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2006年5月の日記
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5月3日(水)の昼
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昨日、最近ハマっているJack in the Boxのブルーベリー・フレンチトースト・スティックを食べようと店に行ったところ、「従業員の事情で休業します」と張り紙があり、閉まっていました。Jack in the Boxといえば24時間営業のファーストフードです。それが閉まるなんてあり得ないし、きっと営業不振でこの店が無くなるということでは、と思いました。ところが今日行ってみると普通に営業している。で、思い浮かんだのが5月1日に全米で行われた計100万人にも上ると言われる移民によるデモ。これは現在議会で審議中の不法移民規制法案に反対するもので、(不法)移民を労働者として多く抱える都市ではレストランや工場などの休業が相次いたそうです。おそらくオースティンでも似たようなイベントが2日にあり、このJack in the Boxの従業員たちもそれに参加したのではないでしょうか。テキサスにあるファーストフードレストランの従業員はたいがいヒスパニックです。彼ら全員が職場を放棄すれば営業を続けられるファーストフードなどほとんど無いのではないでしょうか。
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5月5日(金)の昼
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今日の午前中、政治学部であったRutgers UniversityのRichard R. Lau教授のトークに行ってきました。Lau教授はハードコアかつ伝統的な政治心理学者で、現在の政治心理学者の中では僕は最も好きです。トークの内容はこの夏に出版されるRichard R. Lau and David P. Redlawsk. 2006. How Voters Decide: Information Processing During Election Campaigns. New York: Cambridge University Pressという本についてで(ちなみにRedlawskはLauの弟子で、現在アイオワ大学)、この本の中で教授は選挙における個人の意思決定を4つのモデルに分類しています。
第一のモデルは「合理的選択:冷静な意思決定」であり、このモデルにおいて有権者は全ての可能な選択肢についてできるだけ多くの情報を集めようとします。そして意思決定の方法としては、それぞれの選択肢に付随するポジティブな結果とネガティブな結果を考慮します。動機は自分の利益です。選挙における決定のためのインプットは主に経済に関する業績評価など回顧的なものと、候補者の政策位置など将来の予測とにもとづきます。
第二のモデルは「社会化された態度と認知的一貫性:確認的な意思決定」であり、このモデルにおいては情報収集はマスメディアの接触を通じて無意識的かつ受動的に行われ、そのメッセージの認知は政党帰属意識によってバイアスがかけられます。意思決定の方法は、選択肢に関してすでに知っていることあるいは最近知ったことに関するmemory-based(記憶の底にある情報を参照する)あるいはon-line(そのときたまたま頭の中にある情報を参照する)の評価のいずれかであり、その動機は認知的な一貫性を得ることにあります。選挙における主なインプットは候補者の所属政党となります(政策位置、経済評価、人物評価は正当帰属意識のフィルターを通して行われる)。
第三のモデルは「認知心理学と限定的合理性:早くて節約的な意思決定」であり、このモデルにおいて有権者は最も重要と思われる情報のみに限って収集しようとし、他の情報は無視します。意思決定の方法は、各選択肢に付随する一つか二つのポジティブ、ネガティブな結果のmemory-basedによる評価であり、その動機は効率性にあります。選挙におけるインプットは、候補者に関する少しの情報です。
第四のモデルは、「認知心理学と限定的合理性:直感的な意思決定」であり、このモデルにおいて有権者は意思決定に至るまでに必要最低限の情報のみを得ようとし、認知的なショートカットやヒューリスティクスが重用されます。動機は最小限の努力による最善の選択をすることです。選挙におけるインプットはステレオタイプやスキーマなどさまざまな認知的ショートカットや政治的なヒューリスティクスです。
で、これらのモデルを説明した後、Lau教授はこの中で一番「正しい投票」(correct voting)ができるのはどれか?と問います。この「正しい投票」(Richard R. Lau and David P. Redlawsk. 1997. "Voting Correctly". APSR,91:585-598)の議論は、僕が思うところのLau教授の有名な業績の二つのうちの一つで(もう一つはnegativity effect)、完全情報下による投票選択を想定する規範的な民主政治論を元に、要するに全ての情報を持った上での投票選択が「正しい投票」だ、というものです。完全情報が不可能であるとして、どのモデルによる意思決定が、有権者に完全情報下と同じ選択をより多く許すか?−この問題に答えるために教授は実験を行います。詳細はあまり説明されませんでしたが、被験者をそれぞれのモデルにもとづくグループ4つと、何も処置しないコントロールグループ1つに分け、予備選挙と本選挙の二つの状況下で、それぞれのモデルにもとづく情報を与え、最終的に投票する候補者を選ばせ、さらに全ての候補者に関する全ての情報を開示した上でもう一度投票する候補者を聞き、ここで選択を変えなかった人が「正しく投票できた人」とされます。結果、予備選挙の状況下ではモデル4>モデル3>コントロールグループ>モデル1>モデル2、本選挙の状況下ではモデル4>モデル2>コントロールグループ>モデル3>モデル1という結果を得ます。要するに両方の状況において「認知心理学と限定的合理性:直感的な意思決定」モデルが最もパフォーマンスが良く、つまりより多くの有権者が完全情報下と同じ選択ができ、「合理的選択:冷静な意思決定」モデルが最もパフォーマンスが悪いということです。
僕の感想についてはあまり書きませんが、「やっぱり政治心理学はついていけんなー」という感じです。僕は政治心理学を一通り勉強した後、政治経済学的アプローチへと移行しましたが、この選択は間違いでなかったとつくづく思いました。何と言うか政治心理学には厳密性があまり無く、そのため不毛な議論が多いと思います。
トークの後はLau教授と院生による昼食に参加しました。学部が払ってくれるのでタダメシです。参加した院生は9人で、そのうち僕と同じ学年が6人、一つ上が3人とかなりコーホート的に偏りがありました。UTには「政治行動論」という専攻が僕の代まであり、アメリカ政治で政治行動論、政治心理学を専攻する人が多かったのです(現在では新入生のほとんどはラテンアメリカ政治と政治思想となっているようですが)。研究の話なども聞け、いろいろ興味深かったですが、やはり社会心理学的なアプローチには僕はもはやあまり魅かれません。
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5月6日(土)の昼
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アイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)が映画化されるようです。これまでもたびたび映画化の話があったもののそのつど立ち消えになってきました。しかし今回は少しは信憑性がありそうです。主役のダグニー・タッガートとジョン・ゴールトはそれぞれアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットが演じるようです(これは僕の中ではイメージどおり)。しかし、実際この長大な作品をせいぜい3時間の映画に短縮できるのかなあと危惧を感じます。さらにこの作品は、要はさまざまなキャラクターの口を借りてランドの思想を延々と語らせる小説というよりも思想書ですから、忠実に映画化すれば恐ろしくしゃべってばっかりの映画になるでしょう。かといってそのしゃべりを端折ってしまえば、作品としての魅力が失われることは間違いない。監督の手腕に期待したいものです。
昨夜はUTを卒業して日本で働いている二人の男子がゴールデンウィークにオースティンに「里帰り」してきたのを迎えてのパーティがあり、参加しました。一人は某大手酒造メーカーでマーケティング、もう一人は某外資系金融機関で法人営業をしているなど活躍の様子で、いつも週末に僕とH先生とでグダグダとボードゲームをしているビジネス専攻のundergraduateの男子(仮にSくん)も、H先生が裏声でジュディ・オングの「魅せられて」を熱唱しているのを横目に、この二人に尊敬の眼差しを向けながら熱心に話を聞いていました。僕はといえば、オースティンの近くにある大学の女子学生二人に対して熱弁をふるい、「初めて『萌え〜』って声に出している人を見た…」と恐れられていました。
ところで長年のある英語表現に関する僕の疑問が氷解しました。それは食事が済んだときなんかに使う"We are done."という表現。なんで"done"と受身になるのか、なんで「われわれはされている」というのが、「われわれは済んだ」という意味になるのか、と文法的に不可解だったのです。で、昨日のパーティに来ていた元歌舞伎町の黒服のテキサスA&Mの院生(仮にK太くん)が言うには、昔の英語では過去完了の"have"の代わりに"be"動詞が用いられていたとのこと。つまり"We are done."は"We have done"と同じ意味だというのです。つまり「われわれはすでにした」。これなら納得できます。やはり"done"は受身では無かったのです。
ともあれ、久しぶりに楽しいパーティでした。
数ヶ月前に申し込んでいた、6月下旬に1週間スタンフォード大学で行われる某セミナーに参加できるという通知が来ました。期間中の宿泊費、食費、セミナー参加料は無料。といっても7月に同じくスタンフォード大学で行われるEITMのセミナーではなく(こちらは世界政治学会とかぶるため最初から参加できない)、"Beliefs, Consciousness and Institutions"をテーマにした社会科学系大学院生対象のもので、スタンフォードのNew Institutionalismの経済史家のAvner Greifなんかが教えます。内容もさることながら、タダでスタンフォードに1週間滞在できるというのが魅力です。また僕にとってはほぼ未知の西海岸の旅行ができるかもしれない…。でも事情で6月中旬には日本に一時帰国せねばならず、セミナー参加は断念せざるを得ない模様。ああー、残念だ…。
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5月7日(日)の夜
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昨夜はJapanese AssociationというUTのundergraduateの学生が主体の団体のパーティに行ってきました(例によってH先生と共に)。セミフォーマルということで男性なら襟付きのシャツにジャケット、スラックスに革靴、女性ならドレスという感じで50人ほどが集まっていました。この団体がすごいと思うのは、「日本生まれ、日本育ちの日本人留学生」が非常に少ないということ。僕が知っている限りそのような人は一人しかおらず、大概が、日本生まれでもアメリカで育った人とか、日本人とアメリカ人のハーフであったりとか、日本に興味があるアメリカ人です。この日発表された来年度のオフィサーを見ても、せいぜいハーフの人がいるくらいで、大概が中国系か韓国系のアメリカ人です。こんな風に書くと、いかにもアニメファンなどオタッキーな人たちが集まっているという感じがしますが、実は正反対でオタク的な要素は皆無といっても良く、オタクな人が参加すると逆に肩身が狭いと思います。共通項が「日本」というだけでよくこれだけの人数を動員できるものです。
パーティの後は数人でカラオケに行きました。オースティンでカラオケ屋に行くのは初めてです。韓国人経営の結構きれいな店で、日本のものと比べてもそんなに遜色がありません。何か違和感を感じたのは日本と違って部屋のドアがガラス張りではなく、閉めてしまえば外から中が一切見えないという点くらいです。韓国製の通信カラオケ設備らしく、日本のものに比べて当然日本の歌はあまり無いようでしたが、それでも基本的な歌はだいたいそろっており曲を選ぶのに苦労はあまりありませんでした。
で、やしきたかじんの「東京」は無いかと日本の歌ばかりを集めたリストの「と」の欄を探していたのですが、そのときふと目に留まった文字が。「独島はわれわれのもの」。こんな曲、当然日本で歌われているはずもなく、かといって韓国語の歌は別の箇所にあるので、何らかの意図があってこの歌が日本語曲リストに紛れ込んでいるとしか思えません。要するにこれは日本人に対するアピールでしょう。こんなところにも韓国人のこの問題に関する情熱を感じました。韓国人にしてみれば「竹島は日本の領土だ!」という主張は、日本人にとっての「沖縄は中国の領土だ!」くらいの響きがあるそうです。
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5月10日(水)の夜
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時間が経つのが早いです。最近は理論的なことを悶々と考えています。例によってExpected Utility TheoryとProspect Theoryについて。こんなこと意味あんのかという感じもしますが、一貫性のある理解が得られたときには単純に知的に楽しいです。とはいえ、この手の方面の頭が無いので、大して高度でも無いことをああでもないこうでもないと堂々巡りしているだけのような気もしますが。今日はDecision Theoryの本を読み返していました(ヘタレなことを言いますが、この本は適度に古い上、数学があまり使われていないので読みやすいです)。この本を読むといかにTverskyとKahnemanがRational ChoiceおよびExpected Utility Theoryを唾棄しているかが分かります。例えば、Rational Choiceは実際の人間の行動の記述ではなく、理想化された意志決定者の規範的モデル(normative model)であるとしたうえで、彼らは以下のように主張します。
The thesis of the present article is that, in spite of these a priori arguments, the logic of choice does not provide an adequate foundation for a descriptive theory of decision making. We argue that the deviations of actual behavior from the normative model are too widespread to be ignored, too systematic to be dismissed as random error, and too fundamental to be accomodated by relaxing the normative system. (Tversky and Kahneman. 1988. "Rational Choice and the Framing of Decisions" In Decision Making: Descriptive, Normative, and Prescriptive Interactions, eds. David E. Bell, Howard Raiffa, and Amos Tversky. New York: Cambridge University Press, 167-92.)
つまりRational Choiceはあまりも実際の人間の行動とはかけ離れているというのです。で、彼らがこれでもかと執拗に実験を通じて示すのが、Rational Choiceが寄って立つ諸前提(cancellation、transitivity、dominance、invarianceなど)が成り立っていないということ。これでもってRatioanal Choiceはダメだと言うわけです。で、代わりに彼らはProspect Theoryを提出するわけですが、これに飛びついたのがRational Choice嫌いの質的アプローチをとる政治学者たち。彼らはRational Choiceでは説明できないということで、Prospect Theoryを用いると称してさまざまな分析を行います。しかし実際にはこうした分析や理論的予測は十分にRational Choiceの範囲で行えることです。政治学者の中には論文で堂々と「合理的選択論者はリスク回避を常に想定している(そこで私はProspect Theoryを用いる…)」などと書いて恥を晒している人もいます(載せるジャーナルもジャーナルですが)。おそらくこうした政治学者はTverskyとKahnemanがRational Choiceを叩いているという事実を知るのみで、その批判の中身までちゃんと理解していないのだと思います。TverskyとKahnemanが示したのは上でも触れたとおりあくまでも、期待効用論の主張が成り立つ上で必要な前提(あるいは公理)に沿った行動を人間がとらない場合もある、すなわちその場合、公理が間違っているのだから、期待効用論は成り立たないということです。つまり「Aならば、B」であるという論理において、「Aではない」ということを示すことで「Bではない」ということを言うわけです(ちなみにこうした議論ができるのも、期待効用論がちゃんとformalに表されているからです)。ということは公理が間違っていない状況においては、期待効用論は未だに成り立つということでもあります。
またProspect TheoryがExpected Utility Theoryとは異なった、そしてより精度の高い予測が具体的な経済的、政治的状況においてできるかというとそんなこともありません。コンテクストあるいはreference point、aspiration levelによって選択が変わるという議論なら、期待効用論のフレームでも可能です。それならば、よりシンプルかつaxiomaticな期待効用論の方が有用です。確かにTveskyやKahnemanの提出した経験的な証拠は堅牢で、経済学者も有効な反論はできないようですが、だからといって期待効用論の多くの場合における有用性は否定できないのです。
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5月11日(木)の夜
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今、TAのクラスのテイクホームの期末試験の真っ只中で、今日学部のコンピュータラボを覗くと、数人の学生が課題に取り組んでいました。今回の試験問題の中で、面白いなあと思うことがあります。それは時系列分析の問題です。二つの時系列が共に単位根過程である場合、その二つが共和分(Cointegration)しているかどうかを確かめ、もししてるならError correction mechanism(ECM)を導入することで、回帰分析が可能になります。この問題では、Ng-Perron sequential t-testによるラグ決定を用いたADFテストの結果、二つの時系列は単位根過程であるという帰無仮説を棄却できず、すなわちこれらの時系列はnon-stationaryだということになりますが、かといって、これらは共和分しているわけではありません。トリッキーなのは、いかなるラグ決定基準を用いてもEngle-Granger cointegration testにおいて共和分は確認できないものの、いくつかの正当化できないラグ数では共和分を確認できるということ。しかも問題では共和分テストの後、「もし共和分してるなら、ECMを用いて推定しなさい」とあります。こうなると学生は「この二つの時系列は共和分してる。だからECMを使う!」と言いたくなる、というか言った方が正解なんじゃないの?という思いにかられます。しかし正解は「この二つの時系列は共和分してない。だからECMは使えない!」というもの。自分の統計分析の結果にどれだけ自信を持てるか、そして正当化できないラグ数を用いることで、自分の意図する方向に無理やり結論付けないか、がこの問題に答える上でのポイントとなるでしょう。
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5月15日(月)の夜
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ようやくTAのクラスの期末試験の採点が終わりました。中間試験の平均点が約86点、標準偏差が約7点だったのに対して、期末試験の平均点が約87点、標準偏差約11点と、平均点はそんなに変わらないものの、標準偏差がかなり大きくなりました。つまりできる人とできない人とが別れてしまったということです。このクラスレベルの数学では、これまでにどれくらい数学の勉強をしてきたかにそんなに意味があるとは思えません。しかしかといって今学期を通じての努力が影響するかというと、そうでもなく、じゃあ何が大きいかというと「性格」ではないかと思います。基本的に、答えを書く上で解答のプロセスを端折らず、細かいことまで丁寧に報告する人ほど点数が良い気がします。それに対して例えばt検定の報告において、"t = (係数)/標準誤差 =○○"とせずいきなり"t = ○○"と書くような人は点数が低い(こういう書き方をしても減点しないにも関わらず)。ある程度歳をとってしまえば性格を変えるのは難しくなります。その意味でやはり数学的手法の勉強は、「努力しても無理なものは無理」ということもあると思います。
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5月16日(火)の夜
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日本に一時帰国するためのチケットを買いました。6月6日オースティン発で、7月31日に戻ってくるというもので、値段はチケット本体549ドル+燃料費130ドル+税金90ドルで結局約770ドルに。帰りの日がもう少し早ければチケット本体が499ドルまで下がったようです。
博士論文に関して悩んでいます。メインの結果が出そうに無い。アドバイザーの一人の先生も似たようなことをやっているのですが、ありとあらゆる可能性を1年間くらい探っているものの、何一つ成果が上がっていないそうです。その先生と今日長時間話し合ったのですが、博士論文としてこのプロジェクトを進めるのは危険なのではないかということでした。やろうとする意図や議論は新しいし面白いものではあるものの、empiricalな結果が出ないことにはどうにもなりません。ここは一旦諦めて、僕がここ数年並行してやっているプロジェクトの方に切り替えたらどうかと言われました。このプロジェクトに関しては、すでに日本語で二つ論文をパブリッシュしているし、その続きとして書いたEITMのペーパーも結構高い評価をもらっていて、いずれどこかの英語のジャーナルに投稿するつもりです。ただ理論的には面白くないし、そんなに野心的でもありません。関心をもってくれるオーディエンスの数もかなり少ないでしょう。要するに僕がこれまで博士論文として取り組んできたことに比べるとかすみまくりです。でももう時間が限られていることだし、とにかく何でも良いから博士論文として仕上げるべきなのかもしれません。とりあえずメインのアドバイザーの先生とも相談して近日中に答えを出したいと思います。ちょっと落ち込んでいます。
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5月22日(月)の昼
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先週は学期が終わったということもあって気分的にはのんびりと、しかし物理的には忙しく過ごしていました。
水曜日の日中は、今週の政治学部引越しのためのオフィスの整理をしました。政治学部は、60年代に建てられたもともとコンピュータサイエンスが入っていたあまり見栄えのしない建物から、最近大幅な改修が行われた、UTの発足の時からある伝統ある建物へと引っ越します。それに伴ってオフィスも移動するわけですが、僕の場合は普段からオフィスを使っていないこともあり、古い試験を処分するくらいで済みました。ただし僕のオフィスメイトなんかは大量の本をオフィスに抱えているため、かなり大変なようでした。もちろん運ぶのは引越し業者がやってくれるのですが、パッキングは自分でしないといけません。
夜は友人と食事。オースティンで一番おいしいと思われる韓国料理店に行ったのですが、大量のナムルを前に食物を残すのに罪悪感を感じる僕はがんばって食べた結果、気分が悪くなりました。
木曜日はノーステキサス大学のAssistant ProfessorのMさんがUTの図書館で資料収集されるとのことでオースティンに来られました。夕方に作業が終わり、政治学部のWさんも交えて郊外のトラビス湖を見下ろすTex-Mexのレストランへ。その後、僕の部屋で深夜まで酒を飲みました(といっても僕は飲めないので、ほとんど飲んでませんが)。
金曜日は昼に指導教授の一人とランチミーティング。向こうから誘ってくれたことだし、決して関係が悪いわけでは無いのですが、例によって緊張で食事を楽しむことができません(他の学生は指導教授との関係はどんな感じなのでしょうか)。研究のことは前にずい分話しこんだので、今回は政治学部の内部事情など。学部内政治というのはどこでもドロドロしているものかもしれませんが、UTの場合とりわけドロドロしているのではないかと思います。食事代は教授が出してくれました。
夜は経済学部のH先生と食事。いつもいるもう一人はすでに日本に一時帰国しておりおらず、その後ボードゲームをやるもイマイチ盛り上がらない。仕方なく禁断の男二人映画鑑賞へ。公開された直後で何かと話題の『ダ・ヴィンチ・コード』を観に行きました。映画は複数のスクリーンで30分おきに上映されていたのですが、9時半くらいに行ったところ、11時の回しか空いていない。仕方なく本屋で時間を潰しました。僕はこういう陰謀論系は好きですが、いかんせん原作を読んでいないので、イマイチ楽しめず。それに恐らく原作を読んでいてもきっと不満が残るだろうなあという感じでした。ジェットコースターな展開、安易な秘密結社への言及など悪い意味でニコラス・ケイジの『ナショナル・トレジャー』と似ている気がしました。映画の登場人物の「大の大人が何をやってんだか…」感が強いです。とはいえ、原作を読んでみようかと思っています。
土曜日は基本的にスーパーへの買い物や掃除など普段のルーティン以外は、古本屋へ行ったくらいで何もせず。必要があって以前授業で一回読んだPutnamのBowling Aloneをまた読み始めました。
日曜日はMBAの方のBBQに誘われて参加。普段は僕のアパートの近所からバスで行ける地域なのですが、朝調べると日曜日は運行されていない模様。それで仕方なく他のバスを探すと、家の近所からBBQをやっているMBAの方のアパートへ2キロの地点まで行けるバスがありました。結局これで行ったのですが、着いてみると「よく歩いたなあ」との反応。アメリカに住んでいるとこういう反応が多いのですが、日本だと2キロくらい普通に歩くもんではないでしょうか。例えば高田馬場駅から早稲田大学までだって2キロくらいあると思います。アメリカは車社会ですから近所のコンビニ行くにも車を使うし、スーパーの駐車場でも少しでも歩かなくて良いようにがんばってできるだけ近い駐車スペースを探します。日本人もアメリカで暮らしているとこういう感覚が普通になってしまうのでしょう。
MBA留学されている方はだいたい僕と同じか若干上の年代の方が多く、そういうあんまり年齢が変わらない人たちが結婚して小さい子どもがいるのを見ると不思議な気がします。集まりの雰囲気や会話も普段僕が属しているようなコミュニティに比べると健全で、こういうのが本来なんだろうなあと思いました。
明日はメインのアドバイザーの先生とのミーティングです。先日もここに書いた博士論文のテーマを変えるかどうかについての話し合い。僕の中でまだ結論は出ていませんが、明日先生に会うまでには自分でどうしたいか考えをまとめないといけません。
ここ数日来、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』を最初から読み返していました。その中で以下のような文章が。
適切な政府の機能とは、犯罪者から人民を守るための警察、外国の侵略者から人民を守る軍隊、そして契約違反や詐欺から人民の財産や契約を保護し、客観的な法律にもとづく合理的な規則によって争いを解決する法廷だけだ。p.1146
これはまんま、(モダン)リベラリズムおよび福祉国家を理論的に正当化したロールズの『正義論』(1971年)を批判して書かれた、ロバート・ノージックの『アナーキー、国家、ユートピア』(1974年)の主張と同じです。つまりノージックのこの本での主張は、ランドのアイデアでは無いかもしれないにせよ、すでに『肩をすくめるアトラス』(1957年)の時点で保守言論界において共有されていたということです。いわばノージックは、すでに既成事実としてあった福祉国家を理論的に擁護すべく『正義論』を書いたロールズと同じく、すでに存在していた保守の言論を理論的に擁護するために『アナーキー、国家、ユートピア』を書いたということでしょう(ランドの本は参考文献リストに挙がっているのでしょうか)。
ランドにとっては、かなり早い段階から資本主義の効率性の面での他の経済体制に対する優位は当然のものであって、彼女の関心は資本主義の道徳的優位を示すことにありました。元FRB議長のグリーンスパンもランドの影響で資本主義の効率性だけではなく、道徳的な優位を確信するに至ったそうです。ちなみに道徳的優位を示すということは、最初から価値絶対性を認めているというわけで、基本的に善と正義の問題を切り離すことで価値相対性をとるロックを始祖とする古典的自由主義者やリバータリアンとは異なります。したがってランドの信奉者はリバータリアンやクラシカルリベラルと混同されることを嫌い、自らを客観主義者(Objectivist)と呼びます。ランドの思想は価値絶対的という意味でアリストテレスを基礎に置いているし、いわゆるネオコンの思想にも近いです(プラトンやアリストテレスといった古代の政治哲学に基礎を置き、ネオコンに影響を与えるといえばレオ・シュトラウスですが)。
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5月23日(火)の夜
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今日はメインのアドバイザーの先生と、博士論文について話し合ってきました。トピックを変えるかもということで結構ドキドキして行ったのですが、実は別のアドバイザーの教授からすでに話は言っていたみたいで、彼もこれまで取り組んでいたトピックでは結果が出そうにないことを理解しており、割とすんなり決まりました。で、とりあえず別のトピックですでにある3本の論文を核にして博士論文を仕上げるということに。さらに、できれば今年12月までには終わること、また就職も探し始めるべしとのことを言われました。これらがどれくらい現実的かは良く分かりませんが、やれるだけやりたいと思います。
とはいえこれまでやってきたことを諦めるわけですから、なかなかしっくり来ないことも事実です。まあ先生にも言われましたがこれまでやってきたことが全く無駄になるわけではないし、博士号取得後また改めて取り組めば良いのかもしれませんが。それにしてもこれまで7:3の、「7」でやってきたことが上手く行かず、「3」でやってきたことの方が望みがあるというのも皮肉なもんです。まあ前者に全戦力を投入せず、ある意味「逃げ道」を作ってきて良かったとも言えるのかもしれませんが。
ところで昨日、Internal Revenue Service(内国歳入庁≒国税庁)から手紙が来ており、それによるとTax Returnを申請した名前がSocial Security Number Cardの名前と違っているとのこと。見ると僕の名前が"Iida"ではなく"Lida"になっています。おそらく僕が提出したTax Returnの用紙に名前を"Iida"と書いたのを、書体がゴシック体だったため、"lida"と区別がつかず、語感的に"Lida"と判断されたのでしょう。こういうことは良くあります。電気の支払いの請求書も最初はちゃんと"Iida"だったのに、いつの間にか勝手に"Lida"に変えられていました。これでも毎月ちゃんと銀行口座からお金が引き落とされているのが謎ですが。
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5月26日(金)の夜
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7月中旬の世界政治学会での発表に向けてデータ分析を始めているわけですが、例によってやってみて初めて分かるような問題点がいくつか。基本的に投票以外の政治参加や市民としての活動がここ数十年にわたってアメリカで低下している原因というのを時系列分析で説明しようとしているわけですが、この分野ではやたら時系列としてのこれらの活動の低下というのは示されているものの、時系列分析というのはほとんど行われてきませんでした。なんでなんだろうと思っていたのですが、要するに良く見てみればこうした「投票外参加の低下」を表すとされる証拠が結構いい加減で、実際本当にsubstantiveにもstatisticallyにも有意な低下が見られるのか結構怪しいのです。「投票参加の低下」ですら最近は本当にそうなのか疑問が呈されたりもするくらいです。この「政治参加の低下」ということ自体、実は研究者による「マッチポンプ」的な部分もあるのではないかという気がしています。僕が知る限り"civic engagement"の低下に関する唯一の時系列分析の論文は去年出たもので、そこでは"civic engagement"の指標が非常に込み入った、シロウトには到底分からないやり方で作られており、実質的にその指標が何を意味しているのか分からなくなってしまっているような状態です。おそらくこういうことでもしないと、時系列分析にかけても結果が出なかったのでしょう。僕もとにかく何か結果を出さなくては…。
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5月29日(月)の昼
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毎日2時間、合計6時間の苦行のような単純作業によってようやくあらかたデータセットができました。後は欠損値を埋めるべくJames A. Stimson. 1999. Public Opinion in America: Moods, Cycles, and Swingsのやり方を参照しようとこの本を探したものの、なぜか手元に無く、仕方なく図書館で見ようとするも今日はMemorial Dayということで図書館は休み。別のことをするとします。
昨日は午前中勉強して昼にジムに行き、その後3時くらいからダウンタウンにバスで行って来ました。中古CD屋に何となく入り何となく見ていたのですが、中古コーナーでSystem of a DownのToxicityを見つけました。このアルバムに収録されている曲のプロモーションビデオは僕が留学した頃の2001年の夏ごろにMTVでよく流れていて、いわば思い出の曲みたいなもんです。値段も7ドル99セントと安かったので早速購入。こういういわゆるメタルといわれる部類の曲はこれまであまり馴染んできませんでしたが(とはいえ高校〜大学の一時期メタリカとかメガデスのコピーバンドをやっていた)、このアルバムの良さはわかります。どうもSystem of a Downのアルバムの中でも、あるいは最近のメタル全体の中でもこのアルバムは高く評価されているようです。
保守本流の政治雑誌The National Reviewに、この今月発売されたばかりのSteven B. Smith. 2006. Reading Leo Strauss : Politics, Philosophy, Judaismについての書評がありました。書評によるとこの本は「ネオコンのゴッドファーザー」として悪名が高いレオ・シュトラウスに関して、全然そんなことは無くて彼はリベラル・デモクラシーの擁護者であるし、イラク戦争には反対しただろう、と主張しているそうです。最初の点に関して、シュトラウスの提起した問題に「神学・政治問題」(理性と信仰の対立)がありますが、これの解決法としてリベラル・デモクラシーを擁護しているそうです(とはいえ、リベラル・デモクラシーは衆愚政治に陥るので懐疑的ですが)。イラク戦争に関しては「悪を終わらす」ための戦争であるから、悪は無くならないと考えていたシュトラウスはそのアイデアに反対しただろうと言います。しかし評者が言うには、別にリベラルデモクラシーを擁護したところでネオコンじゃないと言うわけでもないし(というかネオコンはリベラルデモクラシーが最高の政治体制であるとしてそれを世界中の国々に押し付けようとする)、イラク戦争は別に悪を終わらすための戦争ではないとして、結構著者に対して批判的です。まあ書評しか読んでないので僕は何とも言えませんが。ちなみに著者はイェール大学政治学部教授で、いわゆるシュトラウシアンの一人です。
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5月31日(水)の夜
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※6月1日追記:改めて分析し直した結果、前回は2次の多項式までを含むモデルを推定していなかったことが分かり、これを推定したところ、Partisan ActivityおよびCommunal Participationにおいてこのモデルが最良となりました。従って時変パラメターの推定値をプロットした図も変わりますので、以下訂正しました(推定値の95%信頼区間のプロットも追加されています)。新しい結果は前回のものに比べて面白い結果と言えると思います。
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世界政治学会での発表に向けての分析を進めています。これまでのところはあまり良い結果とは言えませんが、まあ最低限発表でお茶を濁せるくらいの結果は出てるかなあという感じです。
リサーチクエスチョンは、「アメリカにおいて保守主義は市民としての活動(civic engagement)を促進するか」というものです。これに対して僕は、「時期による」と答えたいと考えています。それは70年代の保守主義と80年代以降の保守主義とでは意味が異なると考えるからです。70年代になってそれまで経済的争点が主だった保守主義に、60年代の社会のリベラル化に危機感を抱いた福音派の宗教右翼が加わることによって、社会的な争点が大きくなってきました。宗教右翼は政治動員を試みますが、その際に強調したのがこれまでの共同体の伝統的価値観であり、家族の価値観です。それまでどちらかというと社会的争点において黒人に関する不寛容など、コミュニティに不協和をもたらす要素だった保守主義が共同体を強化する意味合いをもつようになったのです。従ってここから予測されるパターンは70年代において、保守主義はコミュニティにおける市民としての活動にネガティブな影響を与えるのに対し、80年代以降においてはポジティブな影響を与える、あるいは少なくともポジティブな影響が増える、またはネガティブな影響が減るというものです。
まずは市民としての活動に関する時系列を見てみます。Roper Social and Political Trends Data, 1973-1994では、12種類の市民としての活動に関する質問項目があります。それは、過去1年間に、「自分の選挙区の議員に手紙を書いたことがあるか」、「政治演説会に参加したことがあるか」、「街や学校に関する公的な集会に参加したことがあるか」、「公職に就く、あるいは立候補したことがあるか」、「地方政府の委員会に入ったことがあるか」、「クラブの役員になったことがあるか」、「新聞に投書したことがあるか」、「署名したことがあるか」、「政党のために働いたことがあるか」、「演説をしたことがあるか」、「雑誌あるいは新聞に記事を書いたことがあるか」、「政治を良くすることを目的とする団体のメンバーであったか」を尋ねています。それぞれにYesと答えた数を月ごとに集計し、その割合を%で表し、さらにStimson(1999)のdimensional analysis algorithmを使って欠損値を補いつつ、これら12個の時系列を四半期ごとの一つの時系列にまとめます。その結果が以下の通りです。
この図を見て分かるとおり、市民としての活動は70年代初頭以降、長期低落傾向にあるのがわかります。これはPutnam. 2000. Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Communityで指摘されているとおりです(ていうか、このデータはこの本と同じものです)。しかしながらPutnamも指摘しているように、以上の12項目の市民としての活動は理論的に3つに分けることができます。すなわち「党派的活動」(「政治集会への参加」、「政党のために働く」、「公職に就く、あるいは立候補する」)、「コミュニティへの参加」(「公的な集会への参加」、「クラブの役員になる」、「地方政府の委員会に所属」、「政治を良くする団体のメンバー」)、「公的な表明」(「署名する」、「議員に手紙を書く」、「新聞に投書する」、「演説する」、「雑誌・新聞に記事を書く」)です。そこで同じくStimsonのdimensional analysis algorithmを使って、それぞれの質問項目を元に、3種類の時系列を作ってみます。
これらを見てわかるとおり、全て低落傾向を示しているとはいえ、それぞれ微妙に動きが違います。最初のものも含めてこれら4つの時系列(「市民としての活動」、そのサブグループとしての「党派的活動」、「コミュニティへの参加」、「公的な表明」)を被説明変数とします。つまり「これらの時系列の動きは何によって説明されるか」ということです。
メインの説明変数は「保守主義」です。ここではStimson(1999)の"public mood"を用いたいと思います。この"public mood"とはStimsonの主要な業績の一つで、その時々のアメリカの世論のリベラル度合い、一般国民の間に漂う政治的空気を、様々な争点に関する世論調査項目を用いることで"public mood"として"1-100"で表したものです。僕のここでの関心は「リベラル度合い」ではなく「コンサバ具合」なので、そのように加工します(要するに"100-public mood")。以下がその時系列です。
見ての通り、その時々リベラルに振れたりコンサバに振れたりしていますが、一番コンサバだったのが1980年のレーガン政権誕生のころのようです。その他コントロール変数として、物価調整済みの平均世帯年収(金銭的リソース)、大卒者の割合(能力的リソース)、フルタイムで働いている人の割合(時間的リソース)を入れます。
分析に当たってはまずARFIMAモデルで各時系列を「漂白」し、自らの過去の値やトレンドによって説明できる部分を取り除きます。そして今回は「保守主義の影響は時期によって異なる」と主張しているわけですから、時変パラメターを導入します。保守主義の影響の変化をモデリングすべく、それぞれ異なる時間的な変化のパターンを代表する6次までの多項式(例えば1次の多項式はただ上がり続けるか、下がり続けるの「峰」がゼロの変化、2次の多項式は一旦上がって下がる、あるいは下がって上がるの「峰」が一つを表す)を用い、0次から6次の多項式の組み合わせを全て試し、SIC(Schwarz Information Criterion)によって「最良」のモデルを決定します。
結果、「市民としての活動」と「公的な表明」に関しては、「保守主義」時変パラメターを含まないモデルが最良となり、しかも「保守主義」それ自体も統計的に有意な影響はありませんでした。つまり「保守主義」の影響が変化しないばかりか、影響自体も無いということです。「党派的活動」と「コミュニティへの参加」に関しては、2次までの時変パラメターを含むモデルが最良となりました。コントロール変数に関しては、平均世帯年収が全ての説明変数に対して統計的に有意なポジティブな影響、大卒者の割合が「党派的活動」に対して同じく統計的に有意なポジティブな影響を与えていました。つまり、所得が増えると「市民としての活動」は盛んになり、教育程度が上がると「党派的活動」は盛んになるわけです。
時変パラメターの解釈は数字を読むだけではできないので、その影響の時間ごとの変化を図にプロットすることで見てみます(二本の破線は推定値の95%信頼区間を示しています)。最初、「保守主義」の「党派的活動」への影響の時間的変化です。
2次までの時変パラメターを含むモデルであることから、このように2次関数の形に従ってその効果が変化しています。1981年の第一四半期まで「保守主義」は「党派的活動」に負の影響を与え、その後その影響は統計的に有意なものではなくなっています。つまり1981年以前は「保守主義」の増長は「党派的活動」を低下させていたのが、それ以降はもはやそうした影響は見られなくなったのです。さらに「保守主義」の「コミュニティへの参加」への影響の時間的変化は以下のとおり。
これも同じく2次までの時変パラメターを含むモデルであることから、2次関数の形に従ってその効果が変化しています。70年代初頭には「保守主義」は「コミュニティへの参加」にネガティブの影響を与えていましたが、それが徐々に統計的に有意でなくなり、1982年の第四四半期には逆に統計的に有意なポジティブな影響へと転じ、これが1989年の第二四半期まで続きます。要するに80年代を通じて「保守主義」の増長は「コミュニティへの参加」を促進してきたのです。
より実際の文脈で言えば、70年代には保守的な問題関心は人びとを党派的な活動へと駆り立てる要因にはなっておらず、つまり世の中が保守的な雰囲気になればそれだけ人びとの党派的活動は減りましたが(逆にリベラルな雰囲気であれば党派的活動は活発化した)、80年代にはそのような関係性は消滅しました。また「コミュニティへの参加」に関して、時系列をプロットした図を見てわかるとおり80年代は「コミュニティへの参加」の低下傾向に一時歯止めがかかっていましたが、これは「保守主義」の働きが大きかったといえると思います。80年代においては保守的な雰囲気になればそれだけ人々の「コミュニティへの参加」が増えていたのです。しかしこの関係性も90年代に入れば無くなり、「コミュニティへの参加」が90年代に入って急低下したのも、この「保守主義」の歯止めが利かなくなったことによるのではないでしょうか。
以上のようにまあまあ理論的な予測に合致した結果と言えると思います。とりあえずこれで分析を終え、論文を書き始めたいと思います。
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