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2006年8月の日記
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8月3日(木)の昼
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いつものパタンだと、夕方に我慢できずに寝てしまって夜中に起きることを繰り返してなかなか時差ぼけが直らないのですが、今回は昨日もおとついもH先生と夕食を共にし、夜割と遅くまで起きていることができたので、少し時差ぼけの直りが早い気がします。先生のアパートで例によって侘しく二人Catanをしつつ、昨日脱稿したという日本語で出版されるミクロ経済学の教科書の原稿を見せてもらったのですが、序文がすごい。何と言うか「ああこの著者は人間不信なんだなー」と思わせるような、ネガティブかつ攻撃的なもの。こんな教科書の序文は見たことがありません。本人いわく「2ちゃんの書き込みを意識して書いた」とのことです。確かに「どうせ、お前はこう思ってるんだろ!」と読者を決めてかかって、叩かれないように予めこっちから先に叩き潰しておくというスタイルは2ちゃんの経済学板で幾多の論戦を潜り抜けたツワモノのものに思えます。しかし一般読者からすれば、「こんなこと思ってないのに、何をこの著者は気にしているのか」という感じになるでしょう。母性本能が強い読者なら怪我をした野生動物を見るような感じで、「ああこの人はきっと今まで色んな人に傷つけられて人間不信に陥ってしまっているのね。自分の周りは敵だらけだと思っているのね…。かわいそうに、私が本当の愛を教えてあげたい…」と思うかもしれません(!?)。しかし、これでも編集者に注意されて修正したのだそう。そこで一番最初のバージョンの序文も見せてもらいましたが、確かに現行バージョンに輪をかけてネガティブかつ攻撃的。「ヘタレ人文系」、左翼、同業者など「仮想敵」だらけです。
ただしこの序文で言っていることは大変マトモだし、勉強になると思います。また中身を一見したところ類書に比して数学的にrigorousだし、本人もおっしゃっているように普通の説明や直感的な説明では納得できないある種の「コダワリ」をもつ読者を満足させる内容ではないかと思われます。出版されたらぜひ買いたいと思います。
ここ1年来パソコンの調子が悪く、起動するのに10分以上かかったり、アプリケーションを立ち上げるのにも異様に時間がかかったり、ウェブサイトが見れないなどしていて、もうそろそろ買い替え時かなあと思っていたのですが、今日その原因がわかりました。ファイアーウォールのソフトです。このソフトをアンインストールしたところ、これまでがウソのように全てがスムーズです。しかし、果たしてこのままファイアーウォール無しで良いものか…。悩みどころです。
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8月7日(月)の昼
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アメリカに戻って以来、時差ぼけもあってあまり調子が上がらず、生活上のメンテナンスとか事務的な作業やメールもたまる一方でしたが、今日の午前中一念発起して何とか色々やりました。今日からはバリバリがんばります。
政治学における合理的選択論に関する単純な誤解について。例えば合理的選択論的な政治学においては、経済学にならって、人間は「効用を最大化する」という行動原理を前提として分析が進められ、これが単純すぎる、現実的でないと批判されたりもします。しかしこうした批判はあくまで入門レベルの単純な理解に基づくものであり、実際には研究者はこの前提をより現実的なものにすべくモデルを洗練化しています。例えば、異なる選択肢に対する期待効用を計算し、比較する上でリスクに対する態度が関係してくるし(各選択肢の期待効用はリスク態度によって変わる)、期待効用最大化ではなく、ある選択を行った場合に考えられる最悪の結果が一番マシなのを選ぶようにするかもしれないし(マキシミン基準)、ある選択を行った場合に考えられる最良の結果が一番良いものを選ぶかもしれないし(マキシマックス基準)、あるいは後悔が一番少ない選択を行うかもしれません(ミニマックスリグレット基準)。この例からもわかるように、要するに「合理的選択論は現実からかけ離れている」などという批判が出てくるのは、入門用の教科書だけを読んで早合点しているからであって、実際には研究者はモデルを現実に近づけるため、より現実的な前提を導入したりいろいろやっているということです。ちなみに僕がこれまでに見た、質的アプローチをとる研究者による最悪の合理的選択論批判は以下のものです。
"Extant rational choice theories, which commonly assume risk aversion, cannot explain these divergent outcomes, especially the bold decisions of Presidents Menem, Collor, Fujimori, and Perez. ... Particularly, these theories predicted that fear for their political survival would prevent democratic leaders from
enacting tough economic policies."
(現在の合理的選択論は、共通してリスク回避を想定しているが、それではとりわけMenem、Collor、Fujimori、Perezの大胆な決定といった様々な結果を説明できない。(中略)特に、これらの合理的選択論においては、政治的に生き残れないかもしれないという恐怖は、デモクラシーにおける指導者が強硬な経済政策を打ち出すことを妨げると予測された。)
詳しくは書きませんがこれはUTの政治学部で幅を利かせる比較政治学者の文章です。90年代後半に学術誌に発表された論文からのものです。しかし彼は一体どういった根拠から合理的選択論はリスク回避を想定しているなどと思っているのでしょうか(だいたいの予想はつきますが長くなるので書きません)。あり得ない!
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8月10日(木)の昼
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某掲示板経由で面白い論文を発見。この論文は基本的に、経営学の分野におけるミクロ経済学の隆盛に苦言を呈し、代わりにこの分野における進化心理学のアプローチの必要性を訴えるものなのですが、以下のような例が提示されています。
1998年の1月にアメリカの大手スーパーマーケットチェーンである、Safewayは"superior customer service policy"というのを始めました。この方針は従業員に対して、客の目を見て微笑むことを徹底させるもので、さらに例えばレジで客が小切手やクレジットカードで支払った場合には客の目を見て微笑みつつ「○○様、このたびはSafewayでお買い上げ頂きありがとうございます」などとラストネームで呼んだりします。この方針は従業員も客も男性あるいは女性、従業員が男性で客が女性の場合には問題ありませんでした。しかし従業員が女性で客が男性の場合、客の男性が女性従業員のそうした振る舞いを「好意がある」と勘違いし、職場やプライベートでストーカーと化すということが頻発しました。結局、5人の従業員の女性が会社に対してこの方針をやめるよう裁判所に訴え出るという挙におよび、この方針は廃止されました。
この論文の著者は、この方針はsingularかつunitaryなアクターからなる(つまりアクター間の違いや特殊性を考慮しない)ミクロ経済学的モデルが支配的なトップビジネススクール卒のMBAの経営コンサルタントによって考案されたのではないか、と疑います。この方針には、「従業員と客」はいても「男性と女性」はいません。著者はこれが問題が生じた原因だと言います。
女性が男性に微笑みかけるというシチュエーションにおいて考えられることは二つあります。一つは女性がその男性に気があるということ。もう一つは気が無いということ。ここで「気が無いのに、気がある」と誤って判断することをType I error、「気があるのに、気が無い」と誤って判断することをType II errorとすると、男性はType II errorよりもType I errorを犯す傾向にあるといいます。なぜなら、子孫を残せるかもしれないせっかくの機会を逃すというType II errorを犯したときの代償はType I errorを犯したときの代償よりも大きいと考えられるからです。それに対して、女性はというと逆にType I error(相手に気が無いのに、あると判断)よりもType II error(相手に気があるのに、無いと判断)を犯しやすいということです。というのも、もしType I errorを犯して相手との間に子どもをもうけたとき、気が無い相手の男性は結局彼女の元を去ってしまい、残された彼女は一人でその子どもを育てなければならないからです。
こうした問題はスーパーの従業員はほとんど男性で、客はほとんど女性だった50年前には無かったと著者は言います。しかし職場をはじめ社会の様々な場で女性の進出が著しい今日において、このようなsingularかつunitaryなアクターを想定したミクロ経済学モデルに依拠した経営方針は問題を引き起こしており、ビジネススクールにおいては心理学者の研究がもっと重視されるべきだとのことです。
このように男女の性差といった生物学的違い(gender gap、sex gap)による行動の説明は、政治学でも最近注目されつつあると思います。去年のAPSAでも生物学的違いによる政治行動の説明がテーマのパネルがありました。これはいわば社会科学における経済学支配に対する心理学側からの巻き返しとも言えるかもしれません。方法論という観点から言えば、社会科学における二大巨頭は経済学と心理学でした。未だ独自の方法論を確立できない政治学は常に、この二大巨頭の勢力争いのいわば戦場だったわけです。行動科学革命以降、とりわけ投票行動の分野では心理学的アプローチが隆盛を極めました。Campbell, Converse, Miller, and Stokes. 1960. The American Voterなんかが代表的です。その理由の一つとして僕が思うに、有権者を初めとする政治的アクターは合理的では無い、つまり経済学の合理的存在としての"homo economicus"の仮定が政治学には当てはまらないと思われていたからです。しかし70年代を通じての有権者の合理性をめぐる論争を経て、僕の見るところ81年のFiorina. 1981. Retrospective Voting in American National Electionsによって有権者は合理的であるとの方向で一応の結論が出され、以降経済学的アプローチが支配的になったのではないかと思います(ちなみに僕としてはSuzuki. 1991. "The Rationality of Economic Voting and the Macroeconomic Regime." AJPSも同じく重要だと思います)。それが最近になってgender gapをはじめとする、生物学的な違いによる説明が出てきた。
ただしその問題としてはやはり理論よりも経験重視ということが挙げられるのではないかと思います。男女間の違いはいわば統計学的な「発見」であり、その違いを理論的に説明しようにも、その理論が正しいかどうか実証不可能な場合が多いのではないかと。例えば上のケースのように、男性は相手に気が無いのに気があると勘違いしやすく、女性は相手に気があるのに気が無いと勘違いしやすい、と経験的に示されたところで、じゃあなぜそうなのかとわれた時には「子孫を残すため」という観点からの解釈が提示されるのみです。いわばこうした議論の正しさはその解釈に対してどれだけ多くの人が賛同するかによって決まるという意味で「了解モデル」的であり、科学的な証拠によって客観的に有効性が決まる「客観モデル」では無いのではないかと思います。まあ研究うんぬん考えずに、ビジネスの現場で応用として使うのなら、「男性は相手に気が無いのに気があると勘違いしやすく、女性は相手に気があるのに気が無いと勘違いしやすい」という知見だけで十分なのかもしれませんが。あとおそらくこうした研究は、悪名高い優生学(Eugenics)の系譜を引いているのではないかと思います。
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8月13日(日)の夜
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昨日は僕の誕生日でして、夕方H先生から「メシいくか?」と電話がかかってきて二人でタイ料理屋へ。そのタイ料理屋は雰囲気が良く、デートっぽい男女のカップルがいる中、デザートのライスプリンも一皿を二人仲良く食べあいました。要するにいつもと同じ週末でした。で、帰りにTargetに寄ってもらって、最近僕のアパートにネズミが出るようになったためキッチンのゴミ箱をきっちりしようと蓋付のやつを購入。先生はついでにRiskというクラッシクな世界征服ゲームを購入しました。で、先生のアパートに戻り、最近同じアパートに越してきた女子を呼び出し、三人でRiskをプレイ。それにしても手ごまが増えすぎて最後はなんだかわけがわからなくなるゲームです。しまいにはその女子が「これ数えるの面倒くさく無いですか?」との一声で、「じゃあやめよか…」と終了。僕個人的には「こんなんで面倒くさがってちゃあ、ウォーゲームは出来ないぜ!」と思いましたが。その後は例によってCatan。Sea Faresの拡張キットを使いました。仲良く一回ずつ勝って終了。夜中の2時に解散となりました。
今学期から学費の支払いが少し変わったようで、ちょっと面倒くさいです。今までは一旦、州民料金になったのを払った後、さらに学期の半ばくらいに保険料と州民料金分がもらえて、最終的に学費の支払いはほぼゼロとなっていたのですが、今回からは最初の支払いの段階で全てが行われることに。ただし「段階的に」です。支払いの期限は16日。僕は期限ギリギリに払うのが嫌なので、州民料金になった段階で学費と健康保険料を払いましたが、その後チェックするとそこからさらに安くなっていたみたいで、この時期を待っていたらほとんど払わなくて良かったみたいです。まあ払いすぎた分は"a 14 day waiting period"の後に返ってくるみたいなのですが(この"a 14 day waiting period"が何なのか良く分かりませんが)、一時的とはいえ手持ちのお金が少なくなるのは不安を覚えます。今学期学費が5200ドルほどのところ(僕が入学したころには4000ドルだったことを思えばすごい値上がり率)、州民料金と健康保険で3400ドルを支払い。結果、当座預金口座には2000ドルちょっとしか残りません。ケータイも車もケーブルもブロードバンドも無い僕の生活では全然やっていけるんですけど、心配性の僕は買おうと思っていたデジカメ119ドルを買い控えそうな勢いです。
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8月14日(月)の夜
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バスに小一時間乗って一人で映画を観に行ってきました。オリバー・ストーン監督、ニコラス・ケイジ主演のWorld Trade Centerです。言うまでも無く、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターに二機の旅客機が突っ込んだ事件に関する映画で、事件直後に現場に向かった警官二人がビル崩壊で生き埋めとなり、奇跡的に救出されたという事実に基づいて作られています(大規模な捜索にも関わらず、生き埋めにされた人のうち救出されたのは全部でたったの20名)。基本的にその二人の救出をめぐる家族愛とレスキュー隊の勇気の人間ドラマで、大変感動的でした。ただし実際にあった事件だからという部分はやはり大きく、これが例えば「宇宙戦争」や「アルマゲドン」のようなSFの設定だったら、ただの凡庸で退屈な救出劇だったと思います。つまり当時事件に近く、登場人物に自分を重ねあわすことができる人ほど感動できる映画だと思います。その意味で日本で公開されても評判を呼ぶかは微妙なところです。
この映画を観た感想としてよく言われるのは、「監督はオリバー・ストーンでなくても良かったのではないか」ということです。きっとそう言う人は、ケネディ大統領暗殺の陰謀に挑んだ「JFK」の監督として、オリバー・ストーンには911にまつわる陰謀のようなものをほのめかして欲しかったのではないでしょうか。しかし実際この映画は事件の背後にあるマクロな陰謀的なものは一切描かず、ひたすらミクロのヒューマンドラマに徹しています。現在のCG技術なら容易に劇的なシーンが再現可能な旅客機の衝突の瞬間も映像として一切見せません。まるでNHKの「プロジェクトX」です。しかし、だからこそ政治的な思想や立場を異にする人びとが何の先入観も無く観れるのではないでしょうか。リベラルもコンサバも、後のイラクでの戦争に賛成の人も反対の人も、事件を陰謀だと思う人もそうでない人も、考え方の違いを超えて、ただみんな人間だという事実によって家族愛や同胞愛に満ちた救出劇に感動でき、911のテロで無くなった人々に思いを寄せることができるのです。
このように911をわざと政治色無しの人間ドラマとして描いたのは、監督の思惑だと思います。そこにいた人間への賛美はあってもアメリカ国家への否定も肯定も無い。イスラムに対する同調も敵意も無い。ただただ現場で二人が助かって良かった。その点、イスラムのテロリストに対抗するアメリカ人を描き、ややもすれば「アメリカバンザイ」的な胡散臭さがあった同じ「911系」映画であるUnited 93とは趣を異にします。ただしだからこそ、この映画を観て想像力のある人なら、これと同じような人間ドラマがアメリカ空軍機の「誤爆」によって破壊されたバグダットのビルの瓦礫の下で起こっていることを思い知ることでしょう。
あと映画の前の予告編で面白そうなのを見つけました。ショーン・ペン主演でこの秋公開のAll the King's Menです。この映画は前世紀初頭のルイジアナ州知事であり、FDRの最大のライバルだったポピュリスト、Huey P. Longの生涯を描いたものでおそらく1949年の同名の映画のリメイクと思われます。Longを主人公にした映画としては他にKingfish(1995)があります。Longはアメリカ史上最大のポピュリストであり、これを観ればポピュリストとは何かがわかるでしょう(僕が思うに小泉首相は「ポピュリスト」ではありません。ポピュリストは日本語訳としてあてられる「大衆迎合主義者」というより「反逆者」に近い響きがあります)。
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8月15日(火)の夜
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意図的にさまざまな政治団体にアドレスを流出させていることもあって僕の所には結構怪しげな団体からのダイレクトメールが届きます。先日来たのもその一つで、キリスト教やイスラム教をはじめとするありとあらゆる信仰を激しく攻撃する無神論者の団体からのものでした。その内容には、ヒトラーの『わが闘争』は創造説に基づいて書かれていることとか、マザーテレサの「悪行」を暴いたものだとか、フランスにおける公教育の場でのイスラムのヴェール禁止を支持するものだとか、エホバの証人を非難するものだとかが含まれていました。
僕個人の考えとしては、無神論者よりも信仰者の方が好ましいと思います。ただし信仰者の集まりとかではなく、公の場で自分の信仰について語ったり、異なる信仰を非難する人に不快を禁じ得ません。というのも信仰というのはまさに人それぞれの属性であって、人間共通の理性、合理性でもって語れることではないからです。特定の人にだけ通じる話や心の内を、一般に吐露するのは聞く人を気持ちの悪い思いにさせるだけです。つまりあくまで信仰は「私」の問題であって、「公」の領域で語られるべき事柄ではないのです。どれだけ正統的な信仰と言っても、理性的な観点から見ればおかしいに決まっています。マリアの処女懐胎、イエスが起こした奇跡、生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」と言った釈迦、有象無象の神を有する仏教。どれもこれもカルト教団の「トンデモ」な教理と程度の差があるだけで、理屈の上からは全部おかしいに決まっています。これらの事柄は、科学的法則など理性の能力でもって全ての人に共有できる真実とは異なり、信仰の力によって特定の人びとに対してのみ真実たりうるものなのです。正しいか正しくないか、ではなく信じるか信じないか、です。したがって逆に、実際に犯罪でも起きない限りは、理性的な立場から「お前の信仰は間違っている!」と言うのも正しく無いと思います。
もし信仰が「公」、すなわち政治の場に持ち込まれたらどうなるか。神々の闘争、絶対と絶対の対立、宗教戦争です。人類はその教訓からリベラルデモクラシーの諸原理としての政教分離や思想信条の自由や寛容を生み出しました。宗教は政治家を含む個人を動かす原理とはなっても、全体としての国家権力を動かす原理となってはいけないのです。国家権力の発動のあり方を問う「公」の議論において神や仏が登場するべきではありません。
そう考えると今回の小泉首相の靖国参拝はどうなるのか。もし「靖国参拝」が公費支出を伴うような国家権力の発動ならそれは反対されるべきでしょう。しかし、もしそれが個人としての意思決定であるなら問題無いはずです。ただし首相は公人であり、その意思決定は公の意思決定でもあるという意見もあります。しかし首相は間接的に国民に選ばれているとはいえ、一旦選ばれ、国政を委任されたからには個人の裁量というのも持ちます。靖国参拝もその裁量の一部であるとも考えられるでしょう。それによって日本の国益が損なわれたというのであれば、次の選挙で拒否を示せばよいだけの話です。国としての意思決定を「私」の言葉、つまり特定の人にしか通じない理屈で説明するのは馬鹿げていますが、個人としての意思決定を「心の問題」などと「私」の言葉で説明するのには問題ないと思います(アメリカのキリスト教原理主義者が怖いのは、親イスラエル政策というアメリカの国としての「公」の決定を正当化するのに、聖書を持ち出してくるところ)。
ただし僕としては靖国神社とそれをとりまく人々、およびその思想が大嫌いです。それは何よりも上の文脈で言えば、国の意思決定という「公」の場において「理性」(合理性)ではなく精神論としての「信仰」のコトバがまかり通った時代の再来を予感させるからです。このようなリベラルデモクラシーを否定するような思想には問題があると言わざるを得ません。価値相対主義をとるリベラルデモクラシーの弱点は、ワイマール共和国におけるナチスの台頭にも見られるように、それ自体を否定してしまうような思想をも「思想信条の自由」、「言論の自由」という名のもとに許容してしまうところにあります。かといってこれを弾圧すれば、体制の正当性も疑われかねない。このジレンマをどう解決するのかが課題ではないでしょうか。
長々と「チラシの裏」、すいません…。
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8月16日(水)の夜
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今晩はH先生と、H先生と同じアパートに住むundergraduateの女子とで、そのアパートにあるテニスコートでテニスをしました。非常に気持ちが良い。普段のパソコン疲れとは全然違う良質の疲れです。ここ数日は寝つきが非常に悪く、午前4時就寝午後12時起床という感じですごい自己嫌悪と倦怠感があったわけですが、今晩は普通に12時くらいには寝られるかも、です。下の写真はH先生の隠し撮り。500万画素ぐらいの新しいデジカメを購入しようかと迷っていたのですが、お金も無い折、以前に40ドルで買った変なデジカメで我慢しようと思います。
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8月17日(木)の夜
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今年の初めに自転車の後輪がパンクして以来、全然自転車に乗っていなかったのですが、どうやら無くても問題なく生活できるということに気づきました。なので突然ですがオースティン在住の方、Gary Fisherの自転車、もらってください。パンクを修理するのに10ドルくらいかかると思います。自転車自体は古いですが、これまでにチェーン、グリップ、サドル、タイヤ(前後輪とも)、ブレーキパッドを交換しており、状態は悪くないと思います。自転車用のロック、ライト、携帯用の空気入れもお付けします。種類はおそらく98年製のGitche Gumeeで、もともとの値段は300ドルくらいだと思います。あと、取りに来て下さい(West Campusに住んでいます)。 興味のある方がおられましたら、直接メールを下さい。よろしくお願い致します。
→引き取り手がみつかりました
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8月17日(木)の夜
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僕は普段から結構アメリカでの生活に関して不平不満を述べています。それはおそらく、カネの多寡によって差別することが正当化されているアメリカにおいて、「下層」の暮らしをしているからでしょう。アメリカではカネがあればすごく良いサービスが受けられますが、逆にカネが無ければそれ相応のサービスしか受けられず惨めな思いをすることが多いです。僕は週に最低5回はバスに乗りますが、バスの乗客はほとんどが見るからに疲れ果てた貧乏人です。大げさに言えば彼らは車というアメリカにおける生活必需品が無いために、人間の尊厳までもが損なわれているのです(そもそも高級な住宅地、ショッピングモール、娯楽施設はバスでaccessibleではない)。それが日本だと金持ちも貧乏人も基本的な生活的必要の部分ではだいたい同じです。公的部門以外でもカネの多寡に関係なく同じサービスが受けられることが多いです。したがって、もし金持ちならアメリカで生活する方が幸せですが、もし金持ちで無いなら日本で生活する方が幸せだと思います。たぶん僕の日本と比較しての「アメリカ嫌い」はこういうところから来ているのでしょう(もちろん僕の場合は、自分で好き好んでそうしているので、その不平不満には深刻さはありませんが)。
しかしことオースティンに関しては全く逆です。オースティンに対する悪口を聞くと無性に腹が立ちます。在住の日本人の中には「オースティンは田舎だ」とか「退屈だ」とか「娯楽がない」とか「差別がある」とか言う人がいますが、そういうのを聞くと「それはそっちが無知なだけだ!オースティンは全米的に見てもどれだけ恵まれたところか!オースティンがつまらんというのなら、アメリカのほとんどの地域はもっとつまらんぞ!」とムキになって反論してしまうのです。例えばオースティン商工会議所のまとめによると、オースティンは以下のランキングに入っています。
・「将来のビジネスの土地」第1位(Expansion Management誌、2006年)
・「発明の都市」第3位(Wall Street Journal、2006年)
・「住むのに最適な場所」第2位(Money誌、2006年)
・「独身者にとっての最適な都市」第1位(Forbes誌、2006年)
・「退職後住むのに最高の土地」(RetirementLifeToday.com、2006年)
・「全体としての生活水準」第4位(Expansion Management、2006年)
・「頭の良い都市」第3位(Bizjournals.com、2006年)
・「今後10年間の労働市場の成長予測」第4位(Business 2.0、2006年)
・「ウォーキングに最適な都市」第6位(American Podiatric Medical Association、2006年)
・「映画制作に最適な都市」第2位(MovieMaker誌、2006年)
・「フリーワイアレスな都市」第2位(JiWire, Inc、2006年)
また人口も2005年の推計で全米で16位の約69万人と、23位のシアトル(約57万人)、24位のボストン(約56万人)よりも多いのです(ただしオースティン市の面積はシアトル市やボストン市よりも大きいだろうし、都市圏という意味では規模はこれら二つよりは小さいかも)。
以上、現実逃避のための意味の無い「お国自慢」でした…。
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8月20日(日)の朝
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最近は本当に調子が悪いです。何とか抜け出したいものです。
意味無くオースティンのランキングの続き。このウェブサイトのまとめによるとオースティンは以下のランキングにも入っているようです。
・「最も教育程度の高い都市」第5位(The US Census Bureau)…人口の45.1%が大卒以上
・「ベジタリアン都市」第8位(People for the Ethical Treatment of Animals )…ちなみにこの動物愛護団体は過激な抗議活動で知られる
そんなことより、自分のことをしないと…。
ところで最近自分の中でアップデイトを怠っていたアメリカ政治の話題。National Review最新号の記事によると、2008年の大統領選挙の民主党最有力候補はクリントン(ヒラリー)、共和党最有力候補はジュリアーニだそうです。ただしNational Reviewは共和党系ですが、宗教的にも強固にカトリックなので、中絶を認め、ゲイに寛容なジュリアーニには否定的な見解をもっているようですが。
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8月21日(日)の朝
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昨日の日記でPeople for the Ethical Treatment of Animals(PETA)は過激な抗議活動で知られる動物愛護団体と書きましたが、特に最近有名なのは彼らのケンタッキーフライドチキンに対する抗議運動です。メンバーがケンタッキーフライドチキンの特約養鶏場に作業員として潜入し、中で動物虐待が行われている実態をビデオ撮影。それをネットで配信しました。で、そんなことを考えながら勉強していると急にケンタッキーフライドチキンが食べたくなりました。エセベジタリアンの僕にはどうやら全然PETAのメッセージは伝わっていないようです。ケンタッキーフライドチキンに行くには僕のアパートからだと10分かけて大通りのバス停まで出て、そこからさらに15分くらいバスに乗らないといけません。さんざん迷った揚げ句、結局夜8時半くらいから行くことに。かなり久しぶりだったのですが信じられないくらいおいしくて、大変満足でした。胸1ピース+足1ピース+コールスロー+マッシュポテト+ビスケット。チキンはどちらか1ピースで十分でしたが。
今日は大学で偶然たくさんの日本人に会いました。特にびっくりしたのが4年前にUTの学部を卒業したMくん。彼は卒業後日本の会社で3年半働いた後、退職し、今回Ph.D.取得のためまたUTに戻ってきたとか。UT以外の大学は受けなかったそうで、彼のUTへの愛を感じます。卒業後はどうするのかと聞いたら、冗談で「某アメリカ企業に就職し、その傘下である前いた日本の会社に出向する」と言っていました。彼の前いた会社はアメリカ企業に買収されたため、彼の職場でも上司として30歳くらいの若いアメリカ人が赴任してきて古株の日本人の上に立つということがあったそうです。企業活動に国境など無いとはいえ、何だか現在の日本の悲哀を感じる話です。
で、彼と話しているときにたまたま通りかかったのが、UTの学部を2年前に卒業したIさん。日本在住のはずなのになんでここに!?と思ったのですが、聞くと彼女はたまたま友人の結婚式に呼ばれて1週間だけオースティンに来ているとか。
他にもそれぞれ別のシチュエーションで3人の知り合いの日本人に会い、日本人の少ないUTではこんなこと滅多に無いので何だか不思議な感じがしました。
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8月23日(火)の夜
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僕は普段、日中は大学のパソコンで博士論文を書いていて、それをUSBメモリーに保存し、帰宅後家のパソコンのHDに保存することで、データ消失に備えています。しかし今日はそれが裏目に出ました。誤って、USBメモリーに保存した新しいデータをHDに保存していた古いデータで上書きしてしまったのです。つまり今日一日の「成果」がパーです。すごいショックです。何か対策は無いものか…。いずれにせよこれからもっと気をつけないといけません。
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8月24日(木)の朝
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前にも書いたとおり僕はmixiの「アイン・ランド」コミュニティの管理人をやっているのですが、そのトピックに僕が最近書き込んだ内容を折角なので以下に貼り付けたいと思います。
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「人々が主張するように、物事はあるべきだ」と、<調和九の二六四二号>が言った。「それに、そのようなものは、<蝋燭局>を破滅させてしまうだろう。<蝋燭>は、人類にとって偉大なる恩恵である。すべての人々に是認された恩恵である。したがって、ひとりの人間の気まぐれのために、<蝋燭>が破壊されてはならないのだ」とも言った。
<満場一致二の九九一三号>が言った。「これは、<世界協議会計画>を挫折させるだろう。<世界協議会計画>がなくては、太陽も昇れない。蝋燭が、すべての<協議会>からの是認を確保して、必要とされる蝋燭数が決定され、松明のかわりに蝋燭を使用するために<世界協議会計画>が修正されるまでに五〇年かかった。こんなものが出てきたら、たくさんの国家で働く何千何万もの人間に重大な影響を与えてしまう。また再び、こんなに早く<世界協議会計画>を変更することなどできるはずがない」
<類似五の〇三〇六号>が言った。「それに、もしこれが、人々の労苦を軽減するとしたら、それは重大な悪ではないだろうか。他人のために汗を流し苦労することにおいて以外に、人間に存在すべき大義などない」
この文章はランドの小説、Anthem(1938)(藤森かよこ訳)からのものです(この小説は著作権切れにより自由に翻訳できるとのことで「藤森かよこの日本アインランド研究会」のウェブサイトにて日本語訳が公開されています)。この小説の舞台は全体主義が成立し「個人」という概念が失われた近未来の世界。自由に商売ができないどころか、所有権、職業選択の自由、個人の家、そして個人の名前すらありません(作中にある<類似五の〇三〇六号>などは個人を識別するための記号です)。一人称の名詞も消滅しています。そんな中、科学者を志望していた主人公は<天職協議会>により掃除人にさせられますが、それでも密かに研究を続け、ついに失われた技術である電気を再発見します。そして歓迎されるであろうという期待のもとに、これを<学識びと世界評議会>に持ち込みますが、結果上に引用したような理由で否定され、罰せられてしまいます。要するに平等な社会において、人と違ったことをしたり、人より優れた者であったりすることは悪なのです。また政府の「計画」が絶対的であり、この計画の前では効率性など二の次なのです。
もちろんこれはあまり洗練されていない、悪意を込めた共産主義の単純化ですが、後のランドの小説『肩をすくめるアトラス』(1957年)の原型が見られます。
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The ethic derived from the metaphysical base of Objectivism holds that, since reason is man's basic tool of survival, rationality is his highest virtue. To use his mind, to perceive reality and to act accordingly, is man's moral imperative. The standard of value of the Objectivist ethics is: man's life -- man's survival qua man -- or that which the nature of a rational being requires for his proper survival. The Objectivist ethics, in essence, hold that man exists for his own sake, that the pursuit of his own happiness is his highest moral purpose, that he must not sacrifice himself to others, nor sacrifice others to himself.
(拙訳:客観主義の形而上学的基礎から導かれる倫理が主張するのは、理性は生存のための人間の基本的な道具であるから、合理性は人間にとって最高の美徳であるということです。頭脳を使うこと、すなわち現実を認識し、それに従って行動することは人間の道徳的義務です。客観主義の倫理の価値基準は人生、すなわち人間としての生存、あるいは合理的存在としての本性がその適切な生存のために必要とする生です。客観主義の倫理がその本質において主張するのは、人間は自分自身の目的のために存在するということ、自分自身の幸福の追求は自分にとって最高の道徳的な目的であるということ、そして人間は他人のために自らを、あるいは自分のために他人を犠牲にしてはならないということです。)
これは1964年にPlayboy誌に掲載されたアルビン・トフラーによるランドのインタビューからの文章です。この中でランドが主張するのは要するに、合理性が善悪判断の基準であるということ、すなわち「合理的である=善である」ということです。経済学において研究者は「人間は合理的存在である」と仮定し、それをもとに経済現象の説明を試みますが、当然ここには価値判断は含まれません(合理的なのが善いとも悪いとも言わない)。しかしランドはさらに進めて、「人間は合理的存在であるべきだ」と主張するのです。
それはなぜなのか。ランドによればそれは、人間の生存ために合理性は欠かせないものだからです。つまりランドの哲学の価値の源泉は「人間としての生」にあるといえるでしょう。他人が何と言おうと自分は自分。自分が正しいと思ったことを貫くために一番良い方法をとるのが善なのだ!素朴なまでの人生肯定の哲学、それが客観主義といえるのではないでしょうか。
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For Libertarianism says: don't stop anyone from doing what he feels like doking; Objectivism says: live by reason, follow a rational code of morality, hold self-interest as a virture, establish the principles of limited government to define the appropriate use of retaliatory force. One upholds subjectivism; the other upholds an onjective reality, objective values, and objective law.
(拙訳:リバータリアニズムは「誰かが自分の好きにやるのを止めるな」と主張するが、客観主義は「理性によって生きよ」「美徳として利己主義をもて」「報復のための強制力の適切な使用を定義するために制限政府の原則を確立せよ」と主張する。前者は主観主義を支持するのに対して、後者は客観的な現実、客観的な価値観、客観的な法則を支持する。)
これはアイン・ランドの著作からではなく、ARI(Ayn Rand Institute)の前代表Peter SchwartzのThe Intellectual Activist(1986)からの文章です。リバータリアニズムと客観主義の違いについて。両者はともに小さな政府、市場主義を唱える保守主義の一派として混同され、アイン・ランドもリバータリアニズムの源流の一つとされたりしますが、客観主義の側からすればリバータリアニズムと同じにするな、ということです(ランドも「自分はリバータリアンではない」と言っていた)。
で、どう違うかというと上にもあるとおり、リバータリアニズムは「人はそれぞれ違う」と人間を多様な存在とみなし、善に関する一つの定義を避け、何が良いか悪いかを各人の判断に委ねますが、客観主義は「人は皆自己の生命保存という一つの目的をもつ」と人間の同質な存在とみなし、はっきりと何が善かを主張するのです。このへんがリバータリアニズムを介してランドに出会った読者が最も当惑する思想ではないでしょうか。
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8月26日(土)の朝
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今週の月曜日に、毎年恒例の"Party School"ランキングが発表され、UT-Austinは今年は1位に輝いたそうです。ちなみに最も"stone cold sober"(硬くてしらふ)な大学は9年連続でモルモン教のBrigham Young Universityだそうです。
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8月28日(月)の夜
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昨夜、本棚を整理しているとRavi Zacharias. 2001. The Lotus and the Cross(『蓮と十字架』)という本を見つけました。内容は「仏陀とジーザスが対話したら…」というもので、留学して最初の2年間、毎週通っていたバイブルスタディの参加者のクリスチャンから個人的にプレゼントされたものなのですが、どうも読むのを忘れていたようです。見つけたのも何かの縁かと思い、昨夜の風呂上りから読み始めることに…。
すごいトンデモ本でした!著者はインド生まれでカナダ在住のクリスチャンで明らかに仏教徒をキリスト教に改宗させるという意図をもって書かれた本です。あるいはクリスチャンが読んで自分の信仰の優位を確かめてほくそえむ本。舞台は「人口の95%が仏教徒の国」ですから、おそらくタイで、幼くして地方の村から売春婦として親に売られ、エイズに罹り死んだという女性がどういうわけか蘇って、仏陀とキリストと川下りしながら対話するというものです。最後には仏教徒だった女性と船頭が「仏教じゃ救われないな…」ということでキリスト教に改宗して終わります。おそらく僕が熱心に2年間もバイブルスタディに通ってかなり真剣に話を聞いていたにも関わらず(しかも2年目の最初にはそこの牧師の紹介でキリスト教の学校の寮に入ろうとまでしていた)、「自分は仏教徒だ」としつこく言っていたからこんな本をくれたのだと思います。
著者はイントロダクションで「仏教徒との親密な対話を楽しんでいると、私は仏教とキリスト教の大きな違いを際立たせ、仏教を批判することは難しいと思った」と言いつつも、「ジーザスと仏陀の両方が正しいということはあり得ない」とキリストの優位を高らかに宣言します。
話の前半は女性の「なんで私はこんなに苦しむのか」「どうすればこの苦しみから解放されるのか」という疑問に(著者が思うところの)仏陀が答え、ジーザスがいちいちそれを批判します。まず仏陀は因果応報の理を説き、「あなたが苦しむのは前世に自分が撒いた種のためだ。生まれたときから重荷を背負っているし、自分のしたことを贖わなければならない。これはもう決まっているから仕方無い。唯一の望みは、来世に良い身分で生まれられるように今良い種を撒くことだ」などと言います。それに対してジーザスは「私があなたに代わってその重荷を贖おう。苦しみを共に分かち合おう。私がこの世の邪悪と苦しみを取り除こう」などと答えます。また仏陀が「われわれの苦しみは全て、個人すなわち自分自身というものがあるという感覚をもつことから始まる。苦しみから解放されるには、自分自身など存在しない、われわれは自分自身という幻影に生きているのだと悟らなければならない。自分が苦しみのもとであり、自分があるから苦しむのだ。」と主張すると、「人はそれぞれ神の似姿として創造されたかけがえの無いものだ。神から尊厳と名誉を与えられたのだ」と個人の大切さ、西洋流の個人主義を諭します。
後半戦は仏教寺院に移動し、ジーザスの攻勢が始まります。もうここでは仏陀の出る幕はありません。一方的に批判されて負け惜しみを言うだけです。タイの仏教寺院における僧侶の禁欲的な生活、女性差別的なしきたりを迷信と戒律主義と批判してジーザスいわく「迷信は全能の神への信仰の欠如から起こるのだ。迷信は未知へのものの恐れから出てくるのだ」。さらには仏教で三宝と言われる「仏・法・僧」を批判していわく「第一に、仏。あなたの教えによれば、あなたは個人としてはすでに存在しない。非存在が第一の宝の正体だ。第二に法。その教えは保存されるべき永遠の言葉(Word…キリスト教の神の言葉という意味で最初大文字)ではないし、人びとを導く絶対ではない。これが第二の宝の正体だ。第三に僧。この集団は自分自身が存在するとは信じず、また他人との友情も含めて何も望まない人びとから成っている。これが第三の宝の正体だ」。
とまあこのようにワンサイドゲームが行われるわけですが、それにしてもひどいのが仏陀の人物像。「ジーザスよ、俺は仏陀=悟りを得た者でゴータマではもう無いのだから、ゴータマとファーストネームで呼ぶなよ」と高慢な態度を取ったり(しかしジーザスは最後まで「ゴータマ」と俗名のファーストネームで呼び続ける)、「俺は君が生まれる5世紀も前から苦しみ(suffering)について語っていたんだ!」と自慢し、ジーザスに「君より前にヨブがその問題に日夜取り組んだのさ」と反論され「きっとそれは俺が生まれる前に違いないな。だってヨブって名前知らないから。ちゃんと書き留めとくな。俺の信者たちは俺がキリストよりも先に教えを説いたことを自慢に思っているみたいだから」とやりこめられたり、エイズに罹った女性に触れるのを拒否したり(それに対してジーザスは彼女の苦しみを分かち合うという意味で彼女のコップの水を飲む)、揚げ句の果てには女性に一緒に帰宅してくれることを頼まれ、"No, I can't."とすげなく断ります(もちろんジーザスは"I can"と答える)。
とまあ以上のような本なわけですが、さすがにこれはキリスト教徒の間でも不評のようで、Amazon.comのレビューでもクリスチャンが多数批判的なレビューを書き、総合評価も5点中2.5点と低いようです。僕が思うに結局のところ著者は仏教をユダヤ教張りの形式主義、戒律主義と、無神論の混合のように捕らえているのではないでしょうか。あと仏教は苦しむ人々に同情しないで突き放す、とも。特に著者は「唯一絶対の神がいない」ということに不満を感じているようです。一神教的な世界に生きる著者からすれば「唯一絶対の神がいないで、どうして道徳が生まれるのか?善悪がわかるのか?罪が許されるのか?生きる目的があるのか?」ということだと思います。
いずれにせよ僕は信仰の優劣を競うのは愚かなことだと思います。科学的なことについては理性すなわち人知の範囲であるから「正しい、正しくない」など優劣をつけることは必要だと思います。しかし、以前にも書きましたが信仰に関しては「正しい、正しくない」ではなく「信じる、信じない」であり、客観的にどれが良いという問題では無いと思うのです。「キリスト教は素晴らしい!」と主張するのは全然問題無いと思うのですが、「キリスト教は仏教(or イスラム教)よりも素晴らしい!」と言うのは人を不愉快にさせるだけでなく、結論の無い論争が始まるだけでしょう。特にこの著者の場合、仏陀に語らせている分、さらに罪は深いと思います。
とはいえ、最後に僕が仏教は良いなあと思う話を一つだけ。『長老尼偈』という古い仏典(詩集)にこのような話があります。ある日、祇園精舎にキサー・ゴータミーという子どもを亡くした母親がやってきて、仏陀に「この子を生き返らせて下さい」と懇願しました。仏陀は「その子を生き返らせたいと思うなら、街へ行って誰も死んだことのない家から、ケシの実をもらってきなさい」と告げました。母親はそれを聞いて喜んで街へ行き、家々をケシの実を乞うて周りましたが「誰も死んだことのない家」は一軒もありませんでした。母親はここでようやく、誰も人間と生まれたからには死を避けることができないという真理を悟り、心も静まって仏陀のもとへ帰ってその旨を告げました。仏陀は「死はお前の子にだけあるのではない」と諄々と道を説き、母親は盲愛から目覚めて仏陀の帰依者となりました…。ちなみに聖書によればキリストは3人死者を生き返らせています(ヤイロの娘―マタイ9:18-26他、ナインの息子―ルカ7:11-16、ラザロ―ヨハネ21:1-14)。
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8月31日(木)の朝
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結局今学期もTAをやっているわけで、昨日が最初のクラスでした。今まで3回もTAをやって勝手知ったる公共選択とゲーム論のクラス。最初の授業で先生が言うことも毎回同じ。しつこく「このクラスは他の政治学のクラスと違って具体的なことは一切扱わない。抽象的なことだけ。後で話が違うなどと文句を言ってこないように」と繰り返します。要するに、間違ったexpectationをもつ学生にdropを勧めています。先生がこんなことを言うのは変な感じですが、まあ多くの政治学専攻の学生が「数学嫌い」なんだからこれくらい厳しく警告を発しておく必要があるのかもしれません。
僕にとってはこのクラスのTAの仕事はかなり楽なものになると思います。二つある教科書もずっと同じだし、試験問題、練習問題作成も今までの蓄積があります。授業とオフィスアワーで1週間の拘束時間が6時間。他に授業も取ってないので後は全部自分の研究に当てられます。これで授業料免除+手取りで月日本円にして15万円くらいもらえるのですから、恵まれています。その分本当にがんばらないといけません。
ところで電話代の値上がりが激しいです。今月なんて36ドルちょっとも払っています。内訳を見ても怪しいサービスを勝手に付けられているとかではなく、単なる値上がりと思われます。しかし解せないのは明細に「電話帳に名前を載せない手数料」みたいのがあって、5ドル50セントも取られていること。確かに5年前の契約の際に、何の気なしに電話帳に名前を載せない手続きをしましたが、このような料金を取られているとは今の今まで知りませんでした。別に僕の電話番号などという個人情報はどうでも良いのに、こんなに取られるのは何だか腹が立ちます。
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