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2006年1月の日記
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1月5日(木)の夜
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横江公美. 2004. 『第五の権力:アメリカのシンクタンク』文春新書を読みました。ヘリテージ財団、AEI、ブルッキングス研究所、ケイトー研究所などアメリカの主要なシンクタンクについて、その思想、歴史、アメリカ政治における役割などがかなり詳しく書かれています。ここまでよく調べたもんだと関心します。ただし著者のオリジナリティのようなものは感じられません。研究書や論文では無く、よく出来た「レポート」です。またこれらの情報は日本語としてはおそらく未紹介でその意味で貴重と言えるのかもしれませんが、一方で一体どのような層をターゲットにしているのかがよくわかりません。これらのシンクタンクについての細々とした情報は日本の一般読者にとってはさほど興味の対象になるとは思えず、かといってアメリカ政治を専門的に勉強している人にとってはほとんど常識的なものだし、本当に知りたければ英語で書かれた文献に当たれば容易に手に入るものです。あと著者の日本語の言葉遣いが僕にとってかなり不自然に思える箇所が多くあり、読み進める上で気になって仕方がありませんでした。場所によって文体が違ったり、明らかに翻訳調の硬い表現があったりで「この本は単に英語で書かれたタネ本を翻訳しているだけなのではないか?」と疑いたくなってしまいます。
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1月13日(金)の朝
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最近は新書のレビューのようになっていますが。
園田義明. 2004. 『最新・アメリカの政治地図:地政学と人脈で読む国際関係』講談社現代新書は、取締役兼任制度や社交クラブなどを通じてのアメリカ国内および国際的なエリートの人的繋がりを紹介し、政治的経済的イベントや国の外交戦略をそうした人脈によって説明しようとしています。著者は否定していますが、やはりこれは広い意味での陰謀論の本だと思います。陰謀論マニアにはお馴染みのビルダーバーグ会議、スカル&ボーンズ、ボヘミアンクラブなどが登場し、そこで誰と誰が会員(主に政治家とビジネスマン)であるかなどの状況証拠から想像を膨らませ、ある種の「陰謀」の存在を示唆します。例えばボヘミアン・クラブのキャンプにおける各ロッジの有力宿泊者を示した後、「なお、ブッシュ(父)元大統領は、ラムズフェルド国防長官とともに「ヒルビリーズ」に宿泊していた。このメンバーに、マンダレー・ロッジやヒルビリーズにおける四名のホスト役の名前を加えると、同時多発テロの直前である二〇〇一年の夏時点で何かがすでに動き始めていた可能性も無視できない」と、イラク復興で最大の受注をしたベクテル社の幹部の名前をホスト役として続けて挙げています。イラク戦争の当事者とイラク戦争の受益者が同じ秘密クラブのメンバーで、2001年の夏に会っていたという事実でもって、「イラクで一儲けしようぜ」と彼らが911のテロを仕組んだという陰謀の存在を匂わせているわけです。
しかしながらこれはやはり推測の域を出ませんし、それ以上の証拠があるわけでもありません。常識的に考えてせいぜい「イラク復興事業で友人に便宜を図ったのではないか」という疑惑が浮上するくらいのものです。「知的な遊び」としてはこの種の陰謀論は興味深いですが、それを「事実」だとして主張するには論者の主観や推理の部分が多すぎます。要するに「この論が正しい」と主張する上で暗に仮定している前提があり、それらの真偽がどうも疑わしいのです。例えば「AはCである」との主張が真であることは、「AはBである」、「BはCである」という二つの前提が正しければ、その人の思想や主観に関係なく論理的に導き出されますが、「BはCである」との前提が疑わしいときはどうでしょうか。もちろん「AはCである」とは言えません。陰謀論者はいわば「BはCである」ということが疑わしいのにも関わらず、そうだと言い切ることによって「AはCだ」と主張するのです。研究者は、自分の主張が論理的に真と判定されるためには一体いくつの前提が正しい必要があるのか、そしてそれらの必要な前提は実際どれくらい正しいのか、ということに常に注意を払う必要があります。自分の主張が非現実的な前提が正しい限りにおいてしか成り立たない場合、そしてそのような前提があまりに多い場合、その主張は「陰謀論」となります。この意味においてこの本は「ユダヤ・フリーメーソンの陰謀」よりはましなものの、現時点ではやはり「陰謀論」の一種と考えざるを得ないでしょう。(ちなみに社会科学においては、以上のようなことを考える上で、数学を用いた理論の構築が役に立つというわけです)。
上の例でより具体的に言うと、「イラク戦争を行うために、ラムズフェルドとベクテルが共謀して911の計画を練った」という主張をするためには一体いくつの前提が必要で、それらの前提はどれくらい確からしいでしょうか。「@両者が911以前から顔見知りであった」、「Aイラク戦争は両者の経済的利益に適う」、「B両者は自分たちの利益のためにイラク人を殺しても苦痛を感じないほどに残忍である」、「C両者は自分たちの利益のためにビジネスの公平性というルールを破ることも気にしないほどに利己的である」、「D両者は911テロ計画を遂行する手段をもっている」、「Eメディアやライバルにほとんどその計画について感付かれないか、騒がれない自信がある」…などなど。まあこうした前提が全て正しければ「イラク戦争を行うために、ラムズフェルドとベクテルが共謀して911の計画を練った」という主張が正しいということになるのですが、明らかにそのうちのいくつかには無理があると言えるでしょう。この著者はせいぜい「@両者が911以前から顔見知りであった」、「Aイラク戦争は両者の経済的利益に適う」という二つがどうやら正しいということを示したのみで、後の前提が正しいということは一切示していません。つまり勝手にそれら残りの前提を「正しい」と決め付けた上で上記の主張をしているのです。これは「イルミナティが人類家畜化計画の一環として911とイラク戦争を仕組んだ」などという主張に比べれば、まだそれが真であるために必要な前提は少ないし、それらの前提の「確からしさ」も高いですが、それでも大きく見れば「五十歩百歩」です。それに比べて「ラムズフェルドはイラク復興の受注においてベクテルに便宜を図った」という主張なんかだと、それが真であるために必要な前提はまだ少なく、その信憑性も高いでしょう(例えば@、A、C、Eあたりが正しいとするならば、そのように言えるかもしれない)。もちろん、それでもまだ見る人によっては「陰謀論」ですが。
三浦俊章. 2003. 『ブッシュのアメリカ』岩波新書はブッシュ政権下のアメリカに関するルポルタージュで、新書という性質上か情報量はそんなに濃くなく、考察はあまり深くないものの、読みやすく読者のアメリカ政治の知識レベルに応じて様々な楽しみ方ができる本だと思います。典型的なジャーナリストによる作品と言えるでしょう(学者の手によるものならば、これらの豊富な事例を通じてもう少し原理的、理論的議論があったはず)。
三浦展. 2005. 『下流社会:新たな階層集団の出現』光文社新書は、昨今流行の「格差社会」などと同様、社会学的アプローチによる現代社会論。かつて中流社会と言われた日本においては、現在「下流」の人々が増え続けているが、それらの人々は一体どういう人々か、またなぜそうなったのかを探る、という内容。こう書くといかにも衝撃的な内容ですが、実際この本で示されているデータ分析結果をしっかり見ると実はそれほど大したことではなことがわかります。著者はさも大そうな風に書きますが、大そうなのは著者の主張なのであって、その主張を裏付ける数字はあまり出ていません。しかし一般読者は客観的そうな膨大なデータや数字に惑わされて、いかにも著者の主張が科学的根拠に基づいているように錯覚するのではないかと思います。こうした著者のやり方は読者をミスリーディングするという点で問題です。著者は民間シンクタンクに勤めるマーケティングの専門家で、いかにも自分の本を売るために読者の求めている衝撃的な内容を示しているのではないかと疑ってしまいます。数字が示すとおりに解釈する良心的な学者が同じ結果にもとづいて本を書いたのならたいそう退屈な内容になっていたことでしょう。
まず第一にこの本における「中流」、「下流」というのは社会経済的地位を表す客観的な指標ではなく、本人の主観的な意識です。なので仮に「中流から下流への転落」と言っても、それは給料が下がったとか失業したとかというのではなく、その本人の意識が変わったというだけで、必ずしも生活レベルが下がったわけではありません。それなのに著者は一部、これをあたかも「金持ち」と「貧乏人」の二極分化が進んでいるかのように描いている箇所があります。また「意識の違い」といってもサンプル数の少なさから、それが本当に有意な違いかどうかわからないものが多いです。著者はさすがにこの点、良心が痛むのか「サンプル数の少なさから統計的有意が疑わしいが」などと断った上で論を展開している箇所が時折ありますが、絶対その他にもたくさん同様の断りを入れるべき箇所があるはずです。それに話題の新書を読むような一般読者に「統計的有意」などと言っても何のことかわからないし、結局著者の主張をデータに裏付けられたものとして信じてしまう結果になるのではないかと思います。著者が良心的ならわざわざ統計的有意を断る必要のあるような主張はするべきではありません(読者が統計手法を理解しているのならまだしも)。例えば笑えるものとして、「「下」は自民党とフジテレビが好き」という小見出しがあります。しかし実際は膨大なクロス表の中から「団塊ジュニア世代」の上流意識をもつ者(n=12)の16.2%が朝のニュースでフジテレビをよく見ると答えているのに対して、下流意識をもつ者(n=48)の39.6%がそう答えたというだけです。上流意識の16.2%はnの少なさから誤差が大きいだろうし、仮に実際に差があるとしても、他の3つの世代では、階層意識とテレビ視聴に関するなんら解釈可能なパターンも見出せません。また全世代をプールした結果も示されていません。まさに「下流はフジテレビを見て自民党を支持する」というセンセーショナルなことを言いたいという著者の願望の単なる表れに過ぎないのではないでしょうか。第二に「意識の変化」といっても、その変化の原因が本当に著者が主張しているものかどうかがはっきりしません。例えば「真性団塊ジュニア世代も「下」が急増」という小見出しがありますが、それは「真性団塊ジュニア世代」では男女とも、99年よりも04年の方が「下流」意識をもつ者の割合が増えているという分析結果に基づいています。しかし、これは著者が主張するように「ちょうどその時期に大きな景気後退に遭遇したため」とは限らず、単に99年に20-24歳だった学生が04年に25〜29歳になり働きはじめることによって意識を変化させた、いわば「ライフサイクル変化」である可能性もあります。この本は「違い」なり「変化」についてはそれなりに数字を出しますが、その原因についてはほとんどその作者の憶測です(それでも一般読者は「変化」同様データの裏づけがあるものとして信じてしまうかもしれません)。
この本はに全編わたってこの種の突っ込みが可能です。以前コンサルの人に話を伺ったときに、あるシステムを導入したことによって会社の業績が改善されたことを示すために、まずはありとあらゆる数字を出して、それらをさまざまに組み合わせたものを作った上で、その中から自分の主張にあったものだけを抜き出して無理やりこじつけるということを聞いたのですが、この本からもまさに同様の精神を感じました。アメリカのシンクタンクでも法案に賛成したり、反対したりするのに同様のことをするそうです。この本の著者のバックグラウンドを考えればこの本もそうなのではないかと疑いたくなってしまいます。データによるしっかりとした裏づけのない単なる主張が、あたかもデータで示されたものであるかのように確かなものとして一人歩きすることは、アカデミズムの世界でもたまにあることですが。
最後、高橋哲哉. 2005. 『靖国問題』岩波新書は感情、歴史、宗教、文化などの側面から靖国神社を批判的に論じたものです。靖国神社の歴史や思想にかんする単なる情報提供に留まらず、著者の解釈や主張が全面に押し出されています。靖国神社を、国に命を捧げることを賛美することで国民を死に追いやるための装置として批判するのみならず、宗教性を含まない国立の追悼施設についても結局同じことだと、国家によるその国のために死んだ人々の追悼すらも否定します。著者によれば国家による戦死者の追悼が許されるのは、日本が平和憲法に則って完全に武力放棄したときのみです。実際これらの主張は左派の中でもラディカルだと思われ、これらの主張はむしろこの本の価値を低めているのではないかと思います。仮に靖国神社批判が最初からの目的だったとしても、淡々と事実を述べただけの方が効果が高かったのではないかと思います(例えば、靖国神社は祀られたくない人々までも、それらの意思に関係なく天皇の意思により祀るため、合祀拒否を認めないなど)。こうまでイデオロギー色を全面に出してしまうと、右派のみならず中道の人でも途中で読むのを止めてしまうのではないかと思います。ちなみにこの本はベストセラーにもかかわらず、靖国神社併設の遊就館の売店の靖国関連本コーナーにはありません。
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1月17日(火)の朝
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昨日オースティンに戻りました。機内では珍しく爆睡したので疲れはそれほどありません。苦手の時差ぼけも今回はいきなり学期が始まってしまっているため、早く克服したいものです。それにしてもホームシックだけは、5年目になろうとも克服できません。ていうか年々強くなっていきます。楽しかった日本での年末年始…。それに引き換えここオースティンでは研究に楽しみを見出すしか無いような生活です。いずれにせよ、がんばりたいと思います。
帰国中は更新が滞っていましたが、今後は身辺雑記、研究のことなどできるだけ更新していきたいと思います。
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1月18日(水)の朝
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昨日は今学期のTAのクラスがありました。今学期、僕は大学院の回帰分析のクラスのTAをやります。3年前にもやったことがあるので、だいぶ気楽です。と思いきや、今学期は従来の仕事に加えて、週1回2時間TAセッションをもたないといけないとのこと。内容は行列とSTATAおよびMAPLEの使い方です。確かにこういうセッションがあった方が学習効率は断然良くなるでしょう。考えてみればなぜ今まで無かったのか。明日先生にセッションの進行計画を見せないといけません。
昨日はそれで授業の後、時間ができると思いきやTAの仕事を仰せつかって、オフィスで取り組んでいたものの結局それが12時くらいまでかかり、帰米2日目にもかかわらずいきなり普通のペースで生活できました。もしこの仕事が無かったら例によって8時には就寝し、中途半端に夜中に起きて典型的な時差ぼけのパターンにはまっていたでしょう。今後もこのペースが守れますように。このTAの先生はアドバイザーではありませんが、僕のコミティーの人で、研究の話を少しすると僕の現在の関心と非常に近く驚きました。先生の知らないworking paperを教えるなどして情報交換できました。今学期は先生方との関係強化に取り組みたいと思っています。
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1月19日(木)の朝
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昨日は空間理論のクラスの1回目でした。実は今学期が始まるまで登録者は僕一人で開講が危ぶまれていたのですが、学部からの呼びかけや、関係する先生の個人的な働きかけにより無理やり5人集められ、開講されることになりました。学生は全員アジアからの留学生です。先生は空間理論の第一人者とも言える人で、UTでは政治学、経済学、工学を教えています。本来の専門は統計学です。頭は非常に良い先生なのですが、いかんせん頭が良すぎるのか、教えるのはあまり上手くなく、ほとんどの学生はついていけないというのが専らの評判です。僕も2年半前にこの先生の授業を取りましたが、高度過ぎて何一つ理解できませんでした。
教室は数学や物理学が入るビルの中にありました。授業はもちろん1回目ということもあって、本題には入らないのですが、先生はいきなりシェークスピアの戯曲の話を始め、続いてイギリスのローマ征服以来の政治史について述べたかと思うと、ヨーロッパでの宗教改革、アメリカの独立革命など話が進み、なぜかゲーム論におけるcommon knowledgeのフォーマルな定義に触れ、一体この話はどのようにして空間理論につながるのだろうと必死になって考えてみるもわからず、結局どういうわけか空間理論に繋がって終わるかと思いきや、今度はトルコの政治の話になって、結局オチがつかないような感じで終わりました。この間2時間半です。休み無しです。先生の中ではそれぞれの話が論理的に繋がっているのかもしれませんが、傍目には頭に次々に浮かぶことを取りとめもなく話しているとしか思えません。自分の中で先生の話を無理やり結びつけることもできるのですが、それが果たして本当に先生が言いたいことなのかどうか自信が無いし、あるいは全く逆のことを言っていたのではないかとすら思えるほどです(ちなみに僕の理解した限りでは「政治的な安定によって人々が同じ概念を共有するようになり、それによって政治的な空間が出現する。それぞれ異なる人々の事前分布(情報?選好?)が一つの確率分布、すなわち常識へと収束する」というのがポイントだったように思えますが、実際どうなのか自信がないし、だいたいこの主張が、西欧における所有権保護の歴史など先生が触れた他のほとんどの話題とどう関係があるのかよく分かりません)。これは僕の英語力の問題なのかもしれませんが、この先生の共同研究者ですら、「彼の話はよく理解できない」と言っていたので、おそらく僕の英語力の問題だけではないと思います。
ちなみにこの先生は2年半前よりはずい分元気になっているようで、何かしらのやる気が感じられました。この先生はコンプでは方法論の採点をするのですが、僕の頃は超甘かったのに、最近は急に厳しくなって先学期も一人を除いて全員彼によって落とされたそうです。がんばって色々なことをこの先生から吸収したいと思います。
時差ぼけ、今回はマシかと思いきやそんなこともなく、昨日は夜6時半に寝てしまって深夜に一旦起床。でもがんばって寝続けて結局朝5時に起きました。時差ぼけがしんどいのはいくら寝てもすっきりしないということだと思います。今も気分が悪いです。
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1月20日(金)の朝
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最近オースティンは気温摂氏20度を超える毎日なのですが、これで快適かと思いきやそうでもありません。この外気温になるとクーラーがかかるようで、室内が寒すぎるのです。僕が寒がりなこともありますが、この前などはTシャツ、スウェット、フリースを着ても寒くて震えていました。で、建物の外に出ると「暖かい!」とホッとする。これが1月だなんてあり得ません。例によってキャンパスの建物の中にも外にもTシャツ一枚でうろつくアメリカ人がいます。僕がアメリカが嫌いなことの一つにこうした季節感の無さがあります。自分が環境に合わせるのではなく、環境を自分に合わせようとする。こうした思想に対してあまりに多くのアメリカ人は無批判です。気温に関わらず、エアコンをオンにすることがアメリカ人にとってのデフォルトです。日本のような「クールビズ」、「ウォームビズ」などアメリカでは考えられないでしょう。まあ、ありきたりな「文明批判」ですが。
昨日はTAをしている大学院の回帰分析のクラスの2回目でした。実質の初回で、回帰分析の概要が2000年大統領選挙におけるフロリダの郡ごとのブッシュの得票とブキャナンの得票の例を用いて紹介されました。議論としては、パームビーチ郡ではバタフライ投票用紙と呼ばれる特殊な投票用紙が用いられたため、ゴアへ意図された投票がブキャナンへの投票としてカウントされたといわれているが、実際これが統計的に確認できるかということ。以下の図は、フロリダ州の郡ごとのブッシュの得票とブキャナンの得票との関係を散布図で表したものです。
この図を見て分かるとおり、概してブッシュとブキャナンの得票には正の関係があります。要するにブッシュの得票が多い郡は保守的な人が多く住む郡であり、その分ブキャナンへの得票も多いということです。ところが図の上部に目を転ずれば一つだけ「外れ値」があることがわかります。この郡では他の郡に比べて、ブッシュの得票の割合からして多くの人がブキャナンに投票したのであり、いわば異様にブキャナンの人気がある郡といえます。この「外れ値」が問題のパームビーチ郡です。果たしてパームビーチ郡におけるこの異様なブキャナン人気は、バタフライ投票用紙によってもたらされたものなのか、あるいは他の郡におけるブッシュ得票とブキャナン得票との関係で見たとき、「あり得る」ことなのか。
そこで、パームビーチ郡を分析から除いて、ブキャナン得票を従属変数、ブッシュ得票を独立変数として回帰分析を行います。ここには「ブッシュの得票が多い郡ほど保守的で、ブキャナン得票も多いはずだ」という予測があります。そしてこうして推定された回帰式をもとに、それぞれの郡で期待されるブキャナン得票とその95%信頼区間を割り出します。その結果が以下のとおりです。
この図を見てわかるとおり、実際に観測された値はだいたいが回帰式によって得られた期待値の95%信頼区間内に収まっています。いくつかある95%信頼区間を外れた実現値は、理論的には5%以下でしか起こらないことが現実に起こったということであり、「何か偶然ではない要素によってブキャナンの票が多かった、あるいは少なかった」ということです。この点から言えば、パームビーチ郡は超不自然です。パームビーチ郡におけるブッシュ得票およそ15万票からすれば、他の郡におけるブッシュ得票とブキャナン得票との関係からして、予測されるブキャナン得票はせいぜい400票から800票です。しかし実際にはブキャナンは3,000票以上もの票をパームビーチ郡で得ています。偶然ブキャナンがこのような数の票を得る確率は理論的には1%もありません。そこで「パームビーチ郡では何か偶然では無い要素によってブキャナンが多くの票を得た」という結論が導かれるわけです(ただし一応補足しておくと、この分析ではOLSの仮定の一つである分散均一性が違反されている恐れがあり、その場合95%信頼区間は妥当ではなくなります)。
で、授業ではこういう感じで回帰分析の概要が語られたわけですが、それとは別に僕が個人的にずっと気になっていることがあります。それは、こうした分析における母集団とは一体何か?ということです。上記の分析では、統計的推論、すなわちサンプルの統計量(エスティメーター)から母集団の統計量(パラメター)を推定するということが行われているわけですが、そこにはこの分析に用いられた70弱の郡のデータはランダムサンプリングによって母集団から抽出されたという前提があるはずです。しかし、普通に考えてこれらの郡のブッシュ得票、ブキャナン得票などといった値はランダムサンプリングによって得られたものではなく、選挙の日の有権者の票を分類したことによって得られたものです。すなわちその値は必ず一つしかなく、この66の郡自体、サンプルではなく母集団なのではないか、と。もしそうならば統計的推論を行う必要など無く、パームビーチ郡のブキャナン得票がウソだとかそんなことは言えなくなります。ブッシュ得票とブキャナン得票の回帰直線の傾きが例え0.01であっても、その値は常に真の値となります。こうしたことは例えば国を単位とした分析でも言えることです。
と、このような疑問を昨夜たまたま電話をかけてきたA&Mの後輩にすると、概ね以下のようなことを言っていました(僕の解釈も含みます)。フロリダで2000年の選挙の日、ブッシュへの得票、ブキャナンへの得票が決まる上では無限の可能性があった。たまたま天気が悪かったことによって年寄りが投票しなかったかもしれないし、たまたまA郡に住むBさんが交通事故にあったことによってゴアに投票できなかったかもしれない。そうした偶然の産物として2000年大統領選挙におけるブッシュやブキャナンの得票数が現れたわけで、それらは決してあらかじめ確実に決まっていたものではない。ここに70弱の郡がランダムに得られたとする根拠があり、統計的推論をする余地がある、と。まあこうやって書くと僕の不理解もあってわけがわかりませんが、どうやらちゃんとした理由があるようです。ヒマがあればこの問題に関する文献でも読んでみたいものです。
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1月21日(土)の朝
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昨日は時差ぼけがまだ残っているせいで、夕方から急激に眠くなり、勉強は諦め、ただ起きているという目的のために図書館で日本の本を読んでいました。松本清張の『半生の記』。松本清張が作家になるまでの不遇の40年間を自ら綴ったものです。小学校卒のための学歴コンプレックスや貧困に苦しみながら一家を支えて、自分の人生が思うようにいかなかったことをひたすら呪っています。まあ時代的に他の日本人も多かれ少なかれみんなこんな感じだったんじゃないかとも思いますが、それでも社会の底辺で這いずり回る松本清張の姿は凄絶です。読む前は「不遇の40年間から作家として成功」という感じで、勇気付けられる内容だろうと期待して読んでいたのですが、あまりにその様子が壮絶すぎて僕なんかの生活とは全くリンクせず、ただただその「負のパワー」に圧倒されました。僕なんかその点、まだまだ恵まれすぎていて、そんな「負のパワー」や「世間への恨み言」など持ちようもないし、それをモチベーションに変えるなどということはできそうにもありません。要するに、勇気付けられるわけでもなく、参考になるわけでもなく、ただ「すごいなあ」というだけの本でした。
またこの本は全集の一部だったのですが、全集に大概ついている小冊子にあった編集者の回想によると、松本清張は「作家に必要なもの」として才能よりも「原稿に長く向かう能力」を挙げていたそうです。これを読んで、僕に足りないものはまさにこれだと思いました。論文を書こうとパソコンに向かってもすぐに集中力を失ってしまいます。
あと何となくこの『半生の記』は、去年の出版以来何かと話題のリリー・フランキー『東京タワー』に似ているなあと思いました。特に父親との関係など。舞台も同じ九州の小倉です。
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1月24日(火)の朝
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先日ここに書いた、それ自体が母集団ではないかと思われるサンプルの問題ですが、メールを頂いたりして色々調べた結果、2003年のアメリカ政治学会の方法論部会のメーリングリストで同じような問題関心にもとづく投稿がなされていたのを見つけました。それによると、こういう母集団のようなサンプルは"apparent population"(見かけ上の母集団)と呼ばれ、二つのアプローチがあるそうです。まず第一に、それを単純に"true population"とみなす考え方。この場合、当然統計的推論は行われず、統計値は全て記述的なものとなります。すなわちデータを生み出す社会的過程は確率論的ではなく決定論的であるということです。これに対して第二に、データは"super population"からのランダムサンプルであるとする考え方があります。この立場を採用すれば統計的推論は意味のあるものとなりますし、実際ほとんどの研究がこの考えに基づいて統計的推論を行っています。ただしこの考え方にはそのデータを生み出す社会的過程に関するある前提が必要とされます。それは、この社会においては無限の独立した試行が可能であり、現在の歴史は無限にある可能性の中からさまざまな偶然の要素によって実現した一つである、ということです。何だか形而上学的な問題です。
以上のような考え方は言ってみれば、sampling errorの観点から「見かけ上の母集団」に対する統計的推論を正当化しているわけですが、measurement errorの観点からそれを正当化する考えもあるようです。ただしこの考えは、投票数や投票率などはっきりした一つの数字があり、それがそんなに誤差が無く測定される場合にはあまり有効で無い気がします(それでも、観察された投票数を「無限の可能性の中から偶然選ばれた」と考えるsampling errorにもとづく考え方は有効です)。
ただしいずれにせよ、実現したデータはsuper populationからの「ランダムサンプル」であるという仮定に関しては確かめようが無いし、信じるしかないものであり、僕は正直この考えには少し無理があるようにも思います。実際そのように考える研究者もいて、僕には詳細はよくわかりませんが、この研究領域ではベイズ統計学を応用する試みがなされているようです。
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1月26日(木)の朝
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昨日は空間理論のクラスの二回目。パワーポイントに沿って行われるなど、思っていたよりも内容はよくまとめられていました。2年前にこの先生の授業をとったときは、2時間半先生がとりとめもなく話続けるという感じで、何が「本線」で「脱線」か全く分からないどころか、果たして「本線」があるのかどうかも分からない状態でしたが、今回は少なくとも何か「本線」があるということはわかります。公共選択におけるコンドルセー・ウィナーの問題に始まり、中位投票者定理に触れた後、その中位投票者定理がいかにfragileか、probablisitic votingや争点が二つ以上ある場合などいくつか例が示され、それにも関わらずなぜ人気があるかについて語られました。ただしはっきりいって普通にここまで授業でやるなら2時間半も要りません。ていうかすでに別の先生の「フォーマルセオリー入門」の授業で30分ほどでやったような内容です。では、なぜそんなに時間がかかるかというと、いちいちこの先生は脱線なのか本線なのか判別不可能な例え話や、裏話をするからです。空間理論や合理的選択論の背後にある哲学的な話から、業界的な裏話(昔話)まで(空間立地論の先駆者で数学者のホテリングの弟子が不可能性定理で有名な数理経済学者のアローで、その弟子がダウンズだが、ダウンズは数学が全然ダメだったとか、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者サイモンはバクテリア感染症でピッツバーグで死んだとか、「オードシュック(or シェプスリ or オルドリッチ)が大学院生のころ…」とかそういう話)。
とりわけ彼が強調したのが、「合理性とは選好が推移的なこと、それだけだ!」ということ。政治学では規範的な代議制民主政治論(Theory of Representative Democracy)のおかげで合理的選択論が誤解され、その誤解にもとづいて不当に批判されており、合理性うんぬんを巡っては不毛な議論が繰り広げられています。「政治家がただひたすら再選のためだけ(良き社会の実現とかのためでなく)に活動する」という仮定が正しいかどうかは、合理性とは直接の関係はありません。政治学ではこうした規範論のおかげで、経済学や社会学よりも数理的アプローチの導入が遅れているのでは、とのことです。
彼はミシガン学派についても触れていたので、僕は「”自分は民主党に投票した。なぜなら自分は民主党員で民主党に心理的な愛着を感じているから。でも、大きな政府には反対だ”という行動は合理的と言えるか?」という質問をしました。僕は投票行動の領域では、「有権者が争点に関して知識を持たない」という事実でもって、「有権者の合理性」の問題が長年議論されてきたことを念頭においていたのですが、彼の答えは「僕だったら、その人は南部人で、民主党は小さな政府を支持していると思っていると解釈するだろう。歴史的にみてかつて民主党は…」などと答えました。もちろん僕の聞きたい答えではなかったのですが、あんまりこれ以上聞いてもラチがあかないと思ったのでやめました。ミシガン学派の合理性の理解が妥当なものなのかどうか。要するに「有権者は政治的な知識が無い→自分の政策選好にもとづく投票ができない→合理的な投票行動ができない」あるいは「有権者は矛盾した政策選好をもつ→選好が推移的ではない→有権者は合理的ではない」ということだと思うのですが、どうなんでしょう?(おそらく僕は「有権者は自分の政策選好と投票行動を結びつけることができない」という意味で「有権者は合理的ではない」と言われていると思います)。
あんまりまとまっていませんが…。
昨日はその後夜7時から、大学院の回帰分析のクラスのTAセッションということで1時間ちょっと行列を教えました。数学がずっと苦手だと思い続けている僕が行列を教えるとは何ともおかしな話です。まあだからこそ教えられることもあるとは思いますが。もちろん、内容は超基本的です。折に触れてSTATAやRの使い方もやるつもりです。僕が2年目のときに「こういう授業があったらなあ」という内容にしたいと思います(僕がこのクラスをとったときにはTAセッションは無かった)。せっかくなので、スケジュールとレクチャーノートを置いておきます(セッションではこれらのファイルにネットで接続し、プロジェクターで映し出している)。
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1月27日(金)の朝
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UTオースティンは今月の4日にあったローズボウルで南カリフォルニア大学を最後大逆転で破って、カレッジフットボール全米チャンピオンになったわけですが、下の写真はその記念のマグカップです。こんな機会はあまりだろうと記念にこれを買いました。大学生協は現在、こうした優勝関連グッズで溢れています。超安物のデジカメなのでピンボケしていますが、一枚目の写真には"13-0"という数字が見え、これは2005年のシーズンを13戦全勝で終えたことを示しています。二枚目の写真の細々としたリストは全ての対戦成績です。UTは去年もローズボウルに出場し、ミシガン大学に勝利しているのですがこのときのローズボウルは全米チャンピオンを決めるものではありませんでした(四大ボウルが持ち回りで優勝決定戦を受け持つ)。でもテキサス大学とミシガン大学というフットボールの名門伝統校同士の史上初対戦であり、しかも勝利したということで、僕としては去年の方が何だか感慨が深いです。ちなみに去年のローズボウルは記念にTシャツを買いました。
あと、今日たまたま大学近くの古着屋に行くと、Nikeの「白タグ」のナイロンパーカーが14ドルで売っていました。白タグというのは78年〜80年製を意味し、創業が70年代前半のNikeとしてはビンテージとでも言えるものです。おそらく長らくデッドストックだったのか状態も最高で、サイズもちょうどです。ebayに出せば50ドルくらいの値がつくのではないかと思います。日本でも白タグのTシャツが6000円くらいであることから、このナイロンパーカーも相当な値段がすると思います。この古着屋は日本のブックオフみたいなもので、専門的に鑑定することなく機械的に値段をつけているがゆえにこういうことが起こるのでしょう。当然買いました。しばらく毎日着ることにします。
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1月29日(日)の昼
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昨晩は経済学部のH先生宅で鍋パーティでした。わざわざH先生が土鍋を購入し、日本食材店で具を調達するなど本格的なものでした。ダシもちゃんと昆布で取ったし。鍋が一通り終わると、Catanというボードゲームをやりました。このゲームはもともとドイツのもので、英語圏でも大ヒット、日本でもカプコンが発売するなど(ただし日本語版はデザインが全然ダメ)世界的に人気があり、世界大会も開かれているようなゲームです。この仲間内ではおととしくらいからやっています。で、それが終わると夜半過ぎくらいで、何となくお開きっぽかったのですが、僕を送ってくれる人がかなり酔っていたため、そのまま酔いが覚めるまでいることに。H先生愛蔵の千葉真一の変なアクション映画や宮崎アニメを漫然と見ながら4時まで過ごし帰宅しました。
最近オースティンはとても暖かく、日中は摂氏20度を超えるのが普通です。今日なんかは摂氏27度まで上がるようです。それで夏に向けてメッシュキャップが欲しいなあと、現実逃避を兼ねてネット上で色々と探しているのですが、なかなかこれというのがありません。メッシュキャップというのはアメリカでは"Trucker Hat"というらしく、要するにトラック野郎がかぶるような帽子で、僕のイメージ的には「薄汚いカッコイイ」感じのものです。できれば、アディダスやナイキのようなスポーツ系やストーンズとかCBGBのような音楽系よりも地元の店の宣伝のやつとか、選挙キャンペーンのとか、ガテン系の会社のモノが良い。ということでいくつか以下に面白いものを。
・Vote for Pedro
これはアメリカでおととしヒットした映画"Napoleon Dynamite"というnerdな男子が主人公のコメディ映画の関連グッズで、ストーリーの中で登場するハイスクールの生徒会長選挙のキャンペーングッズです。まあ映画を観た人しか意味がわからないかと思いますが(ちなみに日本では買い付け交渉が上手く行かず、結局この映画は公開されず、昨年オタク繋がりで『電車男』にあやかって『バス男』というストーリーとはほとんど関係ないタイトルでDVDが発売されています)。
・REARDEN STEEL
これはアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』に出てくる製鉄会社リアーデン・スチールのロゴをあしらったものです。デザインがもっと良ければこれで即決なのですが。
・John Deere
日本でいうところのヤンマーのような、農作業機械の会社の帽子です。田舎のオッサンなんかが被っているイメージで、この手のメッシュキャップとしてはいわば定番とでも言えるものです。
まあ買ってしまえば楽しみが減るので、せいぜい考えたいと思います。
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