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2006年4月の日記
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4月2日(日)の夜
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ここ数週間、寝る前や風呂で読んでいた小熊英二『「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』(1998)を読み終えました。小熊英二の本は僕にとって『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』(1995)、『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』(2002)に続いて三冊目ですが、例によってこの本も大変読み応えがありました。問題設定は「「日本人」とは、どこまでの範囲の人びとを指す言葉であったのか」、「その「日本人」の境界は、どのような要因によって設定されてきたのか」というもの。明治維新以後の沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮の統治をめぐる様々な立場の人びとの言論を検証しています。相変らず「読ませる」文章で、難しいことを考えずに興味をもってスラスラと読めてしまいます。僕はこの手のカルチュラル・スタディーズというか、国民国家、ポストコロニアニズム、抑圧・支配うんぬん言っている類の本は幻惑的で左翼の言葉遊び臭がして嫌いなのですが、小熊英二氏の著作にはそういうことはありません。ただ誠実に各時代の言論を網羅し、その意味を抽出していく骨太な研究です。専門家からすれば各論にいろいろと異議はあるのかもしれませんが、現代の日本においてここまでスケールの大きな研究のできる研究者は彼の他にはいないのではないかとすら思えてきます。
内容として多岐にわたっておりとてもここに書きつくすことはできないのですが、一つ大変関心したのは、「包摂は排除に劣らぬ支配の一形態である」ということ。保守派の論者はよく「日本は欧米諸国とは違って朝鮮を植民地として扱わず、朝鮮人も日本人とほぼ同じに扱った。現に朝鮮出身で日本軍の中将もいたし、衆議院議員もいた。」などと言って、日本の植民地支配を正当化しますが、この主張の前提には「差別しないことは良いことだ」ということがあります。しかしこの小熊氏の本では「差別しないこと」すらも暴力であるということが強調されます。もちろん「差別すること」が良いわけではなく、要するに自分を日本人と思いたく無い人を日本人の中に無理やり含めること自体に問題があるのです。変な例ですが、将来中国が日本に攻めてきて日本を占領し現在の生活水準を保証してくれつつも、「今日からお前は中国人だ」と言われたらどんな気分でしょうか。朝鮮にとってあの当時日本に支配されたことは、現実的に考えて確かに「仕方なかったこと」かもしれませんが、それでもやはり現代の日本人がそれを全面的に正当化することはできません。
あと少し関連して、僕の今までの印象としてアメリカ人は結構日本の経済成長は「アメリカのおかげだ」と普通に思っているような気がします。アメリカが戦後日本を占領し、民主主義や自由経済を教えてやり、気前よく経済的な援助をし、市場を開放し、軍事的に守ってやり、それによって現在の日本の繁栄があると。現在の日本があるのはアメリカが日本を占領してやったからだと。それにひきかえ多くの日本人は「プロジェクトX」に見られるように、持ち前の勤勉性を発揮して何でもかんでも戦後日本人が真面目に働いてがんばった結果、現在の日本ができたと思っているような気がします。そんな人が、上記のように思っているアメリカ人に会えばきっとムカつくことでしょう。「朝鮮は日本が占領したことによって豊かになった」、「女性を解放し、封建的秩序を解体し、庶民にハングルを教えたのは日本人だ」、「戦後の韓国の経済成長は日本がインフラを全て半島に残したおかげ」などと聞くと韓国人がムカつく気持ちが少しはわかるのではないでしょうか。ちなみに僕としては、日本の戦後経済成長は日本人の努力もさることながら、多くはアメリカのおかげだと思うし、韓国の経済成長にはやはり日本による半島近代化が大きいのではないかと思います。
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4月5日(水)の夜
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今更ながらですが、昨年話題になった佐藤優『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』(2005)を読みました(ちなみに最近よく本にamazon.co.jpのリンクを張っていますが、アフィリエイトとかそういうのをしているわけではありません)。内容は昨年様々な書評やブログで激賞されていたとおりに面白いものでしたが、主題とはあまり関係の無いところで心に残ったのが著者の「好きなこととできることは違う」という言葉。著者の場合、「好きなこと」とはアカデミックな研究で、「できること」というのは諜報活動であり、要するに「自分は諜報活動が得意だが好きでやっているわけではない。本当に好きなのはアカデミックの研究なのだ」ということです。僕はこれを自分に違う意味であてはめました。すなわち「自分は政治学を勉強するのが好きだが、これは得意なことではないのではないか」ということです。好きだけど得意でない。これはかなり悲劇的です。まああまり悲観的にならないようにしようと思います。
岩波の『世界』の1月号に「「沖縄処分」に反対する」といういかにも『世界』らしい反米、「反日」、反基地の特集が組まれており、何本か論文(?)が掲載されています。ちょうど先日読み終えた小熊英二の『日本人の境界』の影響もあっていくつか読んでみたのですが、やはりどうも肌に合わない。おそらくこれらの人々と小熊英二は思想をほぼ一にするでしょう。したがって僕のこの嫌悪感は内容というよりも書き方に問題があるのではないかと思います。例えば仲里効という文芸批評家の「「独立琉球」という想像力」という論文の一説。
戦争の記憶と経験を、周縁の立場から省察する、そのことによって召還される存在のカタチ、それはまぎれもない「飛び石」としかいいようがないものである。「飛び石」とはいわば、「帝国/植民地体制」と「冷戦/分断体制」によって引き裂かれた歴史的身体の空間化された名なのだ、といえよう。
何を言っているのかさっぱりわかりません。「召還」とかいう普段使わないような言葉をここでわざわざ使うのかわからないし、だいたい「飛び石」という比喩を使うことでますます意味がわからなくなってきます。何でこんな意味不明の文章を書くのか。実に衒学的です。これは単に僕の読解力が無いということなのかもしれませんが、この人の目が岩波知識人だけでなく沖縄の大衆に向いているのであれば、もっと分かりやすくかくべきです。それにこんな曖昧な書き方では、仮にこの文章のことが「よくわかる」という人がいても、本当に筆者の意図を理解しているのかかなり疑問が起こります。「「帝国/植民地体制」と「冷戦/分断体制」によって引き裂かれた歴史的身体の空間化」などというコトバを同じ意味で捉えるなんてほぼ不可能ではないでしょうか。要するに言葉が(そしておそらく論理も)厳密ではないのです。
思うにもっと数学的に文章を書くべきでしょう。数学的というのはもちろん「数学」や「数字」を使えというのではなく、例えば「私は〜という主張を行います。この主張は以下の価値判断と現状認識にもとづいています。どのようにして私の主張がこれらから導かれるのか示します」という風に、前提となる価値判断と現状認識を示したうえで、そこから論理的に誰が考えても筆者の主張が導かれるということを示すというスタイルです。これなら筆者がどのような価値判断や現状認識に依拠しているのかわかるし、もしそれがおかしいと思うのならそのように批判もできます。また論理がおかしいかどうかも比較的簡単にわかります。小熊英二の論文は割とこういうスタイルをとっているような気がします。だから思想的に合わなくても(前提となる価値判断や現状認識を共有しなくても)、好感をもって読めるのではないかと。
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4月5日(水)の夜2
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調子に乗って本日二回目の更新です。空間理論のクラスでのプログラムを使って、1995年参議院選挙時の有権者の二次元政治マップを作ってみました。この認知マップは、JESII調査におけるそれぞれの政党、政治家に関する0-100の感情温度計を用いた好感度にかんする質問(好感度が上がるにつれ高くなる)に対する有権者の回答を元にしたものです。有権者は15の政党、政治家について0-100で評価するわけですが、その評価をする上で二つの基準すなわち因子があると仮定しています。こうした仮定のもと、因子分析を行い二つの因子軸によって作られる空間上に政治家、候補者をプロットします(ここでは横路氏を中心においてそこから相対的な距離をとっています)。
見てのとおり、各政党とそれに属する政治家がだいたい同じ場所に位置づけられているという点で、妥当な感じがします。有権者の最適点の平均(Ideal Point Mean)に最も近いのがなぜかさきがけ、次いで社会党の横路氏。ただし全体としてみると野党の新進党や共産党に比べて自・社・さの与党は有権者の最適点に近いと言えます(ちなみにこのマップ上の「公明党」は、新進党に合流しなかった旧公明党の地方議員と参議院議員による政党で、正しくは「公明」)。
これらの因子軸は統計学的に割り出されたもので、それぞれの意味について現実政治に照らし合わせて後付的に解釈するのは研究者の仕事です。まずX軸に関してみると、左手に自民、右手に共産と来ていることから、これはどうやら伝統的な日本における「イデオロギー対立」を表しているようです。ただしそうなると、若干新進党が自民党よりも保守として認知されているということになります。一方でY軸を見ると、これは新進党と自・社・さが対立の中心であることから、「与野党対立」を表しているのかもしれませんが、あるいは「新党―既成党対立」を表しているのかもしれません(そうなるとさきがけが共産よりも自・社に近いのが説明がつきませんが)。
注意すべき点としては、あくまでもこれは「有権者の」認知マップであるということ。つまりこのマップが表すのは1995年当時、これらの政党と政治家は有権者からこのような分類をされていたということであり、現実に自民党と社会党が近かったかというのは別問題です。また空間理論における理論的予想として、各政党や候補者は有権者の最適点に収束するということがありますが、現実問題として政党は有権者の選好に関して不完全な情報しか持たないし、政党の背後にいる支持団体のことを考えれば必ずしも有権者の最適点に向かって動くとは限りません。その意味で新進党や自民党が有権者の最適点から結構離れているのもあながち不思議ではありません。ただしこのマップによると、さきがけや横路氏が一番支持を受けそうなものですが、実際そんなことはなかったわけでこの点に関しては疑問が残ります(つまりこのマップに現れている以外の要因、例えば政党支持や政治不満、経済評価が効いたということでしょうか)。
こうした分析の利点の一つとしては、有権者の間に無意識に潜む「隠れた争点」が見つけ出せるということが挙げられます。選挙においてどのような要因によって有権者は政党や候補者を評価し、投票態度を決するかというのはなかなか分かりにくいものです。政党や候補者にとって「次の選挙は有権者はこれで候補者を評価するぞ!」というのが分かればそれは大きなアドバンテージになります。その意味においてこうした世論調査データは政党や候補者にとって重要だし、それゆえ学術データの政治利用が禁じられているのでしょう(僕が日本の院に在学していたときに、京都の某陣営で某他大院の院生が学術データを使ってあれやこれ候補者のために分析していたという噂を聞いたことがありますが…)。
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4月11日(火)の夜
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学期も半ばを過ぎると例によって寝つきが悪くなります。どんなに睡眠不足でも、どんなに疲れていてもなかなか寝付かれず、一旦寝ても30分で目が覚めて、その後眠れなくなったりします。で、眠れぬ夜には読書ということで、勉強に関係ない読書ばかりが増えます。
今日読み終わったのが秦郁彦. 1998. 『現代史の争点』(文藝春秋)。著者の秦氏は日本の近現代史の研究者で、この本には南京事件、家永裁判、太平洋戦争をめぐる論争を扱った論文(過去に『諸君』や『文藝春秋』に掲載されたもの)が収録されています。秦氏の立場はいわゆる左派とも右派とも言えないもので、例えば南京事件ではアイリス・チャンを批判し、写真の捏造を指摘し、中国に追従する日本人研究者を「自虐派」と呼んだかと思えば、一方で渡部昇一ら「マボロシ派」の議論のいい加減さも指摘し、彼らが南京事件で虐殺された人数についてはっきり言わないのを批判します。家永裁判では、国側の承認として国が家永教科書に対して731部隊に関する記述を削除するよう求めたことを擁護する発言を行う一方、「日中戦争に三分」、「日米戦争に四分」、「満州事変には一分の理もない」としつつ、大東亜共栄圏が後付であったとするなど右派の意見とは真っ向から対立します。また盧溝橋事件に関しては右派の「中国が仕掛けた」、左派の「日本が仕掛けた」に対して「偶発的だった」と主張します。こういう人物は右派からも左派からも結局嫌われ、「あいつは信用できない」となるわけです。しかしそれはいわば学問に忠実であろうとすれば避けられないことだと思います。どちらかの政治目的にとって常に良いことを言い続けることなど、学問に忠実ならばほとんど不可能です。もしそれができるのなら、それこそ特定のイデオロギーのために研究していると思われても仕方が無いでしょう。
で、このように左右両派とも自分たちのイデオロギーに奉仕する歴史作りに勤しむわけですが、著者がそれを批判する上でのポイントが両派では微妙に異なることが興味深いです。右派はとにかく不勉強。基本的な歴史的事実の誤認が多いようです。考えてみれば渡部昇一(英語)、中村粲(英語)、藤岡信勝(教育学)、西尾幹二(ドイツ語)と右派の論客には歴史の専門家がいません。一方で左派は丹念に資料に当たり、知識は正確で豊富であるものの、解釈がどうにも素直ではないようです。
今日の夕方、コミュニケーション専攻の大学院生の友人に頼まれてクラスのプロジェクトに参加しました。それは「ダイアログ」と呼ばれるもので、学生二人が仕切り役となって、参加者に対してイラク戦争に関しておのおの意見を言わせるという感じのものです。説明によると「議論」ではないらしく、他人との意見交換とのことです。僕が参加したグループは仕切り役の女子二人に、参加者として僕の他、いかにもフラタニティから来ましたという金髪の男子、いかにもソロリティから来ましたという金髪の女子、それにヒスパニック系の女子というメンバーで、僕以外は全員undergraduateでした。
後で聞いたところによるとこれは「紛争解決」というクラスのプロジェクトとのことでしたが、一体何が目的なのか最後までよく分かりませんでした。仕切り役と言っても大して論点を提示するわけではなく、「イラク戦争に関してどう思うか」とか漠然とした質問を何の考えもなしに参加者にぶつけるという感じで、あまり誰も積極的に口を開こうとはしません。僕としても僕はだいたいアメリカ人ではないし、そんな外国人がアメリカでアメリカ人の前でアメリカの政治についてとやかく言うのは好ましく無いと常々思っているので(日本人じゃない人が日本で日本の政治ことをとやかく言うのも僕は聞いていて不愉快になります)、かなり控え目です。それに政治雑誌を通じて常々リベラルからコンサバからネオコンからリバータリアンまで様々な意見に接していることから、今更何を言ってもありふれた陳腐な意見のような気がします。
それでもあまりにも場が盛り上がらないので、一応いくつか発言しました。僕が言ったことの一つは「陰謀論みたいなものかもしれないけど、ブッシュ政権の人たちが軍需産業や石油産業と繋がっていて、自分たちが儲けるために戦争を起こしたと言われている。これは本当かどうかはわからないけど、少なくともそのように疑うだけの理由はあるような気がする。こうした状況は市民に政府への信頼を失わせるという点で問題だ。とりわけ戦時においては政府はこのような思いを市民に抱かせることのないよう努めるべきだ」ということでしたが、これに対して仕切り役の女子の一人はえらく反応してなぜか話が資本主義の批判になりました。何か留学生としての僕の発言をリベラルに利用された気がしたので、ちょっと本心とは異なりますが、「僕は資本主義もアメリカ合衆国憲法に見られる精神も大好きだ。問題はそれらに沿って政治が行われていないということだ。権力の座にある人がその力を利用して利益を得ることと資本主義は関係無い」と反論すると、彼女は少し悲しそうな顔をしていました。
と、こんな感じで終始グダグダと1時間くらいダイアログは続きました。それにしても思ったのが、アメリカの学生の政治知識、政治関心の無さです。まあ考えてみれば日本の学生も普通はこんな感じなのかもしれませんが。
あと先日の小沢一郎氏の民主党代表選での演説にあった、靖国神社におけるA級戦犯に関する議論はなかなか新鮮に思えました。A級戦犯はずっと内地で戦争を指導していただけで戦場で死んだわけではない。そんな人たちを戦場で無くなった兵士たちと一緒に祀って良いのか、と。いわば右派のレトリックを使ったA級戦犯合祀批判です。これなら「A級戦犯は戦争犯罪人だから合祀は好ましくない」という理屈では無いので一応、日本の面子も保てます。まあでもそんなこと当の靖国神社は認めないでしょうけど。
今日ようやく税金の書類を郵送しました。最初計算したところ例年通り"Tax return"どころか200ドルちょっと追加で支払うことになりそうでしたが、よく見たところなぜか日本とアメリカとの条約で2000ドルまで非課税分が書類上考慮されていなかったので、その点を考慮して計算すると結局100ドルちょっとのリターンとなりました。本当にこれで良いのかどうかわかりませんが、とりあえず説明書きとともに郵送しました。ちなみに日本とアメリカの条約で在米5年までは2000ドルの控除が受けられます。僕は今回が5年目の申告なので、まだこの条約の恩恵は受けられるはずです。ただしこの条約は昨年の1月以降にアメリカに住み始めた日本人から適用されなくなったようで、おそらくこのへんの手違いによって僕の今回の問題も生じたのではないかと。
ちなみに2004年の給与所得は課税前で16,893ドル、2005年は17,877ドルとなぜか1,000ドル近く上がっていたようです。これは経験を考慮した上での昇給なのでしょうか。いずれにせよありがたい話です。もちろん上を見ればキリが無いですが、テキサス大学の政治学部のTAは財政的にまだ恵まれている方なのではないかと思います。ある教授が言うには、この給料にさらに授業料免除と健康保険がついているわけで、それで週20時間というハーフタイムの労働となれば、単純に倍にすると、古典(Classic)などマイナー学部のAssistant Professorの給与よりも高くなるのではないかとのことです。
眠れぬ夜につれづれなるままに長文を書いてしまいました…。
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4月15日(土)の夜
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現在午前4時…。例によって眠れません。
金曜の晩は、主にundergraduateの学生からなるJapanese Associationのパーティに行ってきました。先学期と同様、ダウンタウンのクラブ貸切です。僕は、くんずほぐれつで踊りまくる若人を前にして自分が完全場違いという前回の苦い経験を踏まえて、今回は行かないつもりだったのですが、僕同様何一つ前回良い思い出が無かったはずの某H先生が行きたいとのことでお付き合いさせていただくことに。開始時間はよく分からなかったのですが、とりあえず11時くらいにH先生の車でundergraduateの男子と女子の計4人でクラブに到着。するとスタッフ以外ではほぼ一番乗りでフロアはがらがら。ようやく盛り上がってきたのは深夜0時を過ぎたあたりからでした。例によってUTには日本人が少ないので、フロアを埋め尽くしたのは白人のアメリカ人とアジア系のアメリカ人たちで、傍から見ている分にはJapanese Associationの集まりには見えません。踊りも日本人とは違ってかなり激しく、特にカップルなんかで踊っている場合には目も当てられないことになっていて、思わず割って入って「教育的指導」を与えたくなるくらいでした。日本人留学生もアメリカ人とカップルになっている場合なんかは、「郷に入れば郷に従え」とばかりに、日本のクラブではあり得ないくらいにハメを外してハッスルしています。アジア系アメリカ人の女子なんかも普段大学では真面目だろうに、こういう「ハレ」の場所では露出の高い格好をして乱舞していて、こんな彼女たちを見た日には親御さんは卒倒するのではないでしょうか。
僕とH先生はいつも一緒で、当然のごとくフロアのくんずほぐれつ状態とは無関係に取り残され、「こうなることは最初から分かっていたはずですよね?」「perfect foresightだったな!」「こんなんはカップルで来るもんなんですよ…」「わかってて来るなんて我々はとことんマゾだな」「はいはいワロス、ワロス」などとニヤケながら「自虐」を楽しみつつたたずんでいました。ふと見ると、一緒に来た週末ボードゲーム仲間のundergraduateの男子(仮にSくん)も、眠そうにぼんやりしています。「さすがに我々とつるむだけのことはある。その意気や良し!」と感心して僕は見ておったわけですが、そんな彼に見知らぬアジア系アメリカ人の女子が忍び寄り、手招きしました。そして彼はその彼女の誘いに乗りフロアへ。彼女は彼の首に手を回し、彼は彼女の腰を抱いています。そのうちどんどんエスカレートして二人は…。最初は面白がって見ていた僕とH先生ですが、ついにいたたまれなくなって一旦外へ出ました。このまま彼を放置して帰るか!?、などといろいろと謀議を張り巡らし、不毛な議論を戦わせていたわけですが、そうして小一時間も過ごしていると、Sくんがトイレに入っていくのが見えました。出てきたところを待ち伏せして背後を襲い、そのまま外に引きずり出して「この裏切り者がっ!」と一喝。しかし彼はノリ悪く、しらーっとした目で「ちょっとトイレって言って出て来ただけですから」と、僕とH先生を残して彼女の待つフロアへと帰っていきました。
2時過ぎになってパーティは終了。結局当然のごとく最後まで何も良いことなんてありませんでした。「もし将来自分に娘が出来ても留学させるのは考え物かも」との思いをさらに強くして帰宅しました。で、朝8時まで眠れず…。
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4月18日(火)の夜
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明日19日(水)より22日(土)までシカゴで行われる中西部政治学会に行ってきます。発表する論文はテキサスA&Mの後輩のMくんとの共著で、互いの博士論文に全然関係無いものなのである意味気楽に発表できそうです。ただし議論の中身としては、憲法の世論への影響の国際比較というもので、サブスタンティブに面白いと思われるし、その割に先行研究を調べたところ実際一つも類似のものは見つからなかったので、どの程度可能性があるのかディスカッサントのコメントが楽しみです。大げさですがこういう「世に問う」というのが学会発表の意義なのかなあと思います。とはいえ、こんな長期間にわたってオースティンを離れるのは時期的に痛いし、心苦しいですが。
昨日、夜中部屋で勉強しているとどこからかカリカリと音がし始めました。蜂か何かが迷い込んだのか、通り雨が窓を打ち付けているのか、あるいは枯葉が窓に当たっているのか。しかし音はキッチンの方からしているようで、確認してみるとなんとゴキブリがカップラーメンの容器をかじる音でした。僕は意外なことに部屋でゴキブリを見たのがこれが初めてだっただけに、なんでこんな大きな音がするのかと衝撃的でした。急いで殺虫剤を取り出し、噴射。するとあり得ないほどのスピードでゴキブリは隠れました。大して殺虫剤もかかっていないし、これはまだまだ元気だな、と思って諦めたのですが、しばらくして台所に行くと、このゴキブリが明らかに弱った姿ではいずりまわっています。テキサスのゴキブリはパワフルですが、アメリカの殺虫剤はさらに強力のようです。さらに殺虫剤で追い討ちをかけると、10秒もしない間に完全に動きが止まりました。日本の殺虫剤だといくらかけても数時間は完全に動きを止めるまではいかないと思います。さすがアメリカです。
TAのクラスでは、現在分散不均一性や系列相関を勉強しているのですが、僕が受講生ときと比べて、教え方が結構違っています。これはEITMの影響です。EITMは"Empirical Implications of Theoretical Models"の略で、要するに理論モデルのインプリケーションとして、実際のデータに関する仮説を導くというものですが、一方で"TIEM"すなわち"Theoretical Implications of Empirical Models"とも言われ、経験モデルのインプリケーションとして、理論を導くということも重視されます。この考えにもとづけば分散不均一性や系列相関はまさに「経験モデルの理論的インプリケーション」であり、従来であればこれらはGLSなどを使っての修正の対象となるべき単なる「邪魔者」でしたが、最近ではこれらを理論へとフィードバックして、より適切な理論を作るための材料として用いられるようです。授業でもこの点が強調されています。
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4月23日(日)の夜
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昨日シカゴから帰ってきました。19日水曜日は8時半にアパートを出て、大学の図書館で機内で読むための横溝正史『獄門島』を借り、学部でプレゼン用のスライドを作って空港行きのバスに乗り込みました。空港に着いたのは10時ごろで、11時45分のフライトにはまだ時間があるので空港内のカフェでコーヒーとクロワッサンでかなり早い目の昼食。飛行機は時間通りに飛び、2時20分ごろシカゴに着きました(ちなみにオースティンとシカゴは時差無し)。同じ飛行機に同期の学生がいたので、彼と一緒に地下鉄でシカゴの中心部へ。彼は5年で博士論文を書き終え、来学期からテキサスの別の大学のAssitant Professorになります。彼からいろいろと博士論文執筆について聞いたのですが、結構苦労した模様。傍から見れば順風満帆だっただけに意外な感じがしました。彼はUTの政治学部をとことん嫌悪しており、「出れてせいせいする」などと言っていました。彼の言わんとすることは僕もとてもよく分かります…。
1時間弱でシカゴの中心部へ。僕の泊まるホテルは学会の会場となるヒルトン・パルマーホテルという高級ホテルから3ブロックほど南へ行ったところの安ホテルです。三晩、テキサスA&MのMくんと、僕が日本で院生をやっていた頃以来の付き合いとなるUCLAのK谷さんとシェアするのですが、彼らは僕よりも後にシカゴに到着するので、僕が先にチェックインしました。彼らの到着まではまだ3時間くらいあったので、とりあえず学会会場のホテルに行って、レジストレーションをすることに。プログラムを持って近くのチャイニーズファーストフードで中途半端な夕食をとり、ホテルに帰って風呂に入りベッドで寝ていると二人が到着しました。とりあえず、歩いて夕食へ。シカゴの繁華街にあるオシャレな日本料理店で僕は野菜てんぷらとアボカド巻きを食べたのですが、量が少ない割に高く、不満の残る内容でした。この夜は特に何をすることもなくホテルに帰り、就寝。
翌朝、9時くらいに起床して、K谷さんは発表のため学会会場のホテルへ向かい、僕とMくんは近くのマクドナルドで、翌日の共著論文の発表の打ち合わせ。昼には発表を終えたK谷さんと、来学期からカルテックへの就職が決まっている東海岸の日本人院生のUさんを交えて食事。その後、MくんとUさんは自分の発表があるので、学会会場に向かい、僕とK谷さんはシカゴ大学観光に出かけました。シカゴの中心からシカゴ大学へのアクセスは電車とバスがあり、電車は昼間は1時間に一本も走っていないくらいでしたが、時間を事前に調べて要領よく行くことができました。シカゴ大学といえば危険な地域にあることで有名です。かなりびびっていたのですが、実際駅からキャンパスに向かう限りでは全然そんな感じもせず、いたってのんびりとしたものでした。ただし59th St.という駅のある通りが幅の広い緑地帯になっていて、ここを南に行けば治安が悪くなるような気配が感じられました。シカゴ大学は周辺のスラム化を少しでも抑えようと、廃屋を買い取っては大学院生用の寮にしているそうです。そうすると必然的にその「寮」は危険な地域にあることになります。僕が早稲田大学に交換留学していたときにお世話になった政治思想の先生はシカゴ大学留学時代、毎朝寮を出るときにスニーカーの靴紐をきつく縛って、走って大学に通っていたそうです。あと路上で襲われて血まみれで寮に帰って来た学生がいたとか…。
とりあえず最初、シカゴ大学のシンボル的存在であるRockefeller Memorial Chapelに行ってみることに。シカゴ大学はキリスト教系の大学だけあって、このチャペルをはじめ、荘厳な雰囲気の建物ばかりです。UTのような公立大学には無い重みを感じました。で、シカゴ大学と言えば、政治思想と経済学。前者はシュトラウス、後者はハイエクとフリードマンなど、両方ともシカゴは保守の学派として有名です。別に何するわけでもないものの、ぜひとも政治学部と経済学部を見てみたいと思ったのですが、事前にどこにあるのか調べて来なかったので、結局よくわからず断念。適当に"Social Science Research"という建物をうろうろしていました。
次にぜひともお土産としてシカゴ大学グッズが欲しい。でもカフェテリアのある建物とか生協のブックストアで探すも全然グッズが売ってない。そういえばキャンパスを歩いている学生も全くシカゴ大学グッズの衣類を着けておらず、半分近くがUTグッズを身に着けているUTの学生とは大違いです。シカゴ大学は鬼の"research university"で、前世紀の初頭に予算を研究に回すべく、アメフトチームを潰したくらいで、スポーツは盛んではなく、したがって大学グッズもあまり人気が無いのかもしれません。それでも何か欲しい…。ということで、恥を忍んで通りがかりの学生に聞いてみることに。すると大学近くのバーンズ&ノーブルズに大学グッズのコーナーがあるらしいとのこと。早速行ってみると果たして、大学グッズのコーナーはあり、マグカップを買うことができました。
帰りは適当にキャンパスの北側を歩いて、着いた駅よりも一つダウンタウン寄りの駅から電車に乗り、ダウンタウンへと帰着。Mくんと合流し、またUT政治学部の「第三の漢」ことWさんも呼び出し、4人でピザを食べに歩いて繁華街へ。シカゴといえば底の厚いディープ・ディッシュピザです。行った店は有名な店らしく混んでいて、席に着くまで20分くらいかかりました。僕はディープ・ディッシュピザは初めてだったのですが、まあシカゴで食べるには良いものの、別にこれをしょっちゅう食べたいと思うような感じではありませんでした。一緒に注文したサラダはまずかったです。ピザ屋を出た後、ジャズに詳しいK谷さんの案内で、ジャズクラブへ。K谷さんいわく、「ベタな選曲で退屈」とのことでしたが、ジャズのことなんてちっともわからない僕にとってはかえって良かったと思います。それにカバーチャージは10ドルと安かったし。その後、10時半頃に店を出て歩いてホテルへ帰り、就寝。
翌日はいよいよ僕の発表。ところが起床したのがすでに11時で、1時45分からのパネルまでそんなに時間がありません。例によってマクドナルドで最終的に詰めた後、ホテルへ。もう学会発表は何度もしているので大して緊張はしません。決して最高の発表が出来るとは思えないし、改良の余地はあるのは当然ですが、それでもまあ何とか無難に終わる自信はあります。パネルのテーマは福祉政策への有権者の支持ということもあってか、4人の発表者は僕以外全員女性でした。発表の後、質疑応答のセクションでは結構、好意的な意見と改善すべき点についてのサジェスチョンをもらえました。論理の展開や手法など細かい点は置くとして、着眼点は新しく、大きくは納得のいく議論であるという印象でした。
発表後は、Mくんと、別のパネルで僕らと同じ時間に発表したWさんと近くのカフェで反省会。で、5時半に学会会場のホテルのロビーで待ち合わせて日本から来た某先生とアメリカ在住の院生3人とで某企画に関する打ち合わせをし、その後K谷さんも交えてバーで飲み。9時からはさらにノーステキサス大学のM田さんの呼びかけによる日本人飲み会に参加し、12時ごろホテルに帰りました。翌朝土曜日は、MくんとK谷さんはフライトが早いため早々にシカゴを発ち、たまたま同じ午後の便でオースティンに帰る僕とWさんはシカゴ美術館を午前中見学し、帰途に就きました。
と、このように人と会ったり、遊んでばかりだったような気がします。言い訳ですが、プログラムを見て面白そうなパネルがあれば行く気まんまんでしたが、どうもそんなパネルは見当たらなかったというのもあります。まあ学会参加の目的には「人と会う」、「モチベーションを高める」ということもあるし、その意味では意義深い学会だったと思います。
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4月24日(月)の夕方
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EITMのアプローチを使った僕にとっての始めてのペーパーに関して、モデル作りもデータ分析も終わってなかなか良い結果が出たので、先学期のEITMのクラスの先生にアウトラインを見てもらいました。するとかなりの好感触で、「書けたらどこかのジャーナルに送るべきだ」とのこと。ほんと、どこでも良いから英語のジャーナルにこれを載せたいものです。まあ博士論文と全然関係無いのが痛いですが。
ちなみにこの先生はUTでの就職を希望していたものの、愚かにもわが政治学部はそれを蹴ったため、彼は他大に職を得ることになりました。UT政治学部はなぜかどんどん政治思想に傾斜しており、方向性を間違っているとしか思えません。政治思想なる学問はハーバード、イェール、プリンストン、シカゴのような東海岸のスノッブな大学ですべきであって、テキサスなんていう文化の香があまりしない荒くれの土地ですべきものでは無い気がします。
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4月27日(木)の夜
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最近はオフィスではなく図書館で勉強しているのですが、6階の一番隅にいることが多いです。当然あまり人気が無いわけですが、今日も例によってそこで勉強していると、イスラム教徒らしきヴェールをかぶった女子学生がやってきました。そして椅子に座るでもなく、壁に向かって立つと、いきなり靴を脱ぎ、礼拝を始めました。イスラム教徒らしき学生はキャンパスで割と見かけますが礼拝しているのを見たのはこれが初めてです。この学生は結構「本式」でやっているのか、何事かをつぶやきながら立ったり座ったりを繰り返し、結構時間がかかっています。まあオースティンはまだマシかもしれませんが、このご時世、キリスト教原理主義が跋扈するテキサスで敬虔なイスラム教徒として生活するのはいろいろと大変だろうなあと思いました。しばらくして礼拝が終わると、彼女はすぐにその場を立ち去って行きました。おそらくわざわざこのために人気の無い所まで来たのでしょう。
しばらくぶりに「メッシュハット欲しい病」が復活し(結局前回は買わなかった)、ネットでいろいろ物色しているのですが、なかなか良いのが見つかりません。ただ一つ「これは!」と思ったのが、今は無き近鉄バファローズの80年代の野球帽。なぜかアメリカのサイトで売られていました。かなり心動かされたのですが、こんなもの買っても日本じゃ絶対に被れないし、アメリカでもかなり微妙です。なのでたぶん買わないと思います。しかし大人がメジャーリーグのチームの野球帽を被るのはおかしくないのに、日本の野球チームの帽子を被るとおかしいのはなんでなんでしょう!?。
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4月28日(金)の昼
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さっき学部の事務室からメールが送られてきて、来年度もTAができる模様です。僕が言うのも何ですが、6年目だというのにやはりUTは財政援助の基準が甘いと思います。前にも少しここに書いたとおり、このTAのオファーを蹴って、来学期は研究に集中すべきか…。絶対に来年度にはPh.D.を取得したいです。昨日実は少し良いことがあって、アドバイザーの一人の先生に研究状況を見せたところ、「来学期には完成できそうだな」と思ってもみない感想を頂けました。僕の研究はトピック的にも手法的にも絶対に新しいし、ある意味投票行動研究の新しい地平を切り開けるのではないかと妄想しています(ていうか、それくらいじゃないとモチベーションが沸かない)。研究し尽くされ、鉱脈を掘りつくされた安易な博士論文のトピックを選ぶ同期が多い中で、僕の研究は新しい鉱山を開発するようなものだと。すでにその鉱山の予定地に調査に入った有名な山師(研究者)は数人いますが、そこが本当に後の人が続けるような埋蔵量を誇る鉱山なのかは今のところ不明です。僕がその鉱山がすごい鉱山だということを示したい…。
と、妄想+大言壮語してしまいましたが、まあ正直なところこれくらい思わないと精神的にやっていけないというのが本当のところです。ここ数年自分の能力不足にもかかわらず、この分野にこだわって時間や労力を投資してきたのですが実際成果らしいものは上がっていません。就職のための数を稼ぐための日本でのパブリケーションも全て博士論文と関係の無いものです。成果が上がりにくい分野だとは最初から思っていましたが、正直そろそろ結果を出したい…。
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4月30日(日)の昼
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近年ますますアメリカで問題となってきている年間80万人にも上るメキシコ人不法労働者の問題に関する記事を、各種政治言論誌から拾ってみました。
リベラル主流派のNew Republic誌1月16日号の"Border War: The fight over immigration is a fight over identity"(by John B. Judis)という記事では、メキシコ人不法移民問題は経済問題ではなく、文化問題であると指摘されています。メキシコ不法移民反対派によると「不法移民によってアメリカ人の職が奪われている」ということですが、実際それは全米に問題をアピールするためのタテマエであって、実際例えば最近保守派市民団体による国境監視で話題になったアリゾナ州ですら、農場や建設業、ホテル・レストランで働く人が足りていないそうです。問題の核心はアメリカの"Mexicanization"に対する恐れにあります。メキシコ人はアメリカに来てもアメリカ文化に同化せず、自分たちがメキシコ人であるというアイデンティティを失わず、スペイン語を捨てようとはしません。国境監視団体のメンバーの主張によれば、「メキシコでは、アメリカ南部はメキシコから「奪われた」と教えられており、アメリカ合衆国がそのために大金を払ったことは教えられていない。だからメキシコ人はその土地を奪い返したいと思っているのだ」とのことです(ちなみにこうした国境監視団体は、おそらく自分たちのやっていることの正当化として、国境監視を通じてテロリストがアメリカに入り込むことを防ぐ、というのを掲げており、彼らによるとパキスタン人やイラク人がメキシコ人に紛れて国境を越えているとのことです)。こうしたメキシコ人が同化しない傾向は、昔のヨーロッパからの移民が祖国を捨ててアメリカに渡ったのに対し、彼らのほとんどがいわば「出稼ぎ」としてアメリカに来ているということに起因するようです。1965年から1985年にアメリカに来たメキシコ人不法労働者2800万人のうち、2340万人はメキシコに帰っているとか。近年の国境警備の強化は、すでに国内にいるメキシコ人不法労働者に一旦国に帰れば再びアメリカに出稼ぎに来れないという思いを募らせ、かえってアメリカにいる不法移民の数を増やしているそうです。
この記事では解決法として二つ挙げられています。まず一つ目として、アメリカ人が二文化主義(Biculturalism)を取り入れること。二つ目に、アメリカとメキシコの経済格差が無くなること。しかしこのどちらも近い将来は無理だよなあ…、とこの記事は悲観的な終わり方をしています。
急進リベラルのNation誌2月15日号の"Envisioning Another World: Integracion Desde Abajo"(by Roberto Lavato)という記事では、移民リーダーの声を好意的に紹介しています。移民リーダーたちは基本的にアメリカの移民政策を人種差別に満ちたものとして非難しています。つまり、アメリカ人が移民に反対するのは経済問題ではなく、人種問題だと考えているのです。こうした活動家たちはEUをモデルに、南北アメリカ大陸において人々が自由に移動できる経済圏を提案し、国境を越えた移民の連帯でアメリカ政府に圧力をかけようとします。
しかしこれを進める上で三つの障害があると言います。一つはアメリカ国内における白人アメリカ人に率いられた移民の権利のための団体における「人種主義と外人恐怖症」。こうしたアメリカ国内におけるアメリカ白人による移民政策改革団体はクリスチャンの非営利団体に基礎を置いていますが、彼らにしても当事者である移民のリーダーたちからの提案を無視する傾向にあると言います。自ら「移民問題の専門家」を自負する白人アメリカ人たちは、移民の能力を過小評価しているのです。第二に、アメリカにおける複雑な立法過程。例えば議会の司法委員会で作成される移民政策は国際関係委員会とは何のつながりもありません。第三に、「国民国家パラダイム」による議論の限界。人びとの思考様式に「国民国家」が存在する限り、移民問題は各国ごとに解決されるべき問題となってしまいます。しかし実際は「移民は地球規模の原因をともなった地球規模の問題であり、地球規模の解決を必要とする問題である」とのことです。
保守主流派のNational Review誌4月24日号の"A Two-Step for America: Addressing our immigration problems"(by Kate O'Beirne)という記事では、移民問題に関して共和党はどのような立場をとるべきかが語られています。まず筆者は、「国境警備の強化はわれわれの移民の祖先に対する裏切りだ」とする意見を批判し、武装民間団体による国境警備活動を擁護した上で、アメリカは「合法」移民による国だと主張します。アメリカ人の多くは、移民問題を経済問題としてよりも安全保障問題としてとらえており、不法移民をより厳しく取り締まることに対して好意的な意見をもっています。不法移民に対して更新可能な3年の就労ビザを与えるという案を支持する人々は、その理由として「国境を取り締まれないから(いくら厳しく警備したって国境は長いし、カネがかかるばかりで不法に国境を越える人は減らないから)」と言いますが、そういう人々は最初から努力を怠っているのだと、筆者は批判します。いくらでも国境警備、入国管理を厳しくする手立てはある。例えばニセの書類を使って多くの人びとが移民しており、1990年代初頭から2004年にかけて94人の外国人テロリストのうち3分の2がこの抜け道を利用したが、これを厳しく取り締まれ。こうした対策を行い、国境警備を万全にし、入国審査が強化されて不法移民取り締まりに最善を尽くして初めて合法移民にかんする議論を開始せよ。合法移民の審査においては、アメリカに同化し、英語を学ぶことによってアメリカ人になることへの強い希望を持った者のみを対象とせよ、とのことです。
最後、リバータリアンのReasonの"America's Criminal Immigration Policy: How U.S. Law punishes hard work and fractures families"(by Jesse James DeConto)では、ノースカロライナの農場で働くメキシコ人カップルの不法労働者の生活を淡々と描いています。政治的な主張は表面には出てきませんが、サブタイトルにあるとおり、「こんな真面目に働く個人が報われないなんておかしい!」という主張が根底にあると思います。つまり国家という巨大な存在の前で個人が脅かされている、その象徴としての移民問題を描いているように思います。勤労はリバータリアンにとっての徳目の一つで、その勤労の成果を国家が奪うことに関して反対するのがリバータリアニズムの骨子です。
以上の異なる政治的立場から書かれた記事を比べるに共通して言えることとして、移民問題は初期に言われていたような経済問題ではないということが挙げられます。保守派は最初移民に対して「アメリカ人の職を奪う」という立場から反対していましたが、もはやそれは妥当ではないことがはっきりしてきました。オースティンでもメキシコ人が働く職場はだいたいが建設業や掃除といった、アメリカ白人が働くのが想像できないような職場であり、とてもアメリカ人の職を奪っているとは思えません。むしろ労働法の適応も受けず3K現場で低賃金でこき使えるメキシコ人はアメリカ経済を支えているという状況です。したがってリベラル派からすれば、「アメリカはメキシコ人を都合の良いようにこき使うだけ使っておいて、市民権は与えようとしない!」となるわけです。これに対して保守派が移民に反対を唱えるのはやはりNew Republicの記事が伝えるようにアメリカのメキシコ化、同化しないメキシコ人に対する人種的、文化的偏見によるものだと思います。しかし人種主義はもはや政治的主張が寄って立つイデオロギーにはなりえません。そこで代わって保守派が出してくるのが、「移民を制限して、国境を警備しないとテロリストが入ってくる」とかの安全保障上の問題です。でも、これも苦しい言い訳であるのが現状。そこで出てくるのがNational Reviewの記事にもあるとおり、とにかく彼らは「不法」なんだからダメ!という主張です。こう言うことで「移民の国」であるアメリカの国家としてのアイデンティティを保護しつつ、現今のメキシコからの不法移民に反対できるというわけです。
またこうした移民問題は、NationやReasonの記事にも示唆されるとおり、国家とは何かという問題も含みます。個人がより有利な労働環境を求めて国境を超えるのがなぜ悪いのか、なぜ個人を国籍によって差別するのか。より抽象的な次元で考えれば、「人間は全て平等であるべきだ」というリベラリズムの考えと、「人間は同じではない」という保守主義の考えとの対立です。前者はどこにも存在しない観念としての「個人」を想定し、それらは平等に取り扱われるべき天賦の権利をもつと考えていますが、後者において「個人」とは具体的に男か女か、美しいか醜いか、アメリカ人か日本人か、金持ちか貧乏かといった属性を背負っており、権利もそれぞれの国によって与えられる政治的なものです。したがって前者が「アメリカ人で働きたい者には他のアメリカ人と<同じ>待遇を与えよ」「アメリカに住みたい者には他のアメリカ人がそうしているのと同様、好きな言語で話し、好きな生き方をさせよ」となるのに対し、後者は「アメリカ人とアメリカ人でない者を異なるやり方で遇するのは当然」「もしアメリカ人になりたいのなら、自分の今までの言語や習慣を捨て、アメリカ人になれ」となるわけです。
僕はというと、僕がもしアメリカ人ならNational Reviewの考えに賛成です。やはり国家や共同体の一員は自分たちの「仲間」がどのようであるかをある意味理由も無く決める権利をもつべきだと思うし、市民権取得希望者を自分たちの基準で審査し、人数を制限する権利をもつべきと思うのです。いくら不法労働者のメキシコ人がアメリカで搾取されているとはいえ、彼らは別に拉致されたわけでもなく、自ら希望してアメリカに来たわけであり、彼らの身分がいくらかわいそうだといっても、彼らがアメリカ人と同じ待遇を受けることを望むなんて虫が良すぎると思います。共同体というのは文化や言語をある程度共有してこそ共同体としての機能を果たせるわけで、新しくそのメンバーになる者に対して、言語や習慣を同化させることや忠誠心を求めるのは当然だと思うのです。僕も留学生として、つまりアメリカ国籍を持たない者として理不尽な扱いをアメリカで生活する上でときどき受けることはありますが、それは仕方の無いことだと思います。その意味で最悪だと思うのがThe Nationの記事。いわゆる「地球市民」型の議論で、「国境を無くそう」、「僕らはみんな同じ人間なんだ!」「差別は良くないよ!」という典型的な空想的な左翼の議論となっています。きっと「移民労働者の国境を越えた連帯」などを企む左翼活動家が暗躍しているのではないでしょうか…。
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