていました。戦闘終了直後に入ったファルージャの街は焼け野原で、彼の住んでいたキャンプにはほぼ毎日ロケット弾が打ち込まれていたそうです。彼いわく「ハリバートンはメディアが報道しているよりももっと邪悪だ」とのこと。彼が基地で働いているKBRに半ばだまされて連れてこられたフィリピンやネパールなどの発展途上国の労働者の悪い労働条件を見かねて、上司に彼らの待遇改善を訴えたところ、「それはお前の関知することではない。あくまでも会社と個人の契約だ」と聞く耳もたれなかったそうです。こうした労働者は「イラクに来れば給料2倍」と言われて来たのに、契約のどこかにトリックがあり、実際はそうした給料が支払われず、年間6千ドルの給与で危険な仕事を防弾チョッキなど最低限の防備も与えられずこなしているそうです。やはり先日のイラク帰還兵は、こうしたイラク戦争の「地獄」を見ていない人たちだったのかも知れません。
 また彼が憤るのは、彼の同僚だった共和党員たちの態度です。彼らはアメリカ軍の捕虜収容所での捕虜虐待などの報道に際しても、「あんなのはフラタニティのいじめみたいなもんだ」と全然問題視していなかったそうです。もちろんイラク戦争の大義など関心はなく、ただただビジネスのために来ていたとか。ここには「戦争とはそういうもんだ」というある意味現実主義的で保守的な態度があります。

 サンクスギビングのパーティに僕は、先日の日記にも書いたとおりちらし寿司を作っていったのですが、経済学部の某先生(ちなみに彼とはこの1週間で3度夕べを共にしている…)が作った鮭と鯛と鰻の本格的な押し寿司の前にはかすみまくりでした。

11月26日(土)の夜

 今学期は寝つきが非常に悪いので、何とかならないかと思っていたところ、寝酒を思いつきました。僕は全く酒を飲まないというか、飲めないのですが、酒を飲むと少なくとも余計なことを考えずにすむので。といっても缶ビール一本では多すぎますし、ワインも好きではありません。そこで自分で調節できるし、やはりアメリカにいるのですから、バーボンを飲むことを思い立ちました。早速今朝、買い物のときに物色。しかし、いつもの大型スーパーの酒売り場にはビールとワインしか置いていません。もう一軒、もう少しグレードの高いスーパーに行きましたが、ここも同様です。どうやらバーボンなどハードなお酒はスーパーには売っていない模様です。そこで仕方なく近所の酒屋へ。日本の酒屋と違って何だか殺伐としています。大げさに言えば、市民として真っ当に生活を送っていれば関わることの無い場所のような雰囲気で、タトゥー屋やポルノ屋なんかに近い気がしました。やはりこれは善いものと悪いものをきっちり分けるキリスト教の影響なのでしょうか。でもさすが専門店だけあって品揃えが豊富です。バーボンといえばJim Beamが有名ですが、それでは芸が無さ過ぎるし(って飲んだこと無いですが)、だいたい僕は味なんて分からない上、飲みきれるかどうかも怪しいので、できるだけ量が少なくて安いのが良いです。こうした基準で選んだのが、"Ancient Age"。日本でも売っているみたいです。これから毎晩寝る前にちびちびと飲みたいと思います。バーボンはストレートで飲むのが粋のようですし(ケンタッキーフライドチキンが油っこいのはバーボンのつまみだかららしい)、あるいはアメリカ人はバーボンをコーラで割ったりもよくするそうですが、僕は普通に水でかなり薄めて飲むことにします。そうして、ゆくゆくは渋いショットバーにデビューしたいものです。

11月29日(火)の朝

 土曜日にはUNTの前田さん、日曜日にはA&Mの後輩がそれぞれ僕を心配(←!?)してか、特に用事があるわけでもないのに電話をかけてきてくれました。それぞれ1時間くらい雑談、および情報交換。近年日本人でアメリカの一流大学の政治学部に就職する人がぼつぼつおられますが、現在進行中のジョブマーケットでもすごいことが起こっているようです。文句なしに一流と言われる大学から某日本人院生にオファーが出たとのこと。またテキサスの某大学からも別の日本人院生にオファーが出たとのこと。僕はアメリカでジョブマーケットに出ることは無いでしょうが、こういうのを聞くと刺激を受けます。自分が今やろうとしていることは自分では非常に新しいし、すごいことだと思っているのですが、問題はそれをできるだけの能力が僕にあるのかということ。また本当にそれが「すごい」ことなのかどうかということ。今は明らかに僕は停滞していますが、いつかは「爆発」したいものです。

11月30日(水)の昼

 オースティン日本人会のメーリングリストで、UTの中国人学生会による反日パネル展示が紹介されていたので、今日早速行ってきました。場所は昼時には多くの学生が集うモール。もっと大々的でエモーショナルなものを期待していたのですが、実際は大学の新歓における学生サークルのブースみたいな感じで、70歳くらいの年配の男性と二十歳そこそこの若い男子学生がにこやかに談笑していました。展示の内容としては前半が日本が中国侵略する経緯、およびその実態でハイライトは南京大虐殺と731部隊。後半は戦後の話で、日本が謝罪しないということと、最近の日本は軍国主義が復活しているということでした。まあ日本が批判されているわけですから、感情的には不愉快になりますが、被害者の立場にたって理屈で考えれば全体としてはリーズナブルな記述だと感じました。もちろん南京虐殺で殺された人の数が中国政府公式の30万人になっていたのは、さすがに誇張だと思いますが、大枠において日本は中国を侵略し、人をたくさん殺したというのは事実です。731部隊が生体実験をしたというのも事実です。
 日本が謝罪していないということに関しては、ドイツやイタリアの首相が戦後、当該国に行って犠牲者の墓の前で膝をついて謝ったという写真と小泉首相が靖国神社に参拝している写真が並べてありました。単純なことのようですが、中国人の言う「謝罪」の意味は改めてこういうことだったのか、と思いました。彼らは声明発表や記者会見や国際会議における「謝罪」は謝罪だとは思わないのでしょう。僕は「中国は外交カードとして謝罪要求を使っているのだから、今更何をしても無駄だ」というペシミスティックな考えにはあまり賛成はできません。案外、日本の首相なり天皇なりが中国や朝鮮の激戦地を訪れて花を手向けるだけではなく「膝をついて」謝れば、彼らは認めるのではないかと思いました。また日本の軍国主義の復活の問題に関しては、靖国神社における高齢者や右翼団体の「コスプレ」の写真が展示してありました。こんなの超特殊な事例で日本人でさえも「半笑い」で見ている人が多いというのに。でもまあ、展示というのはそんなものなのでしょう。一応、そういう人たちがいるのは事実だし。
 その他に気になったこととしては、中国を助けて日本と戦った外国人の業績が強調されていたことです。例えば、アメリカは公式には中国側に立って参戦しませんでしたが、"Flying Tigers"と呼ばれる戦闘機乗りを派遣し、中国を助けました(ちなみにこの"Flying Tigers"はフライトジャケットのペイントのモチーフによくなります)。また南京虐殺の際、中国人女性たちをかくまったとされるドイツ人女性など。かなり穿った見方をすれば「アメリカ人も昔、中国と組んで、日本と戦ったのですよ」と政治的なメッセージを送っているとともに、「被害者=善の側にアメリカ人がいたんだ!」と思わせることで心理的な満足感をアメリカ人に与える構図になっています。
 そこにいた中国人たちと少し話したのですが、彼らによるとこの展示では特に戦後のことに力を入れているとのことでした。いわく「日本では完全に間違った歴史が教えられていて、軍国主義が台頭しつつある。これは将来の世代にとって不幸なことだ」とのこと。彼らはもちろん日本の歴史教育が戦後から現在に至るまでどんなだったか知りません。僕は「僕が小中学校の頃に教わった歴史はだいたいこの展示のとおりでしたよ」と伝えておきました。おそらく彼らは『新しい歴史教科書をつくる会』の教科書のことを言っているのでしょうが、あれが日本の歴史教育のメインストリームになったことはないし、今後もならないでしょう。現在ですら採択率は1%にも達しません。
 さらに彼らは日本の常任理事国入りの要求に対しても懸念を表明していました。いわく、それはアジアにとって良くない、と。一応僕は「日本は国連に対して圧倒的に一番多額の分担金を支払っているのに、発言力は無い。そのことに日本人は不満を感じているのです」とだけ言っておきました。あと南京虐殺などのソースにしても中国のものではなく西側諸国のものを使っていると彼らは強調していました。
 総じて思ったこととしては、思ったよりもエモーショナルなものではなかった、ということです。何と言っても彼らは一応エリートの留学生なのです。都合の悪いことには触れず、都合の良い事実を並べただけだったり、事実誤認や誇張はありますが、それでも靖国神社併設の「遊就館」ほどのものではありません。疑問なのはそんな彼らがチベット弾圧や、国内における共産党の人権弾圧に関してどのように考えているのかということ。日本を批判する同じロジックで、過去に中国共産党が行ったことを批判できます。だからこそ中国政府としても、反体制運動に繋がりかねない反日運動をある程度で抑えようとするのです。
 またこの展示の目的についても考察する必要があります。こうした展示の目的としてはまず政治宣伝が考えられますが、はっきりいってアメリカではこの種の宣伝をする意味がありません。なぜなら普通のアメリカ人はすでに「第二次大戦における日本は悪だ」と思っているからです。ていうか悪の軍国主義日本と戦ったことはアメリカの誇りであり、存在理由でもあります。ワシントンDCにあるスミソニアン博物館に行けばわかりますが、日本を強大な悪と見立てることで、それに立ち向かったアメリカの正義が説かれています。"Iwo-jima"のモニュメントはまさにその象徴です。第二次大戦は、アメリカにとって最後の絶対正義でいられた戦争なのです。そしてその絶対正義は日本の絶対悪によって支えられています。だからその正義を崩しかねないワシントンにおける「原爆展」には強い反発があるのです。つまりアメリカ側としても第二次大戦において中国よりも日本に肩入れする理由などありませんし、日本に同情的になることもありません。今更、中国人が第二次大戦における日本の悪行を暴くことで、「日本は悪かったんだ」とアメリカ人に対して宣伝する意味などないのです。また、アメリカ人にではなく国際世論に訴えかけるというのも考えられますが、これは少なくともオースティンでやるかぎり意味がありません。日本人に対して示威活動をするという目的にしても、UTにおける日本人の少なさを考えれば無意味です。
 ではなぜ彼らはこうした展示を行うのか。僕はこれは一種の自己完結的な「クラブ活動」であると思います。この展示を作成することで彼らは共通のものを持てるし、中国人として連帯できるのです。展示にある内容も結局は、彼らが本国で習った歴史を「自由研究」的にまとめたものに過ぎません。さらに穿った見方をすれば、おそらくアメリカにおける中国に対する人権問題に関する批判や、法輪功の活動へのフラストレーションがあると思います。人権問題においては中国は常に問題のある加害者として描かれますし、チベット弾圧や民主化活動家の弾圧などを指摘されれば彼らは返す言葉がありません。学生や知識人ほどそう感じるのではないでしょうか。先日も法輪功による中国における人権侵害の実例を示した拷問や処刑にかんするグロテスクな写真の展示が、大学内の全く同じ場所で大々的に行われていましたが、多かれ少なかれ本国のメインストリームに属する中国人留学生たちは大変苦々しくそれを見ていたでしょう。中国が被害者、絶対正義でいられる反日展示は、こうした環境に置かれた彼らを慰める役割を果たしているのではないでしょうか。

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